第40話 独善の死神、愚かな生贄

 今日も先に目を覚ましたのはアイリスだった。

 昨日とは違うのは、アイリスが起きた気配で荊が起床しなかったことだ。アイリスの存在ありきで寝付いたせいか、荊はすやすやと健やかに寝息を立てている。


 アイリスは自分の首元にかかる息と、胸の前に回されている腕に小さく短い悲鳴を上げた。どうしてこんな状況なのかを思い出して、ぐるぐると目を回す。

 首だけで後ろを振り返れば、普段のつかみどころのない飄々とした表情はなく、下ろされた前髪に隠された幼い寝顔があった。


「か、かわ――わっ!」


 アイリスが前髪を避けて寝顔を窺おうとした瞬間、荊の目がぱっと開かれる。

 荊が状況把握に必要とした時間は一瞬だった。


 ぴゃあと跳ねたアイリスは素早く口を塞がれ、自分の口元に人差し指を当てた荊に「しー、ネロ達が寝てるから」と諭される。確かに、アイリスの腕の中では泥のように眠るネロの姿があった。

 アイリスは素早くこくこくと首肯で返事をする。緩やかな拘束はすぐに外された。


 アイリスはばつが悪そうに視線を泳がせた。

 人の寝顔を盗み見ようなど、もし自分がやられたら怒るかも、と思っている分、悪いことをした自覚があった。

 荊はおもむろにアイリスの耳元に口を寄せる。ふ、と吐かれた温かな息にアイリスの肩がぴくんと震えた。


「アイリス。散歩に行かない?」


 内緒のお誘い。

 秘めやかな声は寝起きのせいか掠れていて、普段の荊の声には聞こえなかった。

 アイリスは再度、黙ったまま首だけで返事をした。もちろん、同意の返事である。


 二人は眠る悪魔たちを置いて小屋を出た。

 朝の森は一層に静かだった。森ごと眠りについているかのようにひっそりとしている。遠くから鳥の鳴き声が一つ、沈黙を嫌うように響くがそれに応える音はない。

 肌を撫でる空気は身の危険を覚えるような寒気ではなく、身を引き締まる思いにさせるものだ。


 今は亡き海賊たちが踏み均して作った道は、小屋から海岸まで最短距離であるが、決していい道とは言えなかった。


「気をつけてね」

「は、はい」


 足場が悪いところがあれば、そのたびに荊は足を止めてアイリスを振り返った。幼い子供を相手にするように手を貸し、問題の要所を越えればその手を離して、再び先導者に戻る。


「荊さんって、どうしてそんなに優しいんですか?」


 質問というよりは心の声のようであった。

 荊の背中を見つめながら、アイリスは甚だ疑問だと首を傾げる。


「はは、優しくなんかないよ」


 返答はアイリスが想像した通りのものだった。

 荊はとってつけたような笑い声を止めると感慨深そうに「アイリスの方がよっぽど優しい」と返す。そう告げた声はどの口がそんなことを言うのか、と反論したくなるほど穏やかで暖かだった。


