逃げちゃダメですよ? 先輩。



 鏡花と2人、黙々と勉強を進める。昨日はもう少し会話もあったが、今日はテスト前日ということもあってか、鏡花はとても集中していてほとんど会話が無い。


「…………」


 だから、というわけでは無いけれど、ちらりと鏡花の横顔を窺う。鏡花はとても真剣に、課題に取り組んでいる。そんな鏡花の横顔は、昨日点崎と話した時に思い浮かべた顔よりずっと大人びている。


 ……それを少し寂しいと思うのは、きっと甘えなのだろう。……いやそもそも鏡花だって、俺の顔を見れば同じようなことを思う筈だ。


「……なに? ジロジロ見て」


 と、そこで俺の視線に気がついたのか、鏡花は顔を上げてこちらを見る。


「いや、ごめん。何でもないよ。……それより、もう問題できたのか?」


「ううん。……ここがちょっと分からないから、教えてくれる?」


「分かった」


 そうしてそこからは余計なことを考えず、ただ黙々と勉強を続けた。今日の鏡花は昨日よりずっと集中していたから、もっと時間がかかるだろうと思っていた課題を、あっという間に片付けてしまった。



「だいたい終わったな。この調子なら、明日は平均点を越えられるかもな。……ほんと、どうしたんだ? 鏡花。今日はやけに、集中してるな?」


「…………」


 教科書とノートを片付けながら、鏡花にそう問いかける。……けど鏡花は返事を返さず、どこか覚悟を決めたような目で、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。


「……? どうかしたのか? 鏡花。そんな真面目な顔して、まだ分からないところがあるのか?」


「うん。1つだけ、確認しておきたいことがあるの。だから……だからあんたは、正直に答えて」


 鏡花はそう言って、見たことが無いくらい真剣な表情で、俺の瞳を見つめる。


 だから俺は、


「分かった」


 それだけの答えを返して、黙って鏡花の言葉を待つ。……なんだかとても嫌な予感がするが、それでもこんな真剣な表情をした鏡花を無視するわけにもいかない。


 

 だから俺はただ黙って、真っ直ぐに鏡花の瞳を見つめる。すると鏡花は大きく息を吐いて、ゆっくりとその言葉を口にした。




「あんた、来年の9月22日までに恋人を作らないと、ささなに殺されるって……ほんと?」



「────」



 返せる言葉が無かった。だってそれは、鏡花には伝えるつもりが無かったことだから。


 来年の9月22日。それ以降はもう、ささなは俺の前には現れない。そしてだからこそ俺は、それまでに彼女より大切な誰かを見つけなけらばならない。


 そういう約束を、俺とささなはしている。


 俺が鏡花に伝えたのは、それだけだった筈だ。なのにどうして、鏡花がそこまで知っているんだ?



「驚いた顔してるわね。……それじゃやっぱり、嘘じゃないってことね?」



 鏡花は椅子から立ち上がり、強い瞳で俺を睨む。


「……ああ」


 だから俺は諦めたように、短い答えを返す。


「それって、玲ちゃんやあの……点崎さんは知ってるの?」


「…………知ってるよ」


「……つまりあんたはまた、あたしだけ除け者にしてたのね……! …………どうして? どうしてあんたはいつもいつも、あたしだけ除け者にするのよ……! 答えて!」


 鏡花はとても悲しい声でそう叫んで、冷たい……とても冷たい涙をこぼす。だから俺は立ち上がって、彼女の方に手を伸ばす。


「触らないで!」


 けどいつかのようにそう叫ばれて、俺は途中でその手を止める。


「鏡花、俺は……」


「言い訳なんて聞きたくない! ……ねえ? どうして? どうしてあの時も、今も……あんたはあたしだけ仲間外れにするの? あんたはそんなに、あたしが嫌いなの?」


「違う、そうじゃない。俺はただ……」


 お前には、笑ってて欲しいだけなんだ。あの時は俺のせいで、お前を傷つけてしまった。だからお前は俺なんかとは関わらず、遠くで笑っていて欲しかった。



 ……そんな言葉が思い浮かぶけど、今更そんなことを言っても、言い訳にしかならない。


 だから俺は手をぎゅっと強く握りこんで、ただ黙って鏡花の言葉の続きを待つ。


「……昨日、玲ちゃんとささなが話してるの、聞いちゃったのよ。来年の秋になってもあんたに恋人ができなかったら、あんたは……死んじゃうって……。だからあたしは、昨日そのままあんたの所に乗り込んでやるつもりだった……」


 鏡花はそう言って、視線を俺が昨日眠っていた父さんと母さんの寝室に向ける。


「……でも、怖くてできなかった。あたしが扉を開けた瞬間、あんたとあの子が……してたら、あたし……耐えられないから」


 ……今朝の鏡花の様子が少しおかしかったのは、そういう理由があったからなのか。急に抱きついてきたり、昨日の夜のことをやけにさぐってきたのは、それほど彼女が不安だったからなのだろう。


「鏡花。聞いてくれ。……俺はさ、大丈夫なんだよ。俺はこの夏こそ、絶対に恋人を作るって決めてる。だから……」


「分かってない! あんたは何も……分かってない……! あんたが突然死んじゃったら、あたしがどれだけ……どれだけ辛いか、分かる? ……あたしが……あたしがどれだけ、あんたのこと好きだと思ってるのよ……!」


「…………それは、って、いや……え? お前今……俺のこと、好きって言ったのか?」


 俺は驚きに目を見開きながら、唖然と鏡花の顔を覗き込む。


「………………バカじゃないの。あんた今頃、気がついたの?」


 鏡花はそんな俺の顔を見て、呆れたようにため息をこぼす。そして倒れ込むように、正面から俺を抱きしめた。


「ずっと、ずっと好きだったの。昔からずっと、こうやって抱きしめたかった。……でもあたしは臆病だから、こうやって正面から抱きしめるのが怖かった……。あんたが抱きしめ返してくれないかもって考えたら、どうしても怖くて……できなかった……」


 ドクドクと、鏡花の鼓動が伝わってくる。多分きっと、俺の鼓動も鏡花に伝わっている。



 ……けどそれでも、決して心を交わすことはできない。



 だから俺たちは、ずっとすれ違い続けてきた。



「……好きよ。あんたからしたら突然に聞こえるかもしれないけど、あたしはずっとあんたが好きだった。…………あたしのせいで、あんたがあんなことになって、だから怖くて……ずっと逃げてきた。けど、それでもあたしは、ずっとあんただけが大好きだった……」


 鏡花はもう離さないというように、強く強く俺を抱きしめる。


「でも、それでもあたしは怖かった。だからずっと、謝るのは明日でいいやってそう思ってた。この気持ちを伝えるのは明日にしようって、そう思ってたら……いつのまにか、こんなに時間が流れてた」


 カチカチと、秒針がいつも通りに時間を刻む。それはとても当たり前のことだけど、それに気がつくのは、いつだって時間が流れてからなんだ。


「……でもあんