6.2

 肉体よりも精神を疲弊させた作業の甲斐があってか、倉庫の整理は昼過ぎには終わった。ゆくもさんは満足げに倉庫を眺めた後、店の方から小さな巾着袋を持って来てその中身をかちゃかちゃと鳴らした。

「今日はお手伝いありがとうね。良かったらこれで何かおいしい物でも食べて」

 両手を出して差し出された物を受け取る。見た目ではわからなかったが、おそらく貨幣のだと予想はついたのでありがたく受け取っておいた。

 ゆくもさんはそのまま店を開くらしく、俺はせっかくの機会なのでそのお小遣いを手に町へ繰り出すことにした。

 昼時のエルフェリータの町は大層賑やかだった。俺は出店が建ち並ぶさらに賑やかな大通りへと足を運ぶ。おいしい物の匂いというのは異世界でも共通だ。何だかはわからなくても、腹の虫を刺激するには難くない香ばしい匂いが漂って来た。

 ポケットにしまっておいた貨幣を手に取ってみる。これがまた人間界の物とは欠片もそぐわなかった。なんだろう、細長い水晶のような物。鉛筆ぐらいの太さで手に収まるぐらいの長さ。色は灰色が五本、青が二本。おそらく貨幣……なのだろうが肝心の価値の方が全くわからない。

 買い物をしようにもどれをいくつ渡せばいいのかが見当も付かなかった。「央真、はじめてのおつかい」である。全くの知らない地で一人で買い物をする心細さは、幼児でも高校生(まだ高校生を名乗ってもいいのだろうか……?)でも同じらしい。しかし腹はさっさと何か入れろとうるさい。どうにかして何か買いたいものだが。

 俺は串焼きの出店に並ぶ買い物客を後ろからこっそり窺った。その客は青い水晶を店員に手渡して、串焼き三本とおつりを貰っていた。ということは少なくとも青い水晶が一本で串焼き三本分は足りるということだ。俺は意を決してその出店へ向かっていく。

「あの……串焼きを一本」

「おう、いらっしゃ……ひぃぃぃぃぃ!!」

 俺の顔を一目見た途端店主が悲鳴を上げた。思わずすぐさま謝って立ち去りたくなってしまう。けれどここで引いては駄目だと俺は青い水晶を一本差し出した。

「これで足りるか?」

「か、金は払わなくても、いくらでも……」

「それじゃあ駄目なんだ。ちゃんと受け取ってくれ」

「じゃあ……代金とおつりを」

 そうして俺は震える手から串焼き一本とおつりの灰色の水晶をいくつか受け取った。やってみれば簡単なことだった。なんとも子供じみているとは思うが、買い物ができてこんなに嬉しかったことはない。なにせおつりを渡してきたのは屋台のおっちゃんの六本目の腕だ。俺は肉と達成感を一度に噛み締めた。肉は紫で噛むたびに味が変わったが、肉汁の溢れるそれは堪らなくうまかった。

 そこからは俺の気もぐっと大きくなり、歩きながら食べられる物を同じ要領で買い揃え、迷うかもしれないという不安を押し退けて一人で町を観光してまわった。エルフェリータの町はやはり広い。店に並ぶ物もさるものながら、道ゆく人々にも興味を惹かれるのであちらこちら見回して最後には目を回しそうだった。まるで海外旅行にでも来たような気分だ。まぁ人間界の外国には耳から目玉が覗いてる人も巨大なナメクジも歩いていないと思うけど。

 手にした昼飯が全て腹に収まった頃、丁度すれ違ったのは一本角を持った雄牛だった。角だけで子供の身長ぐらいはある。その雄々しさに目を取られていたせいで、俺は前から歩いて来ていた人と正面からぶつかってしまった。

 一瞬、壁とぶつかったのかと錯覚するほどの衝撃があった。ひっくり返りそうになるのを、前から伸びて来た腕に支えられる。目の前にいたのは見上げるような筋骨隆々な大男。顎を思い切り持ち上げると、ライオンのたてがみさながらのごわごわとした黄土色の髪を持った男と目が合った。

 目が合って数秒、圧倒されてしまった。謝るべきか感謝すべきかが定まらないうちにその大男の方から声をかけて来た。

「君、もしかして央真とやらじゃないか?」

「え……はい」

 それは深く腹の底に低く響くような声だった。しかしそんな声も、ましてや筋肉の塊みたいな知り合いはいない。男は唸るような笑い声をあげた。

「噂通りの面構えだ。良い眼光をしている。思わずビビっちまったよ」

 挑戦的な笑顔からは怯えたような様子は全く見て取れなかった。今までにない反応で気後れしてしまう。

「噂……ですか」

「あぁ、この町に魔王の顔を持つ期待の新人がいるとね。最近試練を受けているんだろ? 永らく突破されずに眠っていた試練をクリアしたと聞いたぞ」

 きっとそれはリッカの試練のことだろう。試練をクリアしていくと名が上がっていくとは聞いていたが、よもや自分が噂になっているとは思わなかった。……しかし噂なら魔王の顔なんかよりもう少しまともなものを流して欲しい。

