第13話 ウヴァの香りに

 茉莉香と亘は、厨房でウヴァの試飲をしていた。


「今年のウヴァはいいねぇ。フラワリーな香りといい、メントールの風味といい……」


 亘が言うと、


「本当に。特にメントールの香りが……例年よりも、一層爽やかです」


「そうだね。ウヴァはミルクティーにしてもいいけど、クオリティシーズンのものは、ストレートの方が断然美味しい。特に今年はそう思うよ」


 ウヴァティーは、世界三大銘茶の一つで、スリランカ産の茶葉だ。

 フラワリーな香りと、メントール系の爽やかさが特徴とされる。

 クオリティシーズンは、八月から九月。

 les quatre saisonでは、秋が深まるこの季節に提供している。



「茉莉香ちゃん。翻訳の仕事の調子はどうだい?」

 

 茉莉香は、樫木から短編小説の翻訳を依頼されている。


 育修社の文芸雑誌“Sofiaソフィア”に掲載されるものだ。

 Sofiaが取り扱うのは、日本の書き下ろしの文芸作品が主流だが、時折、海外の作品も載せる。


「はい。もうすぐ終わります。小説の翻訳は初めてなので緊張します」


 茉莉香が、やや顔をこわばらせて言うと、


「はは。そんなに緊張しないで。どんな作品なんだい?」


 亘が笑いながら言う。


「はい。どちらかというと、親しみやすいと言うか……」


 現在、茉莉香が手掛けている作品は、十代の少年や少女が登場するものだ。

 著者は新人で、注目を集めつつあるという。


「そうか……比較的取り扱いやすいんじゃないかな?」


「ええ。でも、生活様式とか文化とか、わからないことがいろいろと……それで、調べながら書いています。でも、エッセイを翻訳した時に勉強したことが、役立ってくれて助かります」


 茉莉香は、初めて翻訳をしたときの苦労を思い浮かべながら言う。


「それはよかったね。その調子で頑張るといいよ。そうだ。帰りにこのウヴァを少し包むよ。休憩時間に飲むといい」


「ありがとうございます!」


 亘の言葉に、茉莉香が微笑んだ。

 

 

 


 翌日、学校帰りに茉莉香は書店でSofiaの最新号を手に取った。

 それには一編のフランス小説が掲載されている。


 翻訳者は妹尾綾子だ。


 妹尾綾子は優秀な翻訳者であるとともに、その美貌と経歴、海外での生活ぶりがたびたび話題になる。女性誌の表紙を飾り、テレビで見かけることもある。


 樫木は妹尾をよく思っていない。彼女と同じ気持ちの編集者は他にもいるようだ。

 無理もないだろう。


 “人脈がすべて”

 

 瑞枝が口癖のように言う。

 いくら能力があるとはいえ、あんな状態でこの仕事が続くことが不思議だ。


 “上層部とのつながり” 樫木の言葉だ。

 妹尾は、力あるものには違う顔を見せるのかもしれない。


「まぁ! 私ったら、妹尾先生のことをこんな風に考えるなんて……」


 茉莉香は自分を恥じた。


「これを下さい」


 本を買い、家で読んだ。


「やっぱり妹尾先生はベテランだわ」


 “時代にそぐわない”樫木はそう言っていた。


 確かに語彙や言葉使いが、古めかしい印象は否めない。

 だが、風格と落ち着きがあり、安心して読むことができる。

 抜群の安定した仕事ぶりで、編集者間での評判も高い。

 彼女を冗談交じりに、“女帝”などと呼ぶ者もいるほどだ。


 茉莉香は、一度だけ会った時の、険しい妹尾の顔を思い浮かべる。


「まだ、版権も取れていないのに……」


 しかも、育修社が獲得するとは限らない。


「それなのに……」


 あんな風に敵意をむきだしにするとは……。

 

 背筋に冷たいものが走る。


 『睡蓮』を翻訳したいと思っている者は他にもいるはずだ。


 自分に相応しい実力があるのだろうか?


