第19話 変わらないものと変わるもの

 亘のもとを訪れたのは、以前の職場の上司。

 研究所の所長だった。


「やあ。岸田君。久しぶりだね。会えてうれしいよ」


 所長が笑顔で言う。


 眼鏡をかけた、実際の年齢よりもずっと若く見える容貌。

 ゆるやかなくせ毛は豊かで、年齢の割に白髪が目立つ。

 どこか浮世離れして、おっとりとした佇まい。

 夢見るような眼差し……。


 深い懐かしさと、親近感を覚える。

 久しぶりに会ったということだけが理由ではないだろう。

 今、目の前に、志を共にする者が現れたのだ。


 その彼が、打ち解けた笑顔を向けてくる。


「はい。御無沙汰いたしました」


 亘は、彼の顔を見た途端、過去のわだかまりが消えていくのを感じた。

 苦い思い出は去り、懐かしさだけがこみ上げてくる。

 

 以前、茂が訪問した時に、


 “自分はこのままでいい”


 と、言ったことを思い出す。


 坂本を尊重するつもりで言った言葉だが、自分を解雇した組織に対する反感もあったのだ。

 

 今さら……

 そんな気持ちだった。


 だが、今、再開を心から喜ぶことができる。


「お母さん。所長を居間へ案内していただけませんか?」


「わかったわ。お茶を用意させましょうか?」


 母に尋ねられ、


「お願いし……」


 と、言いかけて、


「……いえ。……僕が、僕が淹れます」


 と、言った。


 居間で所長が待っていた。

 人目を気にしながらも、きょろきょろと周囲を見渡している。


「紅茶はお好きですか?」


「好きだよ。でも、私はあまり詳しくないんだ」


「そうですか。この季節は、やはりダージリンの夏摘みセカンドフラシュッをお勧めしたいですね。人によっては渋みが気になるようですが、今、手元にあるものはクセが少なくて飲みやすいものです。待っていてください」


 そう言って、亘は茶缶を持ってきた。


「タルボ農園のものです。今年はこの農園の茶葉の出来が良かったんですよ。天候などの事情で、その年によって変わります。ご覧になりますか?」


 所長が大きく頷くと、亘は缶を開けて茶葉を見せた。


「驚いたね! こんなに一つ一つの葉が大きいんだ!」


「はい。茶葉が大きいほど、味がまろやかになります。クローナル種ですし……」


「クローナル種?」


 所長が興味深げに茶缶を覗き込んだ。


「はい。ダージリンは本来中国種なのですが、それをぎ木で品種改良したものが、クローナル種です。中国種よりも渋みが少なく、柔らかい味わいが特徴です。それにこれは、新芽が多く含まれていますから、いっそうです」


「ふーん。それは楽しみだ!」


 目を子どものように輝かせながら、所長が言う。


「では、少しお待ちください」


 亘はキッチンへ行くと、茶を淹れ始めた。

 沸かしたての湯。温めたポット……。

 慣れた手つきで、作業を進める。


「この室温では、カップを温める必要はないな」


 ポットにカバーを被せる。

 ポットとカップに砂時計を添え、トレーに乗せて居間へ運んだ。


「お待たせいたしました。先ほど砂時計をセットしました。落ち切った時が飲み頃です」


「ほほぉ……こんな風に飲むのは初めてだよ」


 キラキラとした目で、待ち遠しそうに砂時計を見つめている。


 まるで子どものように……。


(この人は変わらない)


 純粋な探求心と、人の好い笑顔。

 亘は、相手に気づかれぬように小さく笑う。



 夜更けまで、文献について語り合った日々が蘇る。

 そのまま朝を迎えてしまうことも珍しくはなかった。

 研究所は充実感に満ち、皆が自分の力を信じていた。

 望めば世界を変えることさえできる……。

 誰もがそんなことを考えていた。

 

 だが、無力だった。

  

 現実の前には……。




「砂時計が落ち切りました。飲み頃です」


 茶をカップに注ぐ。


 爽やかな果実の香り。澄んだオレンジの水色すいしょくが、カップを満たしていく。


「どうぞ」


「では、いただきます」


 所長は、興味深げに茶を眺めた後、カップに口を付けた。


「これは美味しいね!」


 声を上げる。


「味わい深いのにクセや渋みがない。それに果物の香りもする」


「ありがとうございます。その風味は、“マスカテルフレーバー” といいます」


「ほー!」


「では、僕も……」


 豊かな風味と芳香。


(いつもより、いっそうだな。さすが父さんの見立てだ……)


