第30話 私の名前

 茉莉香は、翻訳の作業にとりかかった。

 まずは原文を何度も読み込むことから始まる。

 内容を正確に把握することはもちろんのこと、著者の世界観も理解しなくてはならない。

 また、他言語に表現する際の文章力、表現力も求められる。


「子どもの頃から、作文は褒められていたけど……」


 茉莉香が呟く。


「素直できれいな文章ね……って言われていたんだけどなぁ……」


 表現力となると自信がない。これまでは、感じたことをそのまま書いていただけなのだ。


「でも……日常を描いたエッセイだから、派手さは必要ないのかしら?」


 迷わずにはいられない。


 作品の書かれた背景や文化に対する理解も必要だ。

 中学生の頃からフランス語の勉強をしていたし、留学中の夏樹からも話を聞いている。そのため多少の知識はあるが、やはり足りないと思う。


 資料を求めて図書館へ行く。大学の図書館、地元のもの、日仏会館へも行った。

 

 どの辞書を使うかを選ぶ必要もある。 

 だが、辞書を引いても、ぴったりと合致する日本語があるとは限らない。その場合、自分で言葉を選択しなくてはならない。言葉に対する翻訳者のセンスが、ダイレクトに作品に影響する。

 

 また、フランス語の文章を、そのまま日本語に訳せばいいというわけでもない。原文を尊重しながらも、意味を伝えるために表現方法を変える必要が出てくることもある。


「ここは、原文通りじゃない方がいいかしら……」


 直訳すると、読者の解釈を迷わせる個所があった。

 このままでは原作の持ち味を損ねてしまう。

 

 茉莉香は、編集者を通して変更の旨を打診した。


「浅見さん。クロエが “どうぞお任せします” って言ってきましたよ」


 快く承諾してくれたらしい。

 

(よかった……)


 ほっと安堵する。


 出過ぎた申し出だったら……


 と、内心危ぶんでいたのだ。

 

 

 


 問題が解決すると、茉莉香は引き続き作業を進める。

 

「難しい言葉や表現はあまり使われていないけど……作品の世界観を表現するのは大変ね」


 頭の中で、言葉がぐるぐると回るようだ。

 迷ったり、悩んだりを何度も繰り返す。


 次第に、原稿を読むスピードが落ちてきた。


「あー! 疲れた!」


 指を組んで上体を上にそらす。


 ふと、時計に目を向けると、


「まぁ、もう十時! 少し休憩しようかしら」


 カフェインレスのグレープフルーツティーを淹れた。


「いい香り……」


 爽やかな香りが、ひとときの安らぎを与えてくれる。


「クロエという人をいろいろな人に知ってもらいたい。だって、彼女はとても魅力的な女性だもの」


 まだ見ぬクロエを思いながら、エッセイを読み返す。

 そこに描かれているのは、女学生の日常なのだ。


「でも、やっぱり、クロエは私たちと同じ二十歳の女性なのだわ。もっと、身近に感じながら表現してもいいんじゃないかしら?」


 偉大な作家。

 だが、自分やJeune Ventの読者と同じ若い女性なのだ


「そうよ! もっと自分を信じてやってみよう!」


 自分は何年もフランス語の勉強を続けてきたのだ。

 休学中も中断することなく、一人学んできた日々を思う。

 あの時間は、決して無駄にならない。あの時の孤独こそが、今の自分を支えてくれるのだ


 迷いは振り切らねばならない。


 茉莉香は仕事に集中した。





 そんな苦労の末、第一回目の翻訳原稿が完成した。


「終わったわ」


 疲労は感じるが、それが心地よい。


「何はともあれ……できることはすべてやったわ」


 原稿を編集部へ届ける。

 

「まぁ、浅見さん。一度も催促してないのに、きちんと締め切り守ってくれたのね。助かるわ」


 日高は感心したように言うが、茉莉香の不安は拭えない。

 だが、全力を尽くしたのだ。


「あとは結果を待つだけね……」


 自分にとって大事な評価が、これから下されるのだろう。





 数日後、再び編集部へ向かった。


 応接室に案内され、息苦しさを堪えて日高を待つ。

 ここ数日、食事もろくに喉を通らなかったのだ。



 応接室の扉が開いた。


 茉莉香はそっと、胸元の緑の石に手を添える。

 


