第7話 『遡行』


 私が絵を描き始めた最初の記憶は幼稚園の頃まで遡る。


 妹と白い画用紙にクレヨンで赤や青の線をぐちゃぐちゃと書いては、キャッキャと笑いあっていた。

 白い画用紙の上に、色が乗って形となるごく当たり前のことが、まだ不可思議な魔法のように思えて仕方なかったあの頃が、描くことを一番楽しんでいたんだと思う。

 いつしか妹の絵を描く才能は開花し始め、展覧会に張り出されれば数々の賞を取り、新聞で若き画家の誕生として取り上げられたこともあった。

 今では妹はイラストレーターとして、国内のみならず国外にまで自分の描いた絵を発信している。

 私の憧れた妹は、今はもうどこか遠く手の届かない空の彼方にまで飛んで行ったしまったようにも思えて、ずっと空白の心を埋めようと必死に筆を動かし続けていた。

 いつしかその憧れへの焦燥は、心を巣食う虫のように這いずり回っては、私の耳元で「堕落したほうがきっと楽だよ。」と一日中囁き始めた。

 そんな時、私には決まって思い出す光景がある。

 ある夏のフリーマーケットに家族で出店したときの思い出だ。

 私が水彩画を習い始めて少し経った頃、自分の絵を売りたいという願望が芽生えたのか、母親にフリーマーケットに出したいと駄々をこねながら懇願した。

 今思えば世間知らずというべきなのだろうが、あの頃は自分の絵は絶対に売れるという根拠のない自信が子供ながらに心に火を灯していた。

 私は、フリーマーケットに出すための絵葉書を数枚取りそろえた。

 段葛の桜並木、報国寺の竹林、鎌倉山からの田園風景、鶴岡八幡宮の紅葉、そして由比ガ浜の浜辺。

 その頃の私が心から美しいと思えた鎌倉の風景を絵葉書に何枚も書き留めた。

 水彩画教室に通い始めて2年しか経っておらず、決して上手い言える品物でなかったかもしれない。

 意気揚々にフリーマーケットに自分の絵葉書を並べる。

 賑わう人通りを眺めながら、自分の絵葉書の前を通り過ぎる人たちが見向きもせずにカツカツと歩いていく姿が目に映るたび、私の絵に価値はないんじゃないかと初めて心の底から怖さを知った。

 私が下を向き俯いていると、ふと目の前にまだ幼稚園児ぐらいの男の子がしゃがみ込んでいた。

 ママ、ママってその男の子はひたすらに母親を大声で呼び、私の絵葉書のもとへ袖を引っ張ている。

「全部綺麗!」と興奮気味に男の子は母親にきらきらとした笑顔を向けていた。

 うーんと顎を右手で握り数十秒吟味したかと思うと、「これください!」と男の子は一枚の絵葉書を手に取る。

 私はなんて声を出せばいいんだろうと放心状態のまま、数秒の空白が流れたあとに、しどろもどろな口調で「ありがとうございます。」と一言お礼を言った。

 差し出された300円を受け取り、その絵葉書は男の子の手にへと渡る。

 男の子はその絵を受け取ると、満面の笑みを浮かべると「綺麗な由比ガ浜だね!」と元気よく母親へと自慢げに見せていた。

 私は自分の絵が初めて売れた嬉しさのあまり涙が少しづつ込みあがってくるのを我慢し、唇をギュッと噛み締めた。

 未だあの頃の思い出が私の心の支えとなっている。

 今となっては趣味でネットに風景画や人物画を載せてはいるが、無数に更新されるコメントを見ては、揺らがない感動ばかりが心に積り、溜息ばかりが小さな口から漏れ出す。

 波打つ感動は日に日にその大きさを減らし、今では静かな夜の湖の水面に石をポチャリと落とした波紋のように、薄く広がってはすぐに消えていく。

 私の憧れはいったいどこへ行ってしまったんだろうと、いつしか黒い泥の中へ手を突っ込み、ぐちゃぐちゃとかき回してはその幼き頃に抱いた輝く憧れとやらを探し続けていた。

 絵を描き終わってから15分ほどだろうか。

 私は竹林の絵を虚ろ気な眼差しで、見つめ続けていた。

 ふと、意識を何かに引っ張られるように目が覚める。

 思い立ったように自室へと走り戻り、自分の携帯画面を起動させコミュニケーションアプリを開くと、すぐさま三澄君を探した。

 何かに駆り立てられるように、私は長ったらしい文章をその小さな記入欄へと打ち込む。

『お久しぶりです。お礼が遅くなってごめんなさい。あの時、デートをしてくれてありがとうございました。』

 あれから2週間は経っている。

 見放されていても仕方ないと思えたが、その恐怖に打ち勝てるほどの強い私はもうどこにもいなかった。

 震える指で送信ボタンを軽く押す。

 ピコンという機械音が鳴ると、その単調な文字が会話画面へ表示された。

 考えては消して、考えては消して、考えては消してを繰り返しながらようやく打ち込めた文章が、こんなにも無機質な可愛げのない文字列なんだろうと送ったすぐあとに落ち込む。

 読まれることへの期待と恐怖が心の中で渦巻いていく。

 すぐに読まれることはないはずなのに、既読という文字が浮かぶのを待ちわびてその画面を睨み続けていた。

 秒針が5周したあたりから目が疲れ始め、アプリの画面をとじ、携帯を裏向きにして枕元へ置いた。

 枕に顔をうずめながら、はぁという情けない溜息を吐く。

 自分の吐いた生暖かい息が口元を濡らす。

 もう一度、三澄君と会って話がしたい。

 デートに行きたいけれども断られたらどうしようという期待と恐怖が心の中で堂々巡りを始める。

 むしゃくしゃして行き場のないこの気持ちを、枕に向けて腹の底から大声を出す。

 大声を出して気持ちは少しばかり晴れたが、枕は唾で気持ち悪く濡れていた。

 私は枕をひっくり返し、ごろんと仰向けに寝返る。

 このまま目を閉じて寝てしまったほうが気が楽になるだろうか。

 私は明日の自分が勇気を持ってくれることを願い、その日の私に終わりを告げ、ゆっくりと夢への梯子を下りて行った。

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