第43話 幸せを探す、彼女と悪魔たちと
荊は涙に濡れたアイリスの目元を親指で拭ってやる。
少女の肩がびくんと震えた。それを認めて荊はばつが悪そうに顔を歪める。怖がらせてしまった。
「ごめん。嫌だったね」
「ち、違!」
アイリスは必死に否定を訴える。
離れて行ってしまった荊の手を取り、絞り出すように謝罪を繰り返した。縋るように添えられた手に込められた力は弱々しい。
「私のせいで、また荊さんが人を、こ、殺すことになったのが――。すみません、本当にすみません」
荊はゆるゆると口元を緩ませる。
状況は笑っていられるようなものではないが、アイリスが人を殺した自分に恐怖するのではなく、人を殺した理由が自分であることに苛まれていることに安心してしまった。
彼女は自分を見限ったのではない、と。
「アイリスのせいじゃないよ。言ってたでしょ? 俺のことを殺したがってた」
「で、でも――」
「それなら、これで俺と君は本当に対等の関係だ。あれは俺たちの敵だった」
荊はそれはそれは優しく、丁寧な動作でアイリスの手を握り返した。
黄緑色の瞳と濃紺の瞳とがお互いの存在だけを映す。
「一方的に俺の思うことを押し付けて悪かったよ。ちゃんと話そう。俺が何を思ってるか話すから、アイリスのことも教えて」
アイリスは小さく頷いた。
先ほどまでの殺伐とした空気はなく、何なら甘やかさまである。荊はアイリスが逃げずに対峙してくれていることに一安心しているし、アイリスも荊が腰を据えて話をしようとしてくれているのが嬉しかった。
何はともあれ、死体を前にしてする話ではないことは確かであるが。
「荊さんは……、私のこと、どう思ってるんですか?」
荊の手の温度を感じながら、アイリスは尋ねた。
聞くのが怖い。それでも聞きたい。朝の浜辺で言った言葉を嘘だと言って欲しい。アイリスの目は溢れかえる感情に混沌としている。
「君はいい子だ。俺は君に幸せになって欲しい」
「そ、そうではなくて――」
「確かに君のことを命の恩人だとは思っていたけど、それを理由にアイリスと一緒にいたんじゃないよ。面倒だとか、邪魔だなんて思ったことない」
荊はよくよくと考えた。
自分が悪人だから、彼女の幸せだから離れるべきだ――そう思ったのは本当のこと。
しかし、彼女が本当に離れて行ったとき、その背中を黙って見送ることができるのか。
自分は本当に彼女を手放せるのか。
できないから、今、彼女の目の前にいるのではないか。
「俺は君のことが」
――好きだから。
荊は口から出そうになった言葉を慌てて呑み込んだ。自分は今、何を言おうとした。
親愛、友愛、好きの意味だって一辺倒ではない。それでも、いつも通りに言えなかったことが自覚の表れだった。
それが特別の意味だと、自分の心が一番に分かっている。
荊はぱたりと押し黙ってしまった。
この感情は素直には言えない。今、言うべきことではない。ただでさえ、思い込みと勘違いで複雑に絡んでしまっているのに、それを更に迷宮化するのは得策じゃない。
では、何と言うのが正しいのか。
考えれば考えるほど、頭は混乱し、顔が熱くなってくる。荊はほとほと困っていた。悪魔使いとして生きてきた今までに、こんな難題とぶつかった試しがない。
「荊さん……?」
アイリスは覗き込むようにして、荊の顔を窺った。
そして、驚きに目を瞬く。
そこには頬を赤く染めて彼女よりも驚いている荊の姿があった。照れているのは一目瞭然で、理由も分かっていないのに彼女にまでそれが伝染する。
アイリスはぼっと発火するように顔を赤に染めた。
「い、荊さん? え、えっと」
アイリスが気恥ずかしそうにもじもじと身体を捩る。初めて見る青年の表情に動揺していた。
荊はこほんとわざとらしく咳払いをする。むずむず。顔に熱が集まっているのが分かった。
それでもこの感情に流されて、話をうやむやにしてしまってはいけない。
「アイリス、俺はね――」
すうと深く息を吸い込んだ。
「俺はこの世界には追放されてきた」
「……はい」
「追放された理由は元の世界では俺を殺せないから。俺は命を狙われてる」
アイリスは真摯に言葉を受け止めていた。
初対面を思い出せば、彼が誰かに命を狙われているのは既知のことである。しかし、そのことについて荊が言及するのは初めてのことだった。
「俺を殺すはずだった首輪はアイリスが壊してくれた。けど、それで終わりじゃない。この世界と俺のいた世界が繋がっていて、俺が生きている以上、俺の命は永遠に処刑対象なんだ」