 日高は部屋に入るなり、言った。



「浅見さん。ばっちりよ! 契約している翻訳家さんに念のためにチェックしてもらったの。素晴らしいって! 正確さはもちろんだけど、浅見さんの素直な文章が、あのエッセイのイメージにぴったりですって! 読者のニーズとも一致するわ!」


「本当ですか!?」


 日高の言葉に、ほっと胸をなでおろす。

 

 帰り際に、


「そうだ。浅見さん」


 日高が声をかけてきた。


「はい」

 

 振り返りながら、茉莉香が返事をする。


 日高は、

   

 

「 “訳・浅見茉莉香” って入るから」




 と、なんでもない事のように言った。


「えっ!?」

 

 一瞬耳を疑う。


 今、何と言ったのか?


 ――自分の名前が出る――


 そう言ったのだ!




「これからも頑張ってね」


 満面の笑みをたたえ、日高が茉莉香を励ました。


 以前、由里の手伝いをして、写真とコメントが僅かに載ったことがあるが、今度は自分の作品として掲載されるのだ。


「ああ、なんて素敵なの!」


 緊張がやわらぐにつれて、喜びが込み上げてくる。


 夜になり、夏樹に電話を架ける。今頃昼休みのはずだ。


「えっ! すごいじゃん。茉莉香ちゃん!」


 夏樹も喜んでいる。


「うん。夏樹さんのおかげよ。あの本を送ってくれたから」


「役に立ててうれしいよ!」


 電話の向こうの声は優しかった。


 


 翌月、クロエのエッセイが連載されたJeune Ventの新刊が書店に並んだ。


「まあ!」


 茉莉香は思わず声をあげた。


 ドキドキしながら、ページをめくると、巻末近くにクロエのエッセイが掲載されていた。


 イラスト入りで、1ページを使ってある。


「自分が1ページも……」


 茉莉香は、以前、由里のもとで、編集のアシスタントをしていたので、それがいかに重大なことかを知っていた。

 

 そして、書いてあるのだ。


 ――“訳 浅見茉莉香”―― と!



「ステキ!」


 確かに自分の名前が本に載っている。




 私の名前 



 私の名前

 

 

 私の、私の………



 私の名前!!



 今にも踊りだしたい気分だ! 道行く人にさえこの気持ちを伝いたい!




「私用。パパとママに、亘さん、それから……」


 本を取る手がふと止まる。


「押しつけがましかったかしら……」



 大丈夫。

 きっと喜んでくれるはずだ。

 本を持ってレジへ向かう。


 今はただ、喜びを誰かに伝えたい。


「そうだわ! 沙也加ちゃんにも教えよう!」


 電話をすると、沙也加はすぐに駆けつけてくれた。


「おめでとう茉莉香ちゃん!」


 沙也加は、自分のことのように喜んでくれている。


「ありがとう!」


 友の喜ぶ姿が、これまでの苦労を忘れさせる。

 自分の幸運を共に喜んでくれる者のいることは、なんと有難いことだろうか。

 

「でも、連載だから、これからも頑張らなくちゃ。まだ、始まったばかり。第一回目が終わっただけなの」


「うん。茉莉香ちゃんなら大丈夫よ。きっと!」


「それでね。私、フランス語をもっと勉強したいと思って」


「うん!」


「やっぱり、語学留学をしたいの。フランスで生活して、文化を肌で感じてみたい!」


 茉莉香は、クロエの生活や背景を知るための苦労を思い出す。精一杯やったとはいえ、完全に満足したわけではない。


「きっと茉莉香ちゃんのプラスになるわ」


「私、この本を持って、両親に留学のことを頼んでみようと思うの」


「それがいいわ」


 沙也加が瞳を潤ませている。

 

 茉莉香は自分も、また、涙ぐんでいることに気づいた。


 









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