4.4
溺れる!
一瞬だが本当にそう感じた。顔面に当たったのは固い床ではなく冷たい水のような感覚。あろうことかそれは流動的に口の中に流れ込んできた。
俺はもがこうと腕を上げた。しかし次の瞬間には自分は膝をついているだけで溺れてもいないし、ましてやどこも濡れていないという事に気が付いた。
「よっと!」
声のした方に顔を向けると、つくもが全くの宙から飛び降りてきていた。
「なんだよ今の!!」
「だから『
「言ってねえよ! しかもお前押さなかった!?」
「顔近づけてたからフリかなーって」
「お前が近づけろって言ったんだろ! 溺れるかと思ったぞ!」
「『
つくもはケタケタと笑った。やっぱりこいつは壊滅的にガイドには向いていない。俺はもう何も言わずに溜息だけついた。
俺が膝を払って立ち上がった時、話し声に誘われたのか暗がりから一人の男が姿を現した。その男はつくもに目を止めると驚いたように声を上げた。
「なんだ、誰かと思ったらつくもか」
「あ、リストじゃん! おっひさー!!」
リストと呼ばれたその男はマントを羽織った長身の青年だった。色褪せた布を巻いた額の上からは小さな二つの巻き角が生え、マントから覗く腕は鱗に覆われていた。
「久しぶり。お前がここに来るのは珍しいな。何か用事か?」
「今日は試練を探しに。この人のね」
そこでようやくその男は俺に気付いたようだった。目が合った途端、みるみるうちに顔面が蒼白になっていった。かと思うと男は突然つくもの頭を鷲掴むと、そのまま俺の方に向けて無理やり押し下げた。
「すまねぇ! 確かにこいつは失礼であほで間抜けだが、ただ頭がちょっとおかしいだけなんだ! 恐らく悪気はなかった! どうか許してやってくれ!」
何か盛大に間違われてはいたが、つくもが失礼であほで間抜けでただ頭がちょっとおかしいという意見には大いに同意だった。
「ちょっと! リスト何すんのさ!?」
「ほらお前も謝れ! いったいこんなおっかない人に何をしたんだお前は!」
男の手から逃れようともがくつくも。誤解を解いた方がいい気もしたが……まぁ面白そうなので今回ばかりは放っておく。
無理やりお辞儀させようさせられまいと必死に取っ組み合っている二人を眺める。その様子を見る限り、どうやらその男はつくもとはそれなりに親しい間柄のようだ。
「まったく! お前はなんでそういつも人に喧嘩ばかり売るんだ! よりにもよってこんな恐そうな魔王に!!」
「ちがーう! 私は案内してあげてるの! それに央真さんは魔王なんかじゃないし!」
ようやく押付ける腕から抜け出したつくもは自信満々に胸をはって、あたかも歴史上偉大な大発見でも発表するかのように俺を勢いよく指差した。
「いい!? この人なんと、この顔で人間なんです! わかる? ニ・ン・ゲ・ン!」
この顔で、は余計だ。つくもの発言を聞いた男は半ば呆れたような表情を浮かべた。
「アホか! こんな顔して魔王じゃなくて人間? んなわけないだろ! だよな!」
突然、さも当然のごとく同意を求められた。しかしまことに残念ではございますが、つくもの言っている事の方が正解なのです。
「えっと……一応人間、だ」
「ははは。何冗談言ってんだ? そんな顔して!」
「……」
「またまたー」
「…………」
「え、その顔で!?」
「だからこの顔でだよこんちくしょう!!」
当惑した表情を浮かべる男につくもは畳み掛けるように言葉を重ねていった。
「だーかーらっ、私は連行されてんじゃないの! 案内してやってるの! 私飼い主、コイツ実験動物! オーケー!?」
いや全くもってオーケーじゃねーよ。
