ほんと先輩は、変わりませんね。
──大切な何かを、失くしてしまった。
そんな想いが、胸を衝く。
──大切な何かを、受け取った。
だから俺は、ここに居る。
幸せな、夢を見た。大好きな人と抱きしめ合う、そんなとても幸せな夢を見た。……でもその裏で、多くの涙が流れていた。その幸せな夢は、誰かの涙の結晶だった。
だから彼女が、願ってくれた。
その夢を、綺麗だと言って。その夢を、誰より祝福して。彼女は俺たちに、花束を送ってくれた。夜の闇を覆い尽くす、青い花束。奇跡を咲かす、青い桜を。
だから例え何もかもがなかったことになって、何も覚えていないのだとしても。あの青い花束と、何より楽しかったあの夏の思い出は、しっかりと俺の心に焼きついている。
「……行くか」
そう呟き、家を出る。するとちょうど、静かな雨が降り出した。
◇
しとしとと降る、静かな雨。肌を刺すような、冷たい風。校舎から聴こえる喧騒は遠く、澄んだ静寂が辺りに広がる。そんな冬真っ盛りの、誰もいない昇降口。
風切 直哉は、1人空を見上げていた。
「…………」
毎年夏になったら姿を現す少女、青桜 ささな。美しく凛としていて春風のように笑う彼女は、どうしてか今年、姿を現さなかった。
けれど直哉は、当たり前のようにその事実を受け入れた。嘆くことも悲しむこともせず、とても静かにいつもと変わらない日常を送る。それは昔の直哉からすれば、考えられないことだ。
「……雨、止まないな」
無論、直哉は知らない。自分たちが消えた後、ささなが何を願ったのか。……いやそれどころか、今年の夏の出来事を直哉は何も覚えていない。直哉も、鏡花も、玲も、そして美綾も。誰も何も、覚えてはいなかった。
だってあの夏の出来事は、全てなかったことになったから。
生意気な後輩が、オカルト研究会の部室を訪ねてくることも。昔馴染みの2人と、また仲良くなることも。皆んなで勉強会をしたことや、合宿をしたことまで。全部全部、なかったことになった。
それが、ささなが願いを叶えた代償。
何より楽しかった夏を。何より輝かしかった日々を捧げて、直哉と美綾はこの世界に戻ってきた。
でも……。
「鏡花と玲は、何してるのかな」
でも、何も残らなかったわけじゃない。
まるで止まっていた時間が動き出したように、鏡花と玲の2人はオカルト研究所の部室に、遊びに来るようになった。無論、まだあの夏のような関係は取り戻せていないけど、それでも2人は1歩ずつ直哉の方へと歩み出した。
「…………」
……でも、何かが足りない。そんな想いが、直哉の胸中で渦巻く。
忘れてしまった、誰か。まだ出会っていない筈の、誰か。知らない筈なのに知っている。何より大好きだった、誰か。
きっと彼女が居るから、ささなが居ない胸の痛みに耐えられる。そう思うくらいその子のことが大切なのに、どうしたって思い出せない。
だから直哉は、待っていた。ぼーっと雨を眺めながら。静かな雨音を聴きながら。青い春がやって来るのを、ただ1人待ち続けていた。
……けれど、いくら待っても冬は明けない。
「……!」
そう思った直後、1人の少女の姿を見つける。
まるで祈るように、静かに空を見上げている少女。白い肌に、癖毛な茶髪。自信がなさそうなのに、どうしてか芯の強さを感じさせる、真っ直ぐな瞳。
その少女の姿を見た瞬間、直哉の心臓はどくんと跳ねた。
「雨、止まないね」
だから気づけば、そんな言葉が溢れていた。
「……え?」
少女は驚いたように、肩を揺らして辺りを見渡す。それはとても子供っぽい仕草で、直哉は小さく笑みを浮かべる。
「え、あの、その……止みません、ね」
そして、そこで初めてその少女と目が合った。
「────」
たったそれだけで、どうしてか直哉は泣きそうになって、ポケットの中でぎゅっと手を握り締める。
「傘、持ってるの?」
「は、はい! ちゃ、ちゃんと持ってます!」
「そ。なら、俺と同じだね」
胸の内で広がる涙を飲み込んで、直哉は軽く笑ってみせる。
そこでちょうど、雨が止む。2人を繋いでいた静かな雨は、吸い込まれるような青空に、飲み込まれてしまう。
「……帰るか」
そう呟き、直哉は校舎の方へと歩いて行く。……これ以上この少女の側にいると、胸が痛くて泣いてしまいそうだった。だから直哉は、早足にこの場から立ち去る。
……本当は、少女の名前を聞いておきたかった。もっともっと、この少女と話してみたかった。でも胸が痛んで、これ以上ちゃんと喋れる気がしなかった。
「…………」
直哉は歯を噛み締めて、黙って少女から距離を取る。離れる度に胸の痛みは増していくけど、それでもこの見ず知らずの少女に涙を見られたくはなかった。
「……え?」
──でもふと、青い桜が舞った。
小さな小さな、たった1枚の青い花びら。それは優しく風に乗って、踊るように宙を舞う。
直哉はそんな青い桜を追って、背後に視線を向ける。するとその少女も、まるで長い夢でも見ていたような顔で、直哉の方に視線を向ける。だからまた、2人の視線が重なり合う。
「──あの、私と一緒に帰りませんか?」
その言葉はまるで春風のように、静かに直哉の心に響く。
「……うん。一緒に帰ろうか」
だから直哉はそう答えて、歩き出す。
「……あ。鞄、忘れた」
でもすぐに足を止めて、そう言う。
「ふふっ。なんですか? それ」
そんな直哉の姿を見て、美綾はからかうような笑みを浮かべる。
「私、点崎 美綾っていいます」
「俺は、風切……風切 直哉」
「よろしくお願いしますね? 直哉先輩」
「ああ。よろしくな、点崎」
「ふふっ。点崎なんて呼ばないで、美綾って呼んでいいんですよ?」
「女の子をいきなり名前で呼ぶのは……ダメだろ?」
「なんですか? それ。直哉先輩って、そういうところ……」
2人の頬を、冷たい風が撫でる。吐き出す息は白く色づき、マフラーを巻いていても寒さに身体が震える。冬はまだまだ色濃く残り、春の気配はどこにもない。
でも……。
「──童貞っぽいですね」
美綾は、笑う。直哉も、笑った。まだまだ遠い筈の春は、こんなところで花を咲かせる。
そして、そんな眩いばかりの春に紛れて、青い花びらが空を舞っていた。
いつも童貞だとバカにしてくる後輩に、実は経験者なことをバラしたらどうなるか検証してみた。 式崎識也 @shiki3
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