第25話 もしもタイムマシーンがあったなら

 十二月の中旬、に夏樹が本田とイタリアに出発する日が迫ってきた。

 空港で本田と待ち合わせるという夏樹に、


「みんなで、お見送りしましょう」


 由里が提案をする。


「いいですよ」


 と、夏樹は辞退したが、


「そんなこと言わないで。スカイライナーで行って、空港でお茶でもしましょう」


「店はどうするんです?」


 亘が言うと、


「臨時休業しましょう」


 と、言うわけで、由里はさっそく、自分と亘と夏樹、茉莉香の分のチケットを予約した。






 その朝、茉莉香は夏樹と初めてパリで会った時と同じ、ふわふわとしたえりのついた白いコートを着てきた。


 当日、スカイライナーには茉莉香と夏樹が隣り合わせて座り、その後ろに亘と由里が座る。


 向かい合わせにしなかったことは、由利の気遣いだが、茉莉香と夏樹にしてみれば、どこか気恥ずかしい。


 しばらくの間、二人は黙ったままだったが、茉莉香が沈黙を破った。





「イタリアのあとはフランスでしょ? パリへも?」


「ああ」


 夏樹は何か思い起こしているようだ。


「パリで会った茉莉香ちゃんのお母さんは、優しそうだったな。茉莉香ちゃんによく似ていたよ。お父さんも立派な人みたいだね」


 茉莉香は夏樹が養護施設で育ったことを知っている。そこから会話が進められない。


「俺、もの心ついた頃には、お袋はもういなかったんだ」


「まぁ」


「親父はある朝目が覚めたら、布団の中で冷たくなっていたよ。寒い日だったな。俺が七歳のときだ」


「つらかったでしょ」


 その光景を思い浮かべただけで、心が冷えるような思いがする。


「さぁ」


 しばらく考えてから、


「大変だったよ。まず、大家に知らせなきゃって思ってね。その日は婆さんがなかなか出てこなかった。外で凍えながら、ドアを叩いたんだ。そのあと警察が来て、いろいろ調べていったよ」


 茉莉香は話の続きを待った。


「泣いている暇はなかったんだ。それで、女の警察官が来て、何か食わせてくれてね。そのとき、飯が温かくてやっと生きた心地がした」


「親父が死んで、悲しいと思うよりも、そっちの方が先だった。とにかく腹へっていたんだ。何日もろくに食ってなかった」


「涙も流さず飯を食ったよ」


「最低だろ? 親が死んだのにさ」


 夏樹は今まで、誰にも言えずにいたのだろう。親の死を前にして、涙することもできなかったことを隠し続けてきたのだ。

 

 世の中から、“何かが欠けている子ども”としてのレッテルを貼られることを恐れていたのかもしれない。それは、彼の悪態や、粗暴な言動よりもはるかに社会が忌み嫌うものであることを、賢い彼は幼いながらに悟ったのだ。



 彼は七歳の子どもだったのに。だ。

 茉莉香は夏樹の子ども時代が目に浮かぶようだった。

 誰からも顧みられない子ども。

 誰からも手が差し伸べられない子ども。

 

 

 

 茉莉香は自分の子ども時代を振り返る。

 

 初めてランドセルを背負った日、その重さでひっくり返りそうになった自分を、笑いながら支えてくれた両親。その声は温かさに満ちていた。

 好き嫌いの多い自分が少しでも食べられるように、調理方法を工夫してくれた母。病気のときは、医師に相談をする心配そうな横顔を思い出す。

 

 それなのに、自分は、そんな母を疎んじていたのだ。



 言葉もなく、成田空港駅に降り立つ。


「あら、どうしたのかしら?」


 由里が二人の様子がおかしいことに気が付く。


「なにかあったのかしら? お別れが寂しいのか……。それとも、また喧嘩でもしたのかしら?」


 由里が心配そうに言うと、


「しばらく様子を見ましょう」


 と、亘が言った。


 空港のカフェでお茶をしているときも、二人は黙ったままだった。


 本田とは、機内で合流することになっているという。



 カフェを出て、通路を歩きながら夏樹が言った。



「じゃあ、ここで。お見送りありがとうございました」




 そう言って立ち去ろうとした時だ。

 夏樹の顔がふわりとしたもので覆われた。

 茉莉香のコートのえりだった。


 細い手が首に巻き付いてきた。

 指がそっと、頭を抱いている。

 

 

「茉、茉莉香ちゃん!?」



 突然のことに、夏樹は慌てたが、驚きの表情は今まで見たことが無いような穏やかな表情になった。

 あどけない子どものような……。今まで、彼が誰にも見せたことがないような……。


 夏樹の耳元で茉莉香が小さな弾むような声で囁く。



「もしも、タイムマシーンがあったら」




「私は、七歳の夏樹さんに会いに行くわ。」




「そしてこう言うの」




「つらかったでしょ」




「でも、もう少し頑張って」




「あなたはとても素敵な大人になるのよ」





「たくさん勉強をして、いい学校に入るの」





「いろいろな人が助けてくれます」





「あなたも友だちを助けます」





「夢も広がるし、英語もフランス語もイタリア語も話せる大人になって、外国に建築の勉強に行くんですよって言うの」





「だから、今はつらくても」





「もう少しだけ頑張って」





 それは、母親が幼い子どもに言うときのような優しさだった。髪をかき抱く指は泣きじゃくる子どもを慰めるそれだった。


  

 夏樹が涙をこらえている。

 茉莉香が泣いている。

 夏樹の代わりを果たすように。

 

 だが、その涙は温かかった。



「うん」




「頑張る」


 

 夏樹は子どものように言った。





「まぁ、まぁ、まぁ!!」



 由里はひどく興奮している。


「ステキ!」


 恋愛映画の一場面のような光景をうっとりと見とれていた。



「ちょっと待って!」



 亘は動揺を隠せずにいる。


 自分の目の前でこんなことが起こったら、茉莉香の両親になんと申し開きをしたらいいのかを考えると頭が混乱してきた。



 通り過ぎる人たちが、うらやましげにふたりを見ている。



「まぁ、いいじゃない」


「でも!」


 だが、やがて冷静になると、


「いずれ、茉莉香ちゃんのご両親にも紹介した方がいいですね」


 と、言った。




 夏樹は手を振り、搭乗口へ向かっていった。

 茉莉香がそれに手を振って応える。


 茉莉香は、ここ二年足らずのことを思い起した。


 つらいことがあった。でも、助けてくれる人たちがいた。いずれ、どんな形かはわからないが、また、同じような、いや、もっと厳しい状況が訪れるかもしれない。


 でも、人に助けられた記憶、今この瞬間の温かい気持ちの記憶があれば、それらを乗り越えることができるのではないかと思った。


 涙を拭いて、由里と亘のもとに茉莉香は向かった。

 

 由里は興奮で顔を紅潮させていたが、亘はやや緊張した面持ちでこちらを見ている。


 自分を助けてくれた人たちだ。

 自分もいずれ、誰かの力になりたいと茉莉香は思うのだった。

















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