オーケーではなかったが、このままでは話が進まなさそうだったのでそこはスルーして大まかないきさつを話した。始めは半信半疑の様子だった男は終いには頭を抱えていた。
「……というわけで、俺はこの指輪を解放するために試練を探してるんだ」
「はぁ、閻魔大王に送られた人間……。まさかつくもの馬鹿話に付き合ってるわけでもなさそうだし……しかし本当に人間とはねぇ。俺はてっきりどっかの武闘派の獄魔王かと」
男は俺の事を頭の上からつま先まで(なぜか顔はスルーされたが)興味深そうに観察した。特に念入りに指輪を観察した後で自分の角をがしがしと掻きむしって頷いた。
「にわかには信じ難いが……まぁ嘘で自分から人間を名乗るような物好きもいないか。自己紹介が遅れたな。俺はリスト、つくもとはくされ縁だ」
「俺は央真。つくもとは腐りきって切れる寸前の縁だ」
「ちょっと央真さんどういうことですか!」
「ははは、まぁつくもと過ごしてればそうなるわな。ましてや本当に人間ならなおさらだ。こいつは普段から人間が好きだとかおかしなことを言ってるせいで誰も寄り付かないもんでな」
それを聞いて俺はしばし口を閉ざした。不意につくもに自分と似たものを感じたからだ。近くに誰も寄り付かない寂しさは誰よりも知っているつもりだ。多少言動が変だからといって、好きな物を好きだと言うだけで友達ができないというのは辛い事だろう。
俺が躊躇いがちに声をかけようとした寸前、つくもは地面に唾を吐いた。
「けっ! あんな連中こっちから願い下げですよ! 人間以下の下等生物なんてチョンボロマルトロニスに顔面喰い千切られやがれです!」
前言撤回。こいつは友達ができなくて当然だ。
俺は少しでもつくもに親近感を覚えた事を後悔しながら溜息をついた。
「あ、大丈夫ですよ! 央真さんのことはちゃんと死ぬまで面倒見ますから!」
「だからペット扱いをやめろ!」
背伸びをして俺の頭を撫でようとするつくもの手を払いのける。端からそれを見ていたリストは面白そうにひとしきり笑ってから手を叩いた。
「よし! よかったら俺も協力させてくれ。つくもと人間のコンビね。なかなか面白そうだ」
「協力って……いいのか?」
「つくもの知り合いってなら他人でもないしな」
「それじゃあありがたくお願いするよ。つくもはガイドに向いていなくて。えっと、リストさん」
「リストでいいよ」
その一言を聞いた瞬間、俺の中に稲妻が走る。今なんて言った? リストでいい?
もしかしてこれは俺が一度も体験することのなかった、人生の目標の一つ、『知り合いを名前で呼ぶ』なのではないか!?
「本当にいいのか!? その、えっと、よろしく! り、りり、リスト!」
「お、おう……」
「うわぁ! 央真さんが外道極まりない拷問を思いついて喜びに笑顔を噛み締めた魔王みたいな恐ろしい顔してる!」
「うるせぇ!」
しかし確かに頬が緩んでいるのは事実だった。今まで生きてきて知り合いを名前で呼ぶような関係になったことがなかったのだ。同世代ぐらいの男と名前で呼びあうと言うのはかなり憧れのシチュエーションだった。まさかその相手に角が生えているとは思いもよらなかったけど。
そんな俺の心境も知らず、早速つくもとリストは部屋の暗がりへと踏み込んでいた。俄然、試練へのやる気を増して後を追う様に暗がりに足を入れると、壁にかけてあった松明が灯る。そこで俺は初めて自分がいる場所の光景を目の当たりにした。
そこに並んでいたのは石碑だった。長い洞窟を思わせる部屋に背の高さほどもある石碑が墓標のように、けれど乱雑に立ち並んでいる。
「どうだ、なかなか壮観だろ? これが試練だ」
目の前にひたすら続く石碑の数に圧倒されている俺の様子を見て、リストが口を開いた。
