2:夜
壁に空いた穴に体をねじ込んで、水を溜めた
それから、出入りしやすいように退けておいた藁を寄せ集めて穴の前に積み上げる。そろそろカビ臭くなってきたから、新しい藁に変えたいな……と少しだけ現実逃避をして、それどころじゃないと
昼間から納屋を抜け出したことが
今は納屋の扉に
俺たちは
皆、金色や明るい栗色の髪をしているのが特徴の
俺は不幸を呼ぶと物心ついた時から言われていた。俺を生んだ
他の奴らと似ても似つかない、月も星もない暗闇で染め上げたような髪をした俺は、両親曰く「太陽に呪われているに違いない」らしい。
俺以外の
でも、俺は呪われた夜の髪をしているから、髪を伸ばすのは良くないことらしい。他の奴らなんてうらやましくない。だってあんなに髪が長いと編んだり、結んだり大変そうじゃないか。だから、俺はこれでいい。
「お日様に見つかってはいけないよ。お日様に恨まれているあんたはきっと、お日様に見つかったら焼き殺されちまうからね」
口を酸っぱくしてそう言っていた母親の言いつけを、
何度も明るいうちに外へ出る俺を、
悪いねずみが壁を囓って穴を空けてくれたお陰で俺はそこから外へ出られるんだが……。
畜生とつぶやいて埃っぽい藁の上に寝そべる。
あんなに離れていたのに見つけられるなんて。
最初に出会った頃から、俺はあいつを忘れてなんていない。
俺が今よりもっとチビだったときのこと。まんまるに太った月が、静かに森を照らす夜にあいつと出会った。
昼間は閉じこもっている俺でも、夜は森の中を歩いても良いと言われていた。寝ている兎を捕まえたり、
あの夜は、あいつが立っている場所だけ、もう一つ小さな月が落ちているのかと思うくらい明るかった。
背中まである長い髪の先は、くるくると草のツルみたいに綺麗な円を描いていて、全体がなんだかほんのり明るく光っていた。
湖の畔で、そいつはか細い綺麗な声で歌を口ずさんだ。華奢ですらっとした手が空に伸びて、長い脚が音もさせずに土を踏む。
その度に、髪が生きているみたいにふわりと舞った。
俺も、こんな風に綺麗に踊れたら。鍛錬を積めば、こいつみたいに動けるようになるのか?でも、綺麗に踊れたとしても、呪われた髪の俺はこいつの隣に立てるわけがない。
真っ黒で醜い髪を伸ばしたところで見苦しいだけだと自分に言い聞かせる。
しばらく見とれていると、急にそいつは動くのをやめて辺りを見回し始めた。俺がいることがバレたのかと思って息をひそめると、低い低い唸り声が耳に入る。
俺が登っている木から少し離れた藪の中に爛々と光る二つの光があった。
青ざめて、一、二歩後退りをしたそいつに、藪からゆっくりと姿を現した灰狼はにじり寄っていく。
さっきまでは、あんなに身軽に、美しく飛び回っていたそいつは、飛ぶことも駆けることもしない。よく見れば武器も持っていなかった。
そいつの細くて白い喉から「ひっ……」と声が漏れたと同時に、灰狼が頭を低くして前脚に力を込めた。
「夜、森を出歩くのに武器の一つも持ってないのかよ」
姿を現すのは馬鹿なことだとわかってる。知らないやつが死ぬなんてよくあることだ。
でも、気が付いた時には勝手に身体が動いていた。
無防備に獲物へ飛びかかろうとした灰狼の頭を、手にしていた棍棒でかち割る。油断をしていた灰狼を上から襲うのは簡単だった。
「君……その髪の色」
呆けているそいつに髪の色を指摘されて我に返る。女みたいに綺麗なそいつは、若草色の眼をまん丸に開いて、俺の顔を見つめていた。
「じゃあな!森では気をつけろよ」
それだけいって、俺はそいつに背を向けて走り出していた。せっかく捕まえた
あの時は、バカ正直に知らない
食事をしばらく抜かれて、俺の住む場所は両親と弟たちの住んでいる家から、この納屋へ移された。
今でも俺が捕ってくる
ずっと俺は覚えていた。あの時踊っていたあいつのことを。
噂を確かめたくて、納屋を飛び出した。
そうしたら、本当にあの時森で踊っていたあいつがいた。
