第14話 『昏睡の水辺』②


 三澄君が昏睡状態になってから72時間が経過した。


 人工呼吸をつけたままの彼の姿は、まるでその場に寝かされた人形のように、指先一つ動いてはくれない。

 私は彼がくれた明るい笑顔がどんなものだったか、とっくのとうに思い出すことが出来なくなってしまっていた。

 なんでこんなに苦しい思いをしなきゃいけないのだろうと、私は彼を呪った。

 自分でも恨むことはお門違いな惨めな行為であることは知っている。

 だけど、この苦しい胸の内を誰かのせいにしないと、今の私の精神は脆く崩れてしまいそうで、一種の生存本能的行動だと割り切って、私は彼を呪った。

 私は三澄君が横たわるベッドの近くに置いてある背もたれ付きの椅子に座り、病室の窓から見える外の景色を何も考えず、ただぼーと眺めていた。


 病室は2階に位置しており、見える木々の高さはさほど高くはない。

 木々の間の枝の先には、時折、小さな青い鳥が止まってはちゅんちゅんと鳴き声を上げ、途中できたもう一匹の番と羽を擦り合わせながら戯れている。

 私は番の青い鳥をそんな姿が愛おしくも思いながら、恨めしいとも思った。

 私の中の混沌とした愛憎は、そんな小さな幸せすらも許すことは出来ずにいた。

 自責を積めば積むほど、壁にぶつかってはふらふらと彷徨い続け、結局どうすることも出来ず、ただただ眠っている彼の隣で、しくしくと情けなく泣くことしか私には出来ない。

 情けなかった。自分を戒められないことが。

 私は彼に出会ってからこれまでの間、何か彼のためにしてあげられたのだろうか。

 数回のデートは年下の彼に、ずっと引っ張ってもらい、私はいつしか、その彼の当たり前の愛情にどこか甘やかされ、それ以上の愛を求めるようになっていた。

 つまり私は強欲なのだ。

 引っ込み思案で、人見知りで、奥手である自分の性格を自分が良く知っている。

 今までも誰かが私のために何かをしてくれていた。

 時が立ち、誰かが私のために何かをしてくれることが当たり前となり、もはや当たり前とも感じなくなった。

 何も考えずとも、愛をくれる存在を品定めすらしている自分は、もはや凶悪そのものであった。

 私は彼のことを大切に考えていたが、何もしてあげられてないし、むしろそれ以上に愛を求めようとした私を裁くための神罰なのだと思っている。


 いつか目覚めるであろう彼のために私は何ができるだろうか。


 私は涙でふやけた、白くて傷のない手のひらを見つめた。

 与え続けられた私には、もはや誰かに与えられるほどのものを持ち合わせていないとこの年齢になって初めて気づかされた。


 だけど、それと同時に私は私自身と向き合うことで気づいたこともある。

 私は絵を描くことが出来るのだ。


 それがなくなってしまえば私はただの木偶の坊となってしまうことは、目に見えて分かった。

 だからこそ、私は彼が好きだと言ってくれた私の絵を、彼のために描くことが、私が彼に与えることの出来るただ一つの私だけの価値であった。

 私は急いで病室を出ると、母親に急いで電話をかけ、家から画材道具を持ってきてほしいと頼み込んだ。

 母は快くそれを受け入れ、30分ほど待っててと言い残し電話を切った。


 私は病院の1階にあるカフェでアイスコーヒーを飲みながら、母が来るまでの時間を潰していると、約束通り30分ほどで母は到着し、私のいるカフェへと来店した。

「大切な人なんでしょ。きちんと綺麗に待ってあげるのも女の役目よ」

 母は私にそう言うと、画材道具一式、頼んでいなかった色とりどりの花が詰まった花束と、それを飾る花瓶を手渡した。


 その余裕は美しくも、苦労をして勝ち取った人への優しさを私は肌で感じた。

 私が遠く及ばない母の女性としての精神の在り方に、この時私は初めて憧れを抱いた。


 お互い暑さから体を休めるように、一杯のコーヒーで冷を取っていると、母は「早く病室に行ってあげなさい」と私を促す。

 私は花束と画材道具を両手に持つと、彼の病室のある2階へと急いで駆け上がった。

 急いだあまり、息の上がった心臓を落ち着かせるために、病室の扉の前でひと呼吸を置く。

 優しく引き戸のドアノブを握り、ゆっくりと病室の扉を開けると、白く輝く部屋の中に、変わらず三澄君が静かに眠っていた。

 私はベッドの近くまで歩み寄り、近くのテーブルに先ほどの花瓶を置き、花束の花を一本一本丁寧に飾っていった。

 空気を入れ替えるために病室の窓を半分開けると、緑が躍る夏の涼しい風が部屋の中へと舞い込んだ。

 すぐそばに立つ大きな木の間には、先刻まで戯れていた番の青い鳥が、また元の場所へと戻ってきては、またお互いの羽を擦り合わせながら愛を確かめている。

 私は椅子を木々に向き合うように移動させ、その番の青い鳥をスケッチし始めた。

 柔く鳥の輪郭を鉛筆で描いていき、水彩絵の具で、その上に色を塗っていく。

 今まではただそこにあるものしか描写できなかった私が、鳥たちが戯れながら見せつける「愛」という概念そのものを描こうとしている。

 不安定なところで描いた分、多少絵の輪郭がぼやけてしまったけれども、その絵には人肌のような温かさがこもっていた。

 空洞だった私の絵に、初めて自分という存在を映せたことに、今まさに声にならないほどの昂ぶりと感動を感じている。

 これから少しづつ頑張っていこうと三澄君を見つめながら、筆を置いた。


「ごめんね。愛を教えてくれてありがとう」


 そう呟くと、私は三澄君の手を握り、彼に微笑みかける。

 なぜだか、私の目からは自然と一筋の涙が流れていた。


 スケッチの端には、私のサインが、踊るように小さく書き込まれていた。

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