 それを考えると気が遠くなり、足元がぐらぐらと揺れるような、不安を感じた。


「いけない……また、考え過ぎちゃったわ」


 だが、茉莉香の緊張感が和らぐことはない。


 現在手掛けている仕事が今後を左右するだろう。

 この仕事で信頼を勝ち得なければ、後は無いのだ。


「いつか『睡蓮』を翻訳したい。 でも、今はこの仕事に全力でとりかからなくてはいけないんだわ」


 これが終わったら、ウヴァを淹れて、一息つこう。

 きっと心を休めてくれるはずだ。


「それに……」


 茉莉香の表情が、ふっと緩む。


「この小説が掲載されたSofiaが書店に並ぶ頃……」


 帰国した夏樹に会えるのだ。


「まぁ、私ったら!」


 茉莉香はひとり、顔を赤らめる。


 夏樹に会える。


 鏡の前に立つ。


 すらりと伸びた手足。

 艶やかな黒髪。

 少し痩せたかもしれない。

 顔の輪郭がシャープになった気がする。

 

 長いまつ毛に黒い大きな瞳。

 その眼差しは、深みを増し、以前にも増して自分の心を語っている。

 

 “意思”


 そんな言葉が思い浮かんだ。


 今、それは自分の中で芽生え、育とうとしている。


 夏樹はこんな自分を見てどう思うだろうか?


 たとえ、どんな気持ちを抱かれたとしても、すぐに会いたい。

 会って、自分の姿が夏樹にどう映るのかを確かめたいのだ。



 ……だが、自分たちは大事な話を避けているような気がする。

 夏樹が自分と一緒に暮らしたいと考えていることに疑いはない。

 だが、彼がそのことをどうとらえているのか?

 

 資格をとり、職を得て自分を迎えに来てくれるだろう。

 だが、彼はそれで満足するような人間なのだろうか? 

 それは一抹の不安となり、茉莉香の心から去ることがなかった。




 十二月になり、les quatre saisonsでは福袋の予約が始まった。

 茉莉香は、亘と瑞枝と一緒に福袋の準備をしている。


「これ! すっごくお得ですね! このタルボ農園の春摘みなんて最高の品じゃないですか! それに今年はウヴァが良くて、それも入ってる!」 


 瑞枝が二種類の袋を手に取って言うと、


「瑞枝さん。一人一袋だからね」


 亘が笑いなが言う。


「瑞枝さんは赤い袋がいいのね。私は緑の方が好きよ」


 赤い袋は、ダージリンやアッサム、ウヴァなどのベーシックな茶葉、緑はフレーバーティーが入っている。


 茉莉香が緑の袋を手にする。

 茉莉香は、ダージリンやウヴァよりも、果実やお菓子の香りのするフレーバーティーを好んだ。

 香りも味も親しみやすいし、その日の気分に合わせて選ぶことができる。



 でも、今年は赤い袋を買おう。

 もうすぐ夏樹が帰ってくる。

 夏樹はダージリンやウヴァをストレートで飲むのだ。

 

「あら? 浅見さん? 赤にするの?」


 瑞枝が尋ねると、


「ええ。今年はプレゼントしようと思って……」

 

 福袋は一人一つのみと決まっている。

 その一つは……。


「あっ! そっかー! 彼がもうすぐ帰ってくるのよね」


 瑞枝の言葉に、茉莉香の頬が染まる。



 もうすぐ夏樹が帰国する。

 今年はクリスマスを一緒に過ごせるのだ。

 茉莉香は、オペラ座での夜を思い浮かべる。

 あのとき夏樹は、「待っていて欲しい」

 確かに、そう言ったのだ。なぜ、あの眼差しを疑ったりしたのだろう。

 今は、ただ、それを信じたい。


「ええ。とても楽しみなの」


 茉莉香の笑顔に、今度は瑞枝が顔を赤らめた。

 

  

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