第26話 回避大作戦1 〜コーヒー〜
不安なことがあった。
たいしたことじゃない、本当に些細なことなんだけど。
昨日の『僕』は、目覚まし時計をセットして寝ただろうか?
*
ピピピピピピ、という無機質な電子音によって、僕は夢から現に引き戻された。
夢といっても、
「目覚まし時計はセットしたか?」
「はいはい、してないよ」
「どっちだよっ!」
「大丈夫だよっ!」
そんな感じで二人の僕が延々、討論しているだけの夢だけど。
目が覚めて、心底ほっとした。
「六時……」
時計の針は六時ぴったりをさしていた。
カーテンを開けると眩しい日差しが部屋に降り注ぎ、向かい側の部屋のカーテンが小さく揺れ動いた。
「悠花……ゆうか、ゆうかっ!」
生きてる……いや、当然だけど。生きてる、間に合ったんだ!
ベッドから飛び降り、階段すらも飛び越える。
「こらっ、健! あんた、朝からバタバタと……」
「なんだぁ、うるさいなぁ」
両親の寝室を抜けて玄関のドアを開くと、太陽の光が僕を照らした。
心地よい朝、23日の土曜日だ。
サンダルのまま玄関を飛び出し、向かい側の家へ走る。ベルを連打しドアを叩くと、悠花の母親が出てきた。
「あら、健くん。こんな朝からどうしたの?」
悠花のお母さんは既に起床済みだったようだ。綺麗に束ねた長い髪に、うっすら化粧。
微かに味噌汁の匂いがした。
「悠花ちゃんいますか?」
「まだ部屋から出てきてないけど、今日学校に行くから、そろそろ起きてくるんじゃないかしら?」
「それ、何時からですか?」
「え?」
「何時に学校集合って、悠花言ってました?」
「ええっと、確か、九時だったかしら」
じゃあ八時半に出れば十分だ。余裕を持って八時には家を出たい。
行くなと言っても悠花は聞かないだろう。母さんの言葉が正しいなら、昨日の『僕』は悠花に行くなと懇願している。
それでも悠花は行くことを決意したのだ。
決定は覆っていない。それならば僕の役目は、学校出発の貸切バスに悠花を無事に乗せることだ。それさえ達成できれば大丈夫。もし間に合わなかったとしてもバスにさえ乗らなければ大丈夫。
悠花は助かる、僕が死なせない。
「た、健くんっ!」
そんなことを考えている間に、パジャマ姿の悠花が階段から駆け下りてきた。
玄関に立つ僕の姿を認めて萎縮し、慌てて手櫛で髪を正す。普段見るツインテールより少し、長い気がした。
「ぐ、偶然だね、健くん! おはよう!」
「なに言ってるの、悠花ちゃん。偶然じゃなくて健くんが来てくれたのよ」
「えっ? あ、そうだねっ! 必然だね、健くんっ!」
「寝ぼけてるの、悠花ちゃん。顔洗ってきたら?」
「よだれついてる?」
「ついてないけど……」
「もう、変なこと言わないでよ、お母さん! いいから、あっち行ってて!」
恥ずかしそうな悠花が母親の背中を押し、廊下の向こうへ追いやる。
姿が見えなくなったところで、僕のほうに向き直った。
「おはよう、健くんっ!」
「おはよう、悠花」
生きていてよかった……今はそれしか考えられない。
本当に、生きててよかった。
「ぐ、偶然だよね! どうしたの、こんな朝からっ!」
悠花はどうしても、朝の出会いを偶然と結び付けたいらしい。
言いたいことはたくさんあるが、今は時間が惜しい。
「悠花、野鳥を見る会は九時からだよね?」
「え? そうだけど……いいの? 健くん、昨日あんなに行くなって反対してたのに」
「いいんだ、僕が悠花を守るから」
「……うん?」
「とにかく急いで! 八時には出るよ!」
「八時って早い……えっ、もしかして健くんも一緒に行くの?」
「学校まで! バスが出るとこまで見送るだけだからっ! 悠花は僕がいないほうがいいんだろ?」
「健くんがいないほうがいいなんてことはないけど……でも今回は、うん、健くんは卓球部の幽霊部員で文化部じゃないし、部外者だし、わたし一人で行ってくる!」
「失礼なこと言われてる気がするけど、とりあえず今は気にしないっ! 八時にまた迎えに来るから、準備しててっ!」
