第26話 回避大作戦1 〜コーヒー〜



 不安なことがあった。


 たいしたことじゃない、本当に些細なことなんだけど。

 昨日の『僕』は、目覚まし時計をセットして寝ただろうか?



 ピピピピピピ、という無機質な電子音によって、僕は夢から現に引き戻された。

 夢といっても、

「目覚まし時計はセットしたか?」

「はいはい、してないよ」

「どっちだよっ!」

「大丈夫だよっ!」

 そんな感じで二人の僕が延々、討論しているだけの夢だけど。

 目が覚めて、心底ほっとした。


「六時……」


 時計の針は六時ぴったりをさしていた。

 カーテンを開けると眩しい日差しが部屋に降り注ぎ、向かい側の部屋のカーテンが小さく揺れ動いた。


「悠花……ゆうか、ゆうかっ!」


 生きてる……いや、当然だけど。生きてる、間に合ったんだ!

 ベッドから飛び降り、階段すらも飛び越える。


「こらっ、健! あんた、朝からバタバタと……」

「なんだぁ、うるさいなぁ」


 両親の寝室を抜けて玄関のドアを開くと、太陽の光が僕を照らした。

 心地よい朝、23日の土曜日だ。

 サンダルのまま玄関を飛び出し、向かい側の家へ走る。ベルを連打しドアを叩くと、悠花の母親が出てきた。


「あら、健くん。こんな朝からどうしたの?」


 悠花のお母さんは既に起床済みだったようだ。綺麗に束ねた長い髪に、うっすら化粧。

 微かに味噌汁の匂いがした。


「悠花ちゃんいますか?」

「まだ部屋から出てきてないけど、今日学校に行くから、そろそろ起きてくるんじゃないかしら?」

「それ、何時からですか?」

「え?」

「何時に学校集合って、悠花言ってました?」

「ええっと、確か、九時だったかしら」


 じゃあ八時半に出れば十分だ。余裕を持って八時には家を出たい。

 行くなと言っても悠花は聞かないだろう。母さんの言葉が正しいなら、昨日の『僕』は悠花に行くなと懇願している。

 それでも悠花は行くことを決意したのだ。

 決定は覆っていない。それならば僕の役目は、学校出発の貸切バスに悠花を無事に乗せることだ。それさえ達成できれば大丈夫。もし間に合わなかったとしてもバスにさえ乗らなければ大丈夫。