少し背丈は伸びていたけど、すぐにわかった。
だって、太陽に愛されたみたいな、誰よりも明るくて透き通った金色の髪。緩やかに巻かれた毛先も、若葉色の瞳も、涼しげなのに優しそうな目元も、薔薇色の唇も……なにも変わっていなかったから。
あいつが回って、あの金色の髪がふわりと舞うと、胸が痛くなる。
指の先まで意識された動きの数々を見ると、息をするのも忘れそうになる。
それも変わらなかった。
街の連中が騒がしいと俺を見張りに来るのが
いつも慌てて扉を開いて、納屋に俺がいるとわかると、ホッと胸をなで下ろす。
「あんたが他の
そういって母親は俺を抱きしめて、父親は俺の頭を撫でる。そして、そそくさと納屋から出て、再びこの納屋に
薄暗くて埃っぽい場所に取り残されて、鼻の奥がツンと痛むのを誤魔化して、遠ざかっていく足音が消えるまで耳を澄ませるのがいつものことだった。
今日もまた
そう高を括った俺は、藁の上に寝そべったままガタガタと音がする扉の方へ目を向けた。
「夜色の髪をした
「は?」
目が眩むかと思った。
そいつは、扉の前にいる
甘い花の香りを漂わせて入ってきたそいつは、寝そべったまま固まっている俺の元まで近付いてくる。そして、俺に向かって綺麗なマメ一つ無い手を差し出して目を細めた。
「僕はフロル・ゾロト。君に命を助けられてから、ずっと会いたかったんだ。名前を教えてくれないか?」
「バド……、俺は、バド・アガート」
自分の手を取らないとわかると、フロルは俺の手首をそっと掴んで優しく引いた。
促されるがままに立ち上がると、気まずそうに顔を伏せた
「君をね、うちに引き取らせてくれないかと話していたんだ。さっき、そう決めた」
「は?」
何を言ってるんだ?という思いを隠さずに、低い声を出してた。でも、フロルは気にとめた様子がない。ニコニコと笑ったまま俺の手を引いて納屋の外へ出た。
太陽に照らされた彼の髪は、納屋の中で見るよりもずっと綺麗で、思わず目を細める。
「黒い髪もとても綺麗だけど、君の瞳も
そんな歯の浮くような台詞、乙女にでも言ってやれよと思いながら、こそばゆい気持ちになる。
俺の目も、髪も夜を思わせて不吉だと言われていたから。
「太陽以外から愛された子は、時折生まれる。僕の曾々々おじいさんが生きていた時だって鮮やかな青い髪をした
髪だけじゃなくて、その活き活きとした表情が眩しくて目を逸らす。
そんな俺の顎をそっと、細くて長い指が持ち上げた。
「ねえ、バド、夜から愛された子。君のことを僕はもっと知りたいんだ」
ああ、そういうことか。
フロルが連れている使用人の一人が、俺の両親に金貨を渡したのが見えた。
物珍しい俺を犬や蟇蛙みたいな
変わった毛並みの
俺自身も、呪われたこの髪の色を知られるのが怖かった。だって俺と同じ
家の窓からは
これで、お前らが街のやつらから石を投げられたり、怪我をさせられないか心配しないで済む。
「やっと解放されるのね」
小さな声でそう漏らしたのは母親だった。ああ、よかった。それだけ思って歩き出す。
俺の手首を掴んでいたフロルの力が少しだけ強くなる。眉を一瞬しかめた気がして、もう一度やつの顔を見たが、いつも通りのヘラヘラした表情に戻っていた。気のせいと言うことにして俺は、二匹の
ばさばさと五月蠅い羽音と共に車が飛ぶ。
俺がさっきまで寝転んでいた納屋も、家族が住んでいた家もあっと言う間に豆粒みたいに小さくなっていく。
フロルが連れてきた使用人たちが、馬に乗って走り出したのが見えた。
このまま丘の方へ向かっていく。
どうやらこの車も同じ場所を目指しているようだ。森を越えて街の上を飛んでいく。
アーチ状になった薔薇の門を越えると、丘の上にある大きな屋敷が見えてくる。
庭はドラゴンが寝そべってもまだ余裕がありそうなくらい広いし、庭の奥に聳えている厳めしい建物だって、立ち上がった巨人くらいの高さがありそうだ。
一体どんな大きさのやつが住んでいるんだ?
