第15話 女神のヴェールとキューピット
母親から渡すものがあるからと言われ、茉莉香は実家に帰った。
「茉莉香ちゃんは、本当にお母さんに似ているわね」
と、よく言われる。少し前までは、季節ごとに一緒に洋服を買いに行き、帰りにカフェでお茶をする仲の良い母娘だった。だが、今は母に会うことが辛い。
「これね、茉莉香ちゃんに似合うと思って」
百貨店で見かけたという、秋物のカーデガンを渡された。
「ありがとう」
「ちゃんと食べてる?」
「うん。大丈夫」
「この前ね、沙也加ちゃんに会ったの」
茉莉香の高校時代のクラスメイトだ。色白で、ややふっくらとした内気な少女である。口数は少ないが、穏やかで側にいると気持ちの休まる少女だった。
ふわふわとしたおかっぱの髪。
つい、触りたくなる白く丸い頬。
優しい笑顔が目に浮かぶ。
あの時のいじめにも加わらなかった。
助けてもくれなかったが……。
(沙也加ちゃんが、学校のことでなにか言ったのかしら)
「このまえles quatre saisonsに行ったけど会えなかったって」
茉莉香は今、由里の家でバイトをしているのだから、当然のことだ。それにしても、あの気弱な沙也加にしては思い切ったことをしたと茉莉香は思う。
「そう。残念だったぁ」
笑顔でごまかすように言った。
目的地に向かう電車の中で、茉莉香は母親の憂いを含んだ笑顔を思い浮かべた。
側にいても、離れて暮らしても、母の心配は収まらないのだろう。あの事件がいろいろなことを変えてしまった。普段は忘れていても、こうして会うことでまた思い出してしまう。復学後も、一人暮らしを続けてよかったと思わずにはいられない。
茉莉香は電車で、賑やかな商店街と閑静な住宅地が混在する街に向かった。
ここに未希の所属する劇団がある。
駅の改札で未希が手を振り、茉莉香も小さく振り返した。
未希は、立っているだけで目立つ。シャツにパンツにジャケットというシンプルな服を着ているだけなのに、オーラのようなものがあるのだろうか。通りすがりの人が振り返って見る。
だが、以前の未希とは印象が変わったと茉莉香は思った。いつものキラキラとした輝きが、柔らかく薄いヴェールのようなもので覆われているように見える。そして、より優しい光となって心に伝わってくるのだ。
茉莉香は未希に見とれた。
「どうかした?」
未希は屈託なく言う。いつもの明るい未希だ。
「ううん」
我に返った茉莉香が言う。
二人は挨拶を交わした後、少し歩いてビルの地下にある小さな喫茶店に入る。 古いが居心地の良い店だ。未希が劇団仲間とよく来ると言う。
メニューを見ると食事の種類が多い。ナポリタンにミートソース、カルボナーラ…………パスタだけでも七種類ある。それに各種ピラフ、サンドイッチ、オムライス。値段も安い。
「ここね、オリジナルブレンドとナポリタンが美味しいの」
セットにするとお得なようだ。
「じゃあ、私それで」
「私はねぇ。インディアンピラフ」
食事と飲み物が運ばれてきた。
ナポリタンは、たっぷりかかったケチャップが、やわらかめに煮たパスタによく絡んでいた。さいの目に刻んだピーマンと玉ねぎが、シャキシャキとし、ウィンナーもごろごろ入っている。表面には輪切りにしたゆで卵が乗っていた。
「これ、美味しい。ただのケチャップじゃないみたい」
「そうでしょ。秘伝のソースみたいよ」
そういう未希のインディアンピラフは見たところ、“カレーチャーハン”のようだった。やはり具だくさんだ。インディアンとはインド風ということらしい。
コーヒーは苦みがあるが、香りが良く、濃い味付けの食事とよく合った。
二人は近況を話し合う。未希は仕事が順調であること、劇団でまた役を貰えそうなこと、茉莉香は、由里の本に自分の写真が採用されることを話した。
こうしていると、母との会話で沈んだ気持ちが晴れてくる。未希の朗らかさに茉莉香は感謝した。
やがて、未希にしては珍しく遠慮がちな口調で、ある質問を投げかけてきた。
「ねぇ、茉莉香ちゃんと夏樹さんってお付き合いしているの?」
「えぇっ……!」
突然の質問に茉莉香はびっくりした。
顔がほてるのを感じる。
「そ、そんな。違います!」
茉莉香の否定があまりにも強いことに未希は驚いてたが、それは一瞬で、ほっとしたような表情に変わった。
「よかったぁ。私ね、夏樹さんのこと好きみたいなの」
そして続けて、
「茉莉香ちゃんと付き合っているのかと思って、諦めていたの」
「ううん。最近、全然会っていないし」
言ってから茉莉香は、自分がとっさに嘘をついたことに気づく。つい先日、警察官との間に入ってやり取りをしたばかりではないか。この話を未希にして、楽しく笑い合うつもりだったのだ。
「私ね、あんな風にはっきり自分の欠点言われたの初めてなの。みんなもったいぶったように渋い顔をするだけで、大事なことは絶対に言ってくれないもの。第一 “人間的な成長が見られない” ってなんのことかわからないじゃない?」
その話は久美子から聞いたことがある。酒に酔った夏樹が、未希の芝居をひどくけなしたという。だが、それで好きになるというのは理解しがたい。
未希は熱に浮かされたように語る。
茉莉香は、同級生たちが瞳を輝かせながら、恋の打ち明け話をしていたときのことを思い出す。自分の身の上にもいつかそんな日が来ると信じて疑わない少女たちは、自分のことのように喜ぶのだ。
未希の変化を茉莉香は理解する。未希は恋をしたのだ。
「それに、イケメンだし、なんだかんだ言って、真面目だし」
実はイケメンで真面目。言われてみればそうだ。喧嘩をしたこともあるが、いつも親身になって話を聞いてくれる。だが、未希の言う“付き合う”ということは考えたことはなかった。
「じゃぁ、協力してくれる?」
「えっ……ええ!?」
今の未希には断れない勢いがあり、断る理由も見つからない。
「でも、できることだけよ」
「いいの、いいの! ちょっと援護してくれるだけで!」
未希と別れ、茉莉香は家に向かった。
少し前まで弾んでいた気持ちが、次第に重くなっていくのがわかる。
茉莉香にはこの気持ちの正体が理解できずにいた。
「ああ、そうよ。きっとキューピッド役って責任が重いからだわ」
自分にも不可解なこの気持ちの理由を知ることで、茉莉香は一安心した。
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