「……あの、誰が、そんな」
「昨日、話したんだけど覚えてるかな。相手は俺が仕えてた夜ノ森って家」
「え――!?」
「俺は仕事をするだけの駒なのに、余計なことを知ってしまったから。もう使い物にならないって判断されたみたい」
「そ、そんなの……」
自分のことのようにショックを受けているアイリスに荊は微笑んだ。
報われるようだった。
この世界に来たことが不条理だと、仕えていた家に裏切られた惨めな自分という事実から目を逸らしていたが、ようやく向き合えると思えた。
そして、この世界にきて良かったとも。この無垢で愚かな少女に出会えたのだから。
「俺はきっとこれからも命を奪う。人の命かもしれないし、魔物の命かもしれない。理由があってかもしれないし、理由がなくかもしれない」
傲慢な話だ。
悪魔の力を持って、自分が生きるために、自分の都合の良いように、命を奪う。
今だって、殺す必要までは絶対になかったと言い切れる。それでも、殺したのは荊の感覚の問題だ。
邪魔者は殺す。目撃者は殺す。同業者は殺す。
十四年かけて創られた常識。そう簡単に治せるものではない。
「それでも俺の傍にいたい? 君は幸せになれるの?」
荊は至極穏やかである。
尋ねていることは決して明るい話題ではないのに、アイリスに向けられた視線は慈愛に満ちていて、口調は蜜語を囁くようだ。
それは、まるで、愛の告白。
「荊さん」
「はい」
「私は……、荊さんが思ってくれているほど、いい子じゃありません」
アイリスは言葉を選ぶようにして心の内を吐露し始めた。
「今だってそう。あの人が死んだことを悲しむより、貴方が私を助けに来てくれて、こうやって、話を聞いてくれているのが、嬉しいんです」
それでも、荊はアイリスは優しいと言い切れた。
彼女は男の死を悲しまない自分を疎んでいる。目を背けることを悪いことだと思っているのだから。
「私は、荊さんに幸せにしてもらうために傍にいたいんじゃありません。私は私が幸せになるための場所に荊さんの傍を選んだんです」
アイリスは荊の手を握りなおした。勇気をもらうように、祈りを捧げるように。
「素っ気なくされると、寂しくて、興味がないって言われるのは、悲しい、です」
「……うん」
「私が隠しごとをしたら責めてください」
「分かった」
「嘘をついたら怒ってください」
「いいよ」
「離れそうになったら、引き止めてくれませんか」
荊はほうと熱い息をもらす。胸がいっぱいだった。
「俺はきっとこの世界でも死神だ。血塗られた道を一緒に歩いてくれる?」
荊はまるで悪魔のようだ。
手の届かない魂を手に入れるため、契約を交わし、その品位を自分のところまで落とす。
アイリスが荊の手を取り続け、立ち去らないというなら、その命の責任を負う覚悟が彼にはある。同時に、もう逃してもやれない。
くいと荊はアイリスの手を引く。
その力は緩やかなもので、少しでもアイリスが手を逃せば解けてしまいそうだ。
「はい。傍にいさせてください」
アイリスは荊の手を絡め取る。
荊はその繋がった手を自分のもとへと引き寄せた。ぎゅうと抱きしめれば、彼の腕の中から潰れた声がする。
華奢な身体、高潔な魂、清純な瞳――、彼女のすべてが愛おしかった。
「い、荊さん!?」
「アイリスは俺に幸せにしてもらうつもりはないんだろうけど、俺はアイリスを幸せにしたいよ」
この無垢で愚かな少女にずっと笑っていて欲しい。そして、願わくば、その隣にいるのは自分であって欲しい。
「だから、俺のことも幸せにして」
それは切なる願いだった。
荊が知っているのは悪魔使いとしての生き方だけ。その中に幸せになる方法なんてものはない。
何も知らないのだ。生まれたての無知な子供だって彼よりもたくさんの夢といっぱいの希望を持っている。
「――望むところです!」
泣き笑うアイリスに荊も目頭を熱くする。感極まった彼を見て、彼女もまた心を震わせた。そうして、二人は幸せそうに笑い合う。
荊とアイリスのささやかな始まりを見届けたのは、青鈍色の悪魔と物言わぬ死体だけ。
こんなにも輝く感情が自分の中にあるとは知らなかった。
幸せになるために、生きていく。
荊はようやく自分の人生のスタートラインに立った。
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