きっと見つかったら俺なんてすぐに殺されてしまうに違いない。
こんな場所を飛ぶなんて不用心なやつめ……そう思っていると、車を引いていた
「おい、丘を越えるんじゃないのか?」
「不思議なことを言うんだな、君は。僕と一緒に来たんだ。僕の家へ共に行くに決まっているだろ?」
柔らかくて優しい声が、俺の緊張と混乱でぐちゃぐちゃになった頭の中を掻き回すみたいに響いてくる。
いい年をして泣きそうになりながら、差し出してきたフロルの手を強く握ると、そっと握り返された。
やつが顔をうつむけると、サラサラと金色の髪が俺の手の甲へ落ちてきた。思っていたよりもずっと柔らかくて、少しだけ冷たくて軽い。
「あんたの、家?このデカいのが?」
「ああ、そして、今日から君の家でもある」
ニコニコと笑って頷いたフロルに、俺は半信半疑になる。
俺たちはこんなちっぽけなのに、こんな大きな家なんて必要なのか?
混乱しているうちに、車は大きな庭に降りていた。
数人の従者らしき
「さあ、行こう」
先に降りたフロルが、また俺に手を差し伸べた。
小さな羊に食らいついている
やけに大きな両開きの扉はきらきらと光る石の粉が塗ってある。使用人がここにもいて、二人がかりで扉を開いた。
フロルに手を引かれながら、見慣れない広くて真っ直ぐな廊下を歩いていく。
幾つもの部屋を通り過ぎて、驚いたのはどこにもかしこにもたくさんの
縫い物をしていたり、料理をしたり、掃除をしたり、とにかく家の中にたくさんの
一体どこに連れて行かれるんだ……と飽きてきた頃、一つの扉の前でフロルが止まった。
空みたいに真っ青に塗られた扉を、フロルが手の甲で控えめに叩く。
「お入り」
穏やかなしゃがれた声が聞こえて、フロルは扉を開いた。
立派な白い岩茸の机が目に入る。
室内は、色とりどりの
「おばあさま、こちらが僕の命の恩人です」
フロルがおばあさまと読んだその
少し白濁した青い瞳と、艶を失って色あせた金髪を無造作に後ろで一つにまとめた
「あら、珍しい子ね」
ああ、やっぱりか。
好奇を含んだ言葉に少しだけ眉を顰める。そんな俺に気が付いたのか、
「ああ、ごめんなさいね、夜に愛された髪を持つ子。髪の色のことをいったんじゃないのよ」
申し訳なさそうにしながら、
枯れ枝のように細くて艶を失った手でそっと手招きをされたので、俺はフロルの様子を見ながら一歩だけ
「貴方は
彼女は座ったまま手を伸ばす。
耳元で「おばあさまは足が悪くてね」とフロルが言うものだから、俺は彼女の手が届くところまで仕方なく近寄った。
燻した薬草の香りがする。
今にも折れてしまいそうな、彼女の手が俺の髪に触れた。思わず身体が強ばる。髪に触れられるときは、いつも母親が汚いものを触るみたいな顔をしていたから。
「生きているうちに
慈しむように髪を撫でられたことが初めてで戸惑っていると、フロルがそっと俺の頬に布を当てる。
違和感に気が付いて、自分の頬を撫でる。慣れない手触りだったので気が付くのが少し遅れた。それから目から零れた水滴が頬を濡らしていることに気が付く。
それは止まらなくて、どうすればいいのかわからずに、俺はおろおろと目元に手を持って行く。
「可愛い夜の子、
そっとフロルのおばあさまに抱き寄せられて、俺はいつぶりかわからないくらい久し振りに声を上げて泣いた。
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