 いや、違う。


 共に飲む相手によって、これほど味が変わるとは……。


 そのことを亘は初めて知った。



 所長は、しみじみと味わった後、




「……君が、カフェの店長をしていると人づてに聞いたときは驚いたが……」


 と、言いかけ、言葉を止める。

 

 亘は予感した。

 

 今、話が本題に入ろうとしていることを……。



「あのときは本当にすまなかった! 私の力が足りないばかりに……」


 突然、所長が深々と頭を下げた。


「そんな! やめてください。頭を上げてください!」


 高名な教授の後任として、当時三十代だった彼が所長に就任した。

 だが、研究者としても、経営者としてもやり手だったリーダーを失い、研究所は見る見る間に窮地に立たされた。そして、それを救ったのが坂本だったのだ。


「僕こそ……」


 当時の亘は、非常勤の研究者でしかない。


 二人は、あまりにも非力だったのだ。


「実はね。坂本さんが定年退職したら君を呼び寄せるつもりだったんだ」


「……」


「だが、君の研究は認められつつある。君は、退職後も研究を発表し続けていた。一人で努力を重ねていたのだね。……嬉しかったよ」


 彼は、退職後の亘の活動にも気を配っていたという。


「坂本君は、もう君の敵ではないのだよ。私も以前の私ではない」


 所長は続ける。


「だから、君は今すぐにでも戻れる。私も手を貸す。彼が妙な気を起こさないように、君がしかるべきポジションに就けるようにも動く」


 向けられた子どものような瞳。


(この人は変わらない……だが……以前とは何かが違う。自分も……)



 茂に事の真相を始めて聞かされたとき、自分の無力さを思い知らされた。


 “坂本さんがいなくなれば研究所は回らなくなる”


 茂に向けた言葉は、本心からのものだった。


 だが、あの時乗り越えられなかったことも、今なら成し遂げることができるかもしれない。

 自分たちは、あの頃のままではないはずだ。

 

「考えさせてください」


 亘は言った。


「良い返事を待っている」


 二人は和やかに別れを告げる。

 所長は人懐こい笑顔で手を振り、亘はそれを見送った。


(こんな気持ちで、この人と会話をすることができるなんて……)


 研究所を退職するときの苦い気持ちを、今は思い出すことさえ出来なかった。




 数日後、亘はles quatre saisonsへ戻り、いつも通りに仕事をした。

 茶を淹れ、食事を作り、商品の管理をした。

 だが、帰省前とは何かが違う。


 茶葉の在庫と品質のチェックをする。

 米三がやっておいたのだろう。何一つ不足はなかった。

 掃除も行き届き、棚の僅かな隙間にも塵一つない。

 

 米三が茶葉を慎重に点検している姿が目に浮かぶ。


 彼は亘が生まれる前から、紅茶に携わって来たのだ。

 亘が到底勝てる相手ではない。



 フロアに目をやると、茉莉香が給仕をしていた。

 忙しくても、決してそれを見せない。

 いつも笑顔で、てきぱきと仕事をこなす。 




 初めて茉莉香が、店に訪れてからの時間を思った。


 その間、彼女は成長した。

 翻訳の仕事も順調だと聞く。


 亘も茉莉香の翻訳した本を読むが、経験を重ねるほどに実力を身に着けていることがわかる。


 maricaマリカの茶缶の少女像に目をやる。

 それは初めて会った日の、あどけない茉莉香を思い出させた。

 だが、今、茉莉香は、一人の女性として花開こうとしているのだ。

 もう、自分の助けを必要とすることもない。


 いや、むしろ助けられていたのは自分だったのだ。

 孤独な研究生活を支えてくれたのは、茉莉香であり、この店、そして訪れる客たちだったのだ。


 茉莉香の未来を思う。

 共に生きる相手が、夏樹であり、二人が幸せになってくれることを願った。


「亘さん。アッサムをお願いします」


 茉莉香の声が、小さく声が弾む。


「了解!」


 そう言って、亘は茶葉の計量を始めた。









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