 浜辺に出れば、海岸線には頭を出した太陽がある。

 朝焼けの空はアイリスの髪の色と同じだ。

 青い海も今だけは真っ赤に染められていて、夕日のそれとは少しだけ違う色は、これから一日が始まるのだという熱意に溢れる色だった。

 朝の澄んだ空気が肺に満ちて、呼吸に生きた心地を覚える。


「綺麗ですね」

「うん」


 言葉少なでも、それは嫌な沈黙ではなかった。

 二人は並んで水平線を見ていた。穏やかな雰囲気。

 そうして、太陽が半分も姿を見せた頃にアイリスは「……あの、荊さん」と小さな声で隣の男を呼んだ。

 荊は顔だけを横に向ける。

 朝日に照らされた横顔は感情も見えず、美しい人の模型のようだった。


「わ、私のこと、なんですけど――」


 アイリスは言い淀む。

 恐れ、不安、ためらい。彼女を一目見るだけで感情が手に取るように分かった。


「私、あの……」

「いいよ。言わなくて」


 荊はアイリスの言葉を遮り、たおやかに微笑む。


「へ?」

「俺は過去のことを苦に思ってないから君に話した。でも、アイリスは違うんでしょ? それなら、無理して話すことないよ」


 荊はアイリスが何を話したいのか分かっていた。

 アイリスは与えられたものを同じように返そうとする節がある。礼には礼を。優しさには優しさを。

 荊の孤独な過去の話には、自分の語りたくない過去の話を。


 そして、荊は彼女が自分のことを語りたがらないことも察していた。


「なんで……」

「君は素直な子だ。必要がなくても話せることは話す。だったら、あの日、ここで俺の傍にと言った時、帰る場所がない理由を話したはずだ。話せるならね」

「……」


 沈黙は肯定。

 アイリスは俯き、押し黙った。


「俺はアイリスが隠しごとをしても責めないし、嘘をついても許すよ。傍にいさせて、っていうのが嫌になったら好きなところへ行っていいからね」


 荊は平淡に言葉を連ねる。

 そこには愛着も人情もない。凪いだ口調でただただ静かに事実だけを述べるように壁を作る。


 突然、こんなことを言い出したのは昨日の夜の会話が原因だった。

 荊の頭の中では、兄と慕った人とアイリスが重なって見えていた。実のところ、笑った顔が似ている、という荊の個人的な見解しか類似点はない。

 しかし、一度そう思えてしまうと妄執は簡単に消えてはくれなかった。


 アイリスは幸せになるために生きている。

 ならば、果たして、自分の隣にいて、アイリスは幸せになれるのだろうか。

 そうして、考え込んでいるうちに、荊はすっかりとアイリスと自分が並ぶ未来が見えなくなってしまった。


「君が一人で生きていく力がつくまで、俺を利用したらいい。本当は俺なんかと一緒にいない方が幸せに――」


 なれるはずだけど、とは繋がらず、ぱたりと声が止まる。

 荊の口を覆い隠す小さな手。

 かたかたと震える手は折り重なり、どうにか荊の言葉をせき止めようとしていた。


 驚いたのは荊である。

 自分の口を塞ぐ枷を外すのに力はいらなかった。唐突な妨害行為を不思議に思い、「アイリス?」と優しく尋ねても少女は顔を上げようとしない。


「私は荊さんに隠しごとをされたら悲しいです。嘘を吐かれたら怒ります。傍にいてっていうのが、嫌になって、いなくなっちゃったら――、い、いなく、なっちゃったら」


 言葉尻は震え、とうとう最後を紡げなかった。


「アイリス?」


 荊の問いかけに、アイリスははっとして顔を上げた。

 表情は絶望そのもの。

 彼女の大きく見開かれた目は涙に濡れ、溢れたものが先へ先へと頬を伝っていく。その顔は痛みに耐えるようにくしゃりと歪められた。


 悲壮に染め上げられていた瞳に、呆然とした荊が映る。


「――――、もしかして、荊さん、私のこと、面倒でした、か?」


 アイリスの出した結論は、荊の想像の斜め上を行くものだった。


 荊は考える。すぐには何を言われているのか分からなかった。

 彼女を面倒だと言った覚えはない。では、どうして彼女はそんな妄想に行き着いたのか。


「そうです、よね。へへ、荊さんは、私なんていなくても……、い、いない方が、楽ですもんね!」


 アイリスは次々に落ちる涙を何度も何度も拭いながら、酷く出来の悪い笑顔を浮かべた。

 擦られた目元は赤く染まり、うっすらと腫れている。


 少女の震えた声が「お恥ずかしいです」と自身を責めた。彼女の歪んだ思考を止められるのはこの場に荊しかいないが、彼はまだアイリスの言葉を処理しきれていない。


「私、自分のことしか、考えてなく、て。言われたこと、ぜ、全部本気にして、鬱陶しかったですよね」


 アイリスは消えてなくなってしまいたかった。

 自分に都合のいい話なんてなかったのだ、というショックに加え、荊に必要とされる自分なんていなかったのだ、という事実に羞恥を覚えていた。

 心に穴が空いたような気持ちだ。


 対して、荊はようやくアイリスの思考を理解した。

 ――こんなにも自虐的で、こんなにも健気で、こんなにも愚かなだなんて。

 純真や善良などで片付けられない。言われたのが気に障る言葉だったなら、どうして荊を責めないのか、理由を尋ねないのか。

 何も反せずに自分を卑下する姿はどうにも痛々しい。彼女の思考回路が何かに苛まれているとしか思えなかった。


「アイリス、ごめん。違うんだ」

「い、いいんです。どうせ、私は、役立たずですから。分かってます」

「いいや、分かってない」


 荊は自分の言動を反省したが、彼女がそう発想した起点が分からなかった。ただ、彼女が勘違いをしていることだけは分かっている。