「驚くのはいいがこれでも魔王城の中じゃ一部だからな。城にある中でも比較的難易度の低い試練がここには揃ってる。ほら見てみろ、石碑に文字が刻まれてるだろ?」
「本当だ。なんか長々と書いてあるな」
「それが試練の内容だ。それを読んで挑む試練を選ぶんだ」
試しに近くの石碑に近寄って刻まれた文字に目を通してみた。
『森裾を統べるもの
木々の裾に潜むもの払いて、紅に濡れた石を手にせよ』
俺は自分の目がおかしくないか確認してから三回ほど読み直した。しかしどこにも読み逃しはなく文章はそれだけだった。
「……内容が全くわからないんだが」
「そりゃそうですよ。試練の内容が全部わかったら事前に対処し放題じゃないですか!」
驚いた様子のつくもを横目で見ながらリストは申し訳なさそうに笑った。
「まぁ残念ながらそういうことだ。ある程度は予想して挑むしかない」
俺はうめき声を上げながら項垂れた。簡単な試練をクリアしてさっさとこの指輪を解放するつもりでいたが、これだけ多くの試練があってどれが簡単かもわからないときたら膨らんでいた気力も途端に萎んでいった。難易度の低い試練だと言ってもここは魔界だ。人間の俺がそうそうクリア出来るとも思えない。
「そう落ち込むな。何も簡単なものを探す手だてがないわけじゃない。石碑をよく読めばヒントは隠されている。例えばだ……」
リストはいくつかの石碑を見て回って、その中の一つを指差した。
「この試練の最後の文は『光を背にして竜の口を抜けよ』になってる。これは恐らく突破種だ」
「突破種?」
「いいか、試練ってのはある程度分類されてる。例えば魔獣か何かを倒せってんなら討伐種、謎を解けってんなら解明種だ。その中でも突破種ってのは迷路になってる洞窟を抜けろだとか獣がいる草原を抜けろだとかだ。これはとにかくゴールを目指せばいいだけだから比較的簡単なんだ」
「じゃあ何とかを抜けろ、とかで文が終わってる試練を探せばいいのか」
「そうなるな」
俺はリストに心の底から感謝した。ガイドというのはこういう人のことをいうのだ。決して人を実験動物扱いするような人を指すのではない。
「えー突破種なんかよりこっちの方が面白そうですよ! ほら『黄土より生まれし竜を討ち倒せ』だって! 簡単そーぅ!!」
俺はぶーぶー文句を言うつくもを無視して石碑を見て回った。方針ができてからはある程度探すのが楽になった。明らかに危険そうなものは選択肢から排除して、簡単そうなものを探す。
いくつかの列を渡り歩いたところで一つの石碑の前で足を止める。何度か読み直して吟味してから、少し離れたところで試練を探していた二人を呼び戻す。
「これなんだがどう思う?」
二人はしばし試練を読んで考え込んだ。そのうちつくもは不服そうな表情を浮かべた。
「なんだか簡単そう……」
「まぁ簡単そうなのを探してたからな」
「……うん、これならそこまで難しくはないんじゃないか」
俺は胸を撫で下ろした。同意が得られて少しだけ安心する。俺はもう一度その石碑を眺めてから肩に力を入れた。よし、この試練にしよう。
「決めたよ。試練ってのはどう始めればいいんだ?」
「その石碑に手を触れるんだ」
リストの言うように目の前の石碑に恐る恐る手を近づけると、手が震えている事に気付いた。俺は一度強く目を閉じてから、一息に石碑に手のひらを押付けた。
石碑がぼんやりと赤い光を放ち始める。それと呼応するように指輪に嵌め込まれた石も薄く発光を始めた。腰が引けそうになるも、その恐れを打ち消すようにより強く手を押し込んだ。その瞬間、石碑を中心として足下に光る輪が広がった。
『
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