 その男はぐいと頭を下げて顔を近づけた。身長差によってほとんど真上から覗き込まれるような形になる。小人にでもなった気分だ。

「しっかし、見れば見るほど凄い顔だ。そんな顔ならもっと知名度があってもおかしくないと思うんだがな……」

 余計なお世話だ、とはさすがに言えなかった。何をきっかけに人間だとバレるかわからないので慌てて言い繕う。

「えっと、俺はかなりの田舎出身だから……それで」

「田舎か。どこら辺だ?」

「えっと……あの山の、向こうの……」

「山? もしかして界層を越えるのか?」

「え? あの……そうです、ね。はい……」

 途端にしどろもどろになってしまった。怪しまれてないか内心ひやひやしていたが、必死に顔には出さないようにする。どうかバレないようにと祈るばかりだった。

 しかしその様子をどう受け取ったのか、大男は真顔で頷いた。

「まぁ言いたくなけりゃいいさ。俺も昔はやんちゃしたもんだ。お前も魔王を目指してるんだろ? お互い頑張ろうな、新人!」

 そう言うと大男はすれ違い様に俺の肩をガッシと掴んで揺さぶってから立ち去っていった。俺はその後ろ姿を見ながらしばし呆然としていた。まぁ何にせよ人間だとバレなくてよかった。それに……。

「お互い頑張ろう、か」

 口の中でささやかに反芻する。俺のことを恐がらないばかりか、頑張ろうなんて声をかけてくれた人は今まで一人もいなかった。この魔界にはそんな人もいるのか。俺は初めての経験に少しだけ心を躍らさせていた。

「期待の新人さん、ですかぁ」

 立ち去る背中が人混みに紛れるのを見届けて振り返ったとき、それに合わせたかのように声をかけられた。まるでずっとそこにいたかのような自然さで、その子は目の前に立っていた。

「うおっ、と!?」

 その子との距離は歩幅一歩ほどもない。驚いて数歩後ずさると、その子は静かに頭を下げた。

「どうも、こんにちはぁ。よい散歩日和ですね」

「え? あぁ、そうだな」

 普通の、同じ年代ぐらいの少女だった。くるりくるりとカールした巻き毛の一部をまとめた編み込みが軽やかに揺れていた。体の前でそっと手を合わせたその佇みはどこかの育ちの良いお嬢さんといった印象だった。その子はもう一度、ゆっくりと同じ言葉を繰り返した。

「期待の新人さん、なんですかぁ?」

「期待されてるかはわからないけれど、まぁ新人は新人かな」

「そうですかぁ。きっととてもお強いのですよね。とても勇ましい顔立ちをされていますもの」

「い、勇ましい……」

 ふふ、と目の前の少女は囁くように笑った。人を殺す表情筋と呼ばれた俺の顔面をそんなふうに形容できる女の子がこの世に存在していたのか。俺は柄にもなく顔が赤くなるのを感じて焦って続きを促した。

「そ、それで話かけてきたってことは何か用件がある、のか?」

「えぇそうなんです。実は私も試練を受ける新人なんですが、どうしても自分に自信が持てなくて……。そこで自分の今の実力を知る為に手合わせしてくれる相手を探しているんです」

「手合わせ?」

「はい。お互い自身をかけて、なんて。私と決闘してみませんかぁ?」

 可愛らしい少女の口から決闘という血なまぐさい言葉が出てくることに、やはりここが魔界であることを実感させられる。その子は穏やかに笑ったまま佇んでいた。

「お時間は取らせません。簡単なものです。どうか私のお願いを聞いてくださいませんか」

 しおらしく俺の顔色を窺う少女。あいにく突然話しかけて来た子に決闘を申し込まれた場合の対処法は、俺の少ない人生では学んでこなかった。けれどできれば相当困ってそうなこの子の助けをしてやりたいという気持ちはあった。まぁ褒められて浮かれていたせいもあったが。

 俺は特に深く考えることもなく頷いていた。

「わかった。俺なんかで良ければ相手になるよ」

「本当ですかぁ。それでは三日後に町を出た先の丘で、いいですか?」

「あぁいいよ。……そういえば君、名前は?」

 その時、ずっと笑顔を浮かべたままだったその子は初めて表情をなくした。それはまるで蝋燭の火を吹き消したように。数秒の間をおいてから、彼女は握手を促すように手を差し伸べながら静かに言葉を紡いだ。

「申し遅れました。私、メデュラン・エキナドゥーレ・マリナと申します。マリナと呼んで下さい」

 俺は自分も名乗りながらその手を掴む。その際に指輪が光った気がした。そこに目を向けたが、特にいつもと変りない指輪だ。気のせいかと思い俺は手を掴んだままの相手に目を戻し、そしてぞっとした。

 彼女は再び笑顔を浮かべていた。だがさっきまでの柔らかな笑顔とは完全に剥離している。それは笑顔と呼ぶのもおこがましいほどに冷たく、背筋を凍らせるのに十分なものだった。

「ふふ。逃げちゃ駄目ですよぉ」

 やがて彼女は囁くような笑い声とともに霧のごとく消えた。

 俺はその場に張り付けられたかのように、化かされたように、町の雑踏の中ただただ立ち尽くしていた。

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