第36話 復縁

 明日、テスト一日目を控えた今日、放課後になって、常葉は妙に手汗をかいていた。

 しかし、それも当然と言える。

 今日、常葉はようやくにして、会長と話す機会を得ることが出来たのだ。

 心の準備とやらはとうの昔に固まっていたと自負していたが、いざその時を前にしてみると、なるほどそんなことも無かったと思い知らされる。

 正直、勉強どころではなかった。

 ただ、話をつけてくれた藍川には感謝しかない。


「おいおい、なに険しい顔してんだよ」


 と、帰りの挨拶が終わっても未だ腰掛けている常葉に、話し掛けてくる声が一つ。

 常葉は、そちらへ顔を向ける。


「なんだよ、涼」


 ニヒッと笑う涼のうるさい笑顔が、そこにはあった。


「そんなに明日のテストが不安か? 俺は珍しく不安じゃないね。なんたって最近まで狂ったように勉強してたからな。今はそこまでやる気も無いが」

「そうだね。ほんとに狂ってたよ」

「うっせーな」

「進路は? どうするの?」

「んー、まあそれはまだ考え中だな。別に時間がないわけじゃねぇし」

「ま、それもそうか」

「で、何で緊張してんだよ、常葉は」

「気にしないで」


 常葉はそう言って勢いよく立ち上がった。


「うおっ!? 何だよ、急に立つなよ」

「今から行くとこがある。どいてくれ」

「はぁ? 何か様子変だぞ。気持ちわりぃな」


 涼の言葉を無視して、常葉はカバンに荷物を詰め込んでいく。手早く作業を終えると、カバンを背中に背負った。


「じゃ、そういうことで」

「おいおいおい、ちょっと待てよ」


 すかさず涼が常葉の肩を掴む。


「離してくれ」

「そうは行かんな。さすがに怪しすぎる」

「後日……後日話してやる」常葉は首を回して涼に問う。「これでじゃ駄目か」

「……仕方ないな。それで許してやる」


 そう言うと涼は手を離した。

 常葉は涼の顔をマジマジと見つめる。


「……? 何だよ」

「ありがとね」

「は?」

「それじゃ」


 後ろから「意味が分からん」と言葉が飛んできたが、常葉はそれを無視して廊下へ出た。

 黒河内との指導の中で、常葉への悪口が飛び出るたびに、涼がすかさず反論していたことを、盗聴器の中身を聞いた常葉は知っていた。

 まだきちんとお礼を出来ていない。

 いつかしなくては行けないが、今日はせめて勘弁して欲しい。

 常葉はそう言い訳しながら、生徒会室へ向けて足を運びだした。




 コンコン、と。

 扉をノックした手はかなり震えていた。気持ちを落ち着かせる間もなく、中から「はーい」と声が聞こえてくる。聞き間違いようのない、会長の声だった。

 取っ手に手を掛け、ゆっくりとスライドさせる。開け終えるまでの体感時間が妙に引き延ばされている。緊張が体を駆け回って、動悸が激しくなる。

 常葉は何とか喉を搾り出して、声を上げた。


「し、失礼します……」

「どうぞ」


 と、口の字型の奥の席に腰掛けていた会長が、明るい声で常葉を招き入れた。常葉は扉を閉めると、腰掛けることもできず、その場で立ち尽くしてしまった。

 頭が真っ白だった。

 会長を直視できず、埃一つない床を見つめている。

 すると正面から椅子が動く音がしたかと思うと、段々と足音がこちらへ近づいて来て、それは常葉の目の前で止まった。床だけが写っていた視界に、会長の足が姿を見せる。


「一之瀬くん」


 かなり近いところで、目の前で、会長の声がする。


「は、はい」

「顔を上げてください」


 優しげな声で囁かれて、常葉は従うしかなかった。恐る恐る顔を上げていく。

 会長の白いブレザー、肩から下がる髪の毛が順に視界に入り、そして順に出て行く。

 そして最後に、会長の顔が視界に映った。

 会長は笑っていたが、みるみる内に泣きそうな表情に変わっていった。


「……会長?」


 常葉が声を上げた途端、会長の体温を全身で感じた。

 抱き締められたと分かるまで、少し時間を要した。

 常葉のすぐ隣で、会長がすすり泣く音が聞こえる。


「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も嗚咽交じりに謝る声が聞こえた。


 常葉は抱き締め返すこともできずにしばらく立ち尽くすしていたが、いつしか自分の目からも涙が出ていることに気付くと、後は決壊したダムの様に、壊れたロボットの様に、常葉も「僕の方こそごめんなさい」と謝り続けた。気付けば二人とも床にへたり込みながら、ただ涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 落ち着いたのはそれから数十分後のことで、常葉も会長も、両目が真っ赤にはれ上がっていた。


「ご、ごめんね、取り乱しちゃって……」


 会長が適当な椅子に腰掛けながら、赤い目をこすって恥ずかしそうに口にした。


「い、いえ。僕のほうこそ」


 常葉も大して変わらない反応を返す。

 そして、沈黙。

 何を話せばいいのか分からなかった。

 必死で頭を回転させる。


「あ、そういえば」

「なに?」

「やっぱりまた、生徒会長をやるんですね」

「ああ、まあね」会長は微笑んだ。「やっぱり、私といえば会長かなって」

「どういう意味ですか?」常葉は笑った。

「一之瀬くんこそ、やっぱり辞めたね、生徒会」

「……ええ。今回の件が無かったとしても、たぶん続けてなかったと思います」

「だろうね。君は自分の居場所を見つけたんだから」

「そんな大層なものじゃないですよ」

「もうあの時の、何となく勉強をしてたころの一之瀬君とは、違うんだね」


 会長は、常葉を生徒会に誘ったときのことを思い出しているのだろう。


「そういえば、どうしてあの時、僕を生徒会に誘ったんです?」

「うーん」会長は顎に手を当てる。「なんでだろう……たぶん直感で、馬が合いそうだなって、思ったのかもね」

「僕たち、馬合ってます?」

「これから合うよ」会長は笑いながら言った。

「え、今までは合ってなかったんですか?」

「逆にあってたと思う?」

「……いや、合ってなかったですね」


 常葉がわざと神妙な顔をしてそう言うと、会長は声を上げて笑った。

 しばらくして常葉も堪えられなくなり、つい「プッ」と吹き出した。


 

    ***



 生徒会室を後にして、常葉が昇降口へ向かう途中、廊下で黒河内とすれ違った。

 お互い目が合っただけで、それ以上のやりとりはありえない。

 別に仲がよくなかったわけでもないのだ。会話が生まれるほうがおかしい。

 けれど、気にならなくはなった。

 生徒と教師。それが普通の状態だろう。

 その普通の状態になることが出来たのだ。

 それで十分すぎるだろうと、常葉は思った。

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