 そして、自分の言葉に傷つく彼女は見ていたくなかった。その思いは彼女が下手くそに笑えば笑うほど強くなっていく。


「まず、謝らせて。俺の言い方が悪かった。君が邪魔だって意味で言ったんじゃない」


 邪魔な人間を傍に置いておけるほど荊の心は広くない。例え相手が命の恩人だろうと、荊は嫌なものは嫌だと断ることの出来る人間だ。


「アイリスだってもう分かってるだろうけど、俺は悪い人間なんだよ。人を殺すのも何とも思ってないし、仕事ならどんなこともする」


 荊の世界とアイリスの世界は決して混ざらない。

 そして、荊という人間が当然とする行為は、アイリスには決して見せたくはないものだと荊は断言できた。

 心優しい少女に汚れた世界を見てほしくない。


「……俺みたいな悪人と一緒にいたんじゃ、アイリスが幸せになれないと思って」


 弱いアイリスが生きるのに、荊はいい後ろ盾になるだろう。ただし、それは長い目で見た時には違うものになっている。

 荊の保護下にいればアイリスは安全であるが、その安全の分だけ彼女は世界から浮く。人間だけでなく、魔物も魔人もいるこの世界でも、悪魔使いである荊の扱う力は異質だ。

 いつか、きっと、荊はアイリスの評価を落とす一因になる。


 荊はアイリスに幸せになって欲しかった。

 そのために、自分の存在は近くにない方が良いと判じたのだ。

 しかし、そんな思いは一欠片もアイリスには届いていない。


「わ、私が、幸せになるために、生きているって、言ったからですか?」

「それは……」

「傍にいさせてくれるって、約束したじゃないですか……。傍に居て欲しいって言ってくれたじゃないですか……」


 アイリスに言わせれば、荊の決断は彼の勝手な思い込みだ。彼が良かれと思った行動だとしても、彼女はそれを望んでいない。

 裏も表もない彼女の意志は、彼女が荊に願い出たことがすべてなのだ。


「君には命を助けてもらった恩が――」

「私が貴方の首輪を外せたから、そう言ってくれたんですか? だから、いつも優しくしてくれたんですか?」


 アイリスは泣き続ける。体の水分すべてを流してしまうのではというくらい、涙はとめどなく落ちていく。


 荊は何も言わなかった――、いや、何も言えなかった。アイリスが自分から離れていくことは望むところであるのに、拒絶と裏切りを積み重ねた悪い別れはしたくなかった。

 それなのに、繕うための言葉が出てこない。


 荊が沈黙を貫いていることが、余計にアイリスを追い込む。


「それなら、もう、いいです。無理させて、すみませんでした」


 意気消沈とした呟き。それは波の音にかき消されるほど小さなものだったが、荊の耳には届いていた。


「私は荊さんを縛り付けるために助けたんじゃないです。貴方に生きて欲しかっただけです」


 アイリスは昨日の夜に戻りたかった。

 もしも戻れるなら、きっと荊の琴線に触れることは決して口にしないと誓えた。

 何を思って生きているかを尋ねられても、考えたことないなどと適当なことを答える。幸せになりたいなどとは絶対に答えない。

 本音を隠しても、苦手な嘘をついても、そっちの方がよっぽど良かった。

 しかし、過去には戻れないのだ。


 アイリスは荊を見据えた。涙で歪んだ視界では荊がどんな顔をしているかも分からない。

 アイリスはただただ悲しかった。

 式上荊という人を信じたすべてが、がらがらと音を立てて無に帰していく。


「い、荊さんなんか……! 荊さんなんか!」


 ぼろぼろと零れる涙は何よりも彼女の心の叫びだった。ひく、ひくと喉を鳴らし、嗚咽を漏らす。

 じっと彼を見つめる黄緑色の瞳は水死体のようだ。


「う、うぅ……」


 結局、アイリスは吐き捨てようとしたその先を言えなかった。

 彼女はくるりと森の方へ身体を向け、逃げるように駆け出す。その足取りは走っているとは思えないほど遅く、重い。弱々しい背中。へし折られた花。


 泣きっ面で走り去っていく少女の背中を見つめながら、荊は唖然とした。度肝を抜かれたと言ってもいい。


「悪口の一つも言えないのか」


 少女の影は森の中に消える。

 昨日、散策した限りでは彼女の命に害のある脅威はなかった。

 荊は嘆息する。

 しばらくしたら、ネロかスカーレットを行かせるのがよさそうだ。どうせ、自分が行っても悲しみを深くさせ、また泣かせて、怒らせるだけなのだから。




 ――何を間違えただろうか。

 荊は大きな流木へ腰を掛けて水平線を眺めていた。いつの間にか太陽はそこから飛び出していて、燦燦さんさんとしている。今日もいい天気だ。

 考える時間が必要なのは彼も同じだった。


 ぼんやりとしていた荊の耳に自然のものではない音が聞こえてくる。

 人間の足音。

 体重は荊よりも重く、慎重な足取り、音を消そうという努力が分かる。無駄なことであるが。

 荊の不意をつこうという動きだ。


 知らぬ人影が攻撃の射程に荊を入れ、今だかかれ、という瞬間――、荊は鎌を握り、自分の背後に振り抜いた。

 がつんと鈍い打撲音が響く。刃の先で切り裂くのではなく、柄の先で殴打したのは荊の気まぐれだった。


「今はあんまり気分じゃないんだけど」


 流木から立ち上がり、自分に危害を加えようとした何者かを見定める。

 とんとんと肩を叩くようにしていた大鎌の動きがぴたりと止まった。


 荊は刮目する。

 奇襲者のその顔に覚えがあった。


「生きていてよかった。ですが、二度と見たくない面でした」


 そこにいたのは人間の男――荊がこの世界に来た日、海賊の手を逃れたアイリスを浚いに来た四人組のうちの一人だった。

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