 悠花は助かる、僕が死なせない。


「た、健くんっ!」


 そんなことを考えている間に、パジャマ姿の悠花が階段から駆け下りてきた。

 玄関に立つ僕の姿を認めて萎縮し、慌てて手櫛で髪を正す。普段見るツインテールより少し、長い気がした。


「ぐ、偶然だね、健くん! おはよう!」

「なに言ってるの、悠花ちゃん。偶然じゃなくて健くんが来てくれたのよ」

「えっ? あ、そうだねっ! 必然だね、健くんっ!」

「寝ぼけてるの、悠花ちゃん。顔洗ってきたら?」

「よだれついてる?」

「ついてないけど……」

「もう、変なこと言わないでよ、お母さん! いいから、あっち行ってて!」


 恥ずかしそうな悠花が母親の背中を押し、廊下の向こうへ追いやる。

 姿が見えなくなったところで、僕のほうに向き直った。


「おはよう、健くんっ!」

「おはよう、悠花」


 生きていてよかった……今はそれしか考えられない。

 本当に、生きててよかった。


「ぐ、偶然だよね! どうしたの、こんな朝からっ!」


 悠花はどうしても、朝の出会いを偶然と結び付けたいらしい。

 言いたいことはたくさんあるが、今は時間が惜しい。


「悠花、野鳥を見る会は九時からだよね?」

「え? そうだけど……いいの? 健くん、昨日あんなに行くなって反対してたのに」

「いいんだ、僕が悠花を守るから」

「……うん?」

「とにかく急いで! 八時には出るよ!」

「八時って早い……えっ、もしかして健くんも一緒に行くの?」

「学校まで! バスが出るとこまで見送るだけだからっ! 悠花は僕がいないほうがいいんだろ?」

「健くんがいないほうがいいなんてことはないけど……でも今回は、うん、健くんは卓球部の幽霊部員で文化部じゃないし、部外者だし、わたし一人で行ってくる!」

「失礼なこと言われてる気がするけど、とりあえず今は気にしないっ! 八時にまた迎えに来るから、準備しててっ!」

「かしこまりですっ!」


 ビシッと、敬礼の挨拶をした悠花が踵を返し、バタバタと階段を登っていく。その背中を見送ってから、僕も自分の家に戻った。

 時刻は午後六時十五分、三時間後にはバスが出てる。

 三時間後には、結果が出てる。


 大丈夫、だいじょうぶ、大丈夫。


 胸の鼓動がうるさかった、拳を握りしめドンっと胸を叩く。

 顔を上げると晴れ渡った空が、雲ひとつない青空が心地良くて。


 みてろよ、未来の『僕』

 悠花を守るのは、僕だ。


 心の中でそう、呟いた。





 八時ちょうど、再び悠花の家の玄関の前に立った僕がインターホンを押す。と同時に、悠花が飛び出してきた。


「お、おはようっ、健くんっ!」


 野鳥を見る会は私服で行われるらしい。白いブラウスにタイトなジーパンというボーイッシュな格好の悠花を見るのは初めてで、息を呑んでしまった。

 しかしすぐに、そんな場合ではないと思い直した。

 悠花の手をとって走り出す。


「走るの? 健くん、走るのっ?」


 背中に聞こえる悠花の声で、僕は立ち止まった。

 そうだ、走る必要はない。学校まで二十分あれば着く、四十分も余分時間があるのだから、焦る必要はない。

 むしろ走って転んで怪我して戸惑って……とか、そっちのほうが問題だ。


「ごめん。歩こうか、ゆっくり……歩いて行こう」


 僕の言葉に、悠花は嬉しそうに笑顔を咲かせた、見慣れた悠花の表情。

 僕はずっと悠花のことが好きだった。

 モテ期なんてもうどうでもいい、悠花さえいればいい。僕は本当に、悠花のことが好きなんだ。


 繋いだ手は離さなかった。暑さで手のひらが滲んだが、悠花が手を握り返してくれた。

 大通りに出て信号を待つ。以前、手を繋いだときにはここで手を離した。だけど今日は大丈夫、何があっても離さない。

 信号が青に変わる。

 ゆっくりと歩みでる僕と悠花、まばらな人通りも一緒に流れる。

 ほら、大丈夫。信号だってこうやって渡切れる。障害物は何もない……。


 そう、油断していた。


「わっ、すみませんっ!」


 それは道路の反対側から歩いてきていた男の声だった。

 くたびれたスーツに身を包んだ二十代後半くらいの男は片手にアイスコーヒーのカップを持っていて、中身が溢れて悠花の白いブラウスを濡らしていた。

 肩から脇腹にかけて、コーヒーの茶色が染み込んでいく。


 ぶつかりやがった……こいつ、ぶつかった拍子に悠花にコーヒーかけやがった。

 しかも白いブラウス。

 悠花の顔色を窺うと、真っ青になって茶色く染まった部分を見ていた。


「あのっ、えっと、クリーニング……あっ、とにかく渡りましょうか」


 男に促され、僕らは歩道に戻った。

 信号が赤に変わり、車が流れ始める。


「すみません、本当すみません。ぼーっとしてて」


 ぺこぺこと頭を下げる男に腹を立てていないわけではない。

 だけど今、僕が問題にすべきはそこではなく……。


「悠花。学校、行こう」


 そういえば、いつの間にか繋いだ手は離れていた。

 悠花はうつむいたまま、「いや」と呟く。


「一回、おうちに帰る」

「…………」


 そりゃそうだ。こんな姿でイベントに行くとか、女の子じゃなくてもそんなのは嫌だ。

 だけど僕としては一刻も早く学校に着きたい。


「は、早めに出ておいてよかったねっ! 時間あるし一回帰ろう、健くん。あ、クリーニングは大丈夫なので、気にしなくていいので」


 男に頭を下げ、悠花は来た道を走って引き返した。


「は、走るなっ! 悠花、ストップ!」


 ピタリと足を止めた悠花が、静かに振り返る。その笑顔に花は咲いていない。

 無理をして笑っているのが、嫌でも伝わってきた。


「走ると転ぶから歩いて……ゆっくり歩いて行こう」


 仕方ない、大丈夫、時間はある……大丈夫。そう言い聞かせて、悠花の後を追って歩いた。

 この時点で八時十分過ぎ。悠花が家に戻ってから五分が経過して八時二十分。

 再び玄関のドアが開いたのは、八時二十五分を過ぎてからだった。

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