浅野の場合-6-

「なぁ、マスター。まとまった金って、どうやったら手に入るのかな?」

 溜息をしながら、そう言ったのはカウンター席に座る一人の男性であった。

 時刻は遡り、本日の午前中――午後になるには一時間程前のことである。開店して、いつも通りの時間を過ごす浅野にとっては、客との談笑も日常の一つだ。客の回転率を重視したチェーン店のような喫茶店では無い。個人営業の喫茶店の強みは、美味い珈琲と落ち着いた雰囲気、そして客との絆だろう。彼自身の経営方針としては回転率も利益も意識していない。寧ろ、重宝するのは今のような客との会話であった。

「どうしたのですか? 溜息を着くと幸せが逃げますよ」

 浅野は洗い終わったカップを拭きながら尋ねる。彼は話し掛けてきた客のことを知っていた。年齢としては三十過ぎぐらいの中年男性。少し長めの黒髪には所々だが白髪混じり、室内の照明に当たると反射して目立つ。顔には口元のほくろが印象的で、薄っすらと見える皺が男の苦労を表現していた。

 知っているとは言え、浅野が持っている情報はこのぐらいだ。余り相手のプライベートの深くまでは入り込まないようにしているので、相手が語らなければ、それ以上の情報は知る方法は無い。

「幸せなんか、既に逃げて後ろ姿も見えないよ」

 男は小さく笑いながら呟いた。そして、首を一度振って口元の笑みを消すと自分が注文した珈琲へと視線を映す。ミルクを入れていない琥珀色の液体は、彼の顔を鏡の様に反射させた。

「では、追い駆けてみては? 必死で走れば、きっと姿形は見えてきますよ」

「それを追い駆ける為には、金が要るんだよ……」

 浅野の言葉に、男は即座に返す。どうやら気休めの言葉を彼は求めていないようだ。

「俺、息子がいるんだけどさ……」

 男は浅野の顔も見ずに語り始めた。その視線は、相変わらず出されてから未だ飲まれることのない珈琲に向けられている。

 本来なら悩み事は居酒屋などで、アルコールの助けを持って吐き出されるのが定石かもしれない。しかし、本当に独りでは抱え切れない悩みを持った時に、人はその様なものの助けを必要とし無いのだろう。抱え切れないからこそ、誰でもいいから聞いて欲しくて、少しでも気持ちを軽くしたくて――

 浅野は自分の仕事を続けながら彼の話を聞くことにした。今の彼に必要なのは、自分の話を聞いて反応する人形だろう。真剣に向かい合う事を、きっと彼は必要としていない。自分の抱え切れない悩みを、一度吐き出すことによって軽く出来れば良いのだ。

 幸いなのか、不幸なのかは解らないが店内には客はいない。他の客の対応が無ければ、男の悩みは真っ直ぐに浅野の耳へと届いた。

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