「かしこまりですっ!」
ビシッと、敬礼の挨拶をした悠花が踵を返し、バタバタと階段を登っていく。その背中を見送ってから、僕も自分の家に戻った。
時刻は午後六時十五分、三時間後にはバスが出てる。
三時間後には、結果が出てる。
大丈夫、だいじょうぶ、大丈夫。
胸の鼓動がうるさかった、拳を握りしめドンっと胸を叩く。
顔を上げると晴れ渡った空が、雲ひとつない青空が心地良くて。
みてろよ、未来の『僕』
悠花を守るのは、僕だ。
心の中でそう、呟いた。
*
八時ちょうど、再び悠花の家の玄関の前に立った僕がインターホンを押す。と同時に、悠花が飛び出してきた。
「お、おはようっ、健くんっ!」
野鳥を見る会は私服で行われるらしい。白いブラウスにタイトなジーパンというボーイッシュな格好の悠花を見るのは初めてで、息を呑んでしまった。
しかしすぐに、そんな場合ではないと思い直した。
悠花の手をとって走り出す。
「走るの? 健くん、走るのっ?」
背中に聞こえる悠花の声で、僕は立ち止まった。
そうだ、走る必要はない。学校まで二十分あれば着く、四十分も余分時間があるのだから、焦る必要はない。
むしろ走って転んで怪我して戸惑って……とか、そっちのほうが問題だ。
「ごめん。歩こうか、ゆっくり……歩いて行こう」
僕の言葉に、悠花は嬉しそうに笑顔を咲かせた、見慣れた悠花の表情。
僕はずっと悠花のことが好きだった。
モテ期なんてもうどうでもいい、悠花さえいればいい。僕は本当に、悠花のことが好きなんだ。
繋いだ手は離さなかった。暑さで手のひらが滲んだが、悠花が手を握り返してくれた。
大通りに出て信号を待つ。以前、手を繋いだときにはここで手を離した。だけど今日は大丈夫、何があっても離さない。
信号が青に変わる。
ゆっくりと歩みでる僕と悠花、まばらな人通りも一緒に流れる。
ほら、大丈夫。信号だってこうやって渡切れる。障害物は何もない……。
そう、油断していた。
「わっ、すみませんっ!」
それは道路の反対側から歩いてきていた男の声だった。
くたびれたスーツに身を包んだ二十代後半くらいの男は片手にアイスコーヒーのカップを持っていて、中身が溢れて悠花の白いブラウスを濡らしていた。
肩から脇腹にかけて、コーヒーの茶色が染み込んでいく。
ぶつかりやがった……こいつ、ぶつかった拍子に悠花にコーヒーかけやがった。
しかも白いブラウス。
悠花の顔色を窺うと、真っ青になって茶色く染まった部分を見ていた。
「あのっ、えっと、クリーニング……あっ、とにかく渡りましょうか」
男に促され、僕らは歩道に戻った。
信号が赤に変わり、車が流れ始める。
「すみません、本当すみません。ぼーっとしてて」
ぺこぺこと頭を下げる男に腹を立てていないわけではない。
だけど今、僕が問題にすべきはそこではなく……。
「悠花。学校、行こう」
そういえば、いつの間にか繋いだ手は離れていた。
悠花はうつむいたまま、「いや」と呟く。
「一回、おうちに帰る」
「…………」
そりゃそうだ。こんな姿でイベントに行くとか、女の子じゃなくてもそんなのは嫌だ。
だけど僕としては一刻も早く学校に着きたい。
「は、早めに出ておいてよかったねっ! 時間あるし一回帰ろう、健くん。あ、クリーニングは大丈夫なので、気にしなくていいので」
男に頭を下げ、悠花は来た道を走って引き返した。
「は、走るなっ! 悠花、ストップ!」
ピタリと足を止めた悠花が、静かに振り返る。その笑顔に花は咲いていない。
無理をして笑っているのが、嫌でも伝わってきた。
「走ると転ぶから歩いて……ゆっくり歩いて行こう」
仕方ない、大丈夫、時間はある……大丈夫。そう言い聞かせて、悠花の後を追って歩いた。
この時点で八時十分過ぎ。悠花が家に戻ってから五分が経過して八時二十分。
再び玄関のドアが開いたのは、八時二十五分を過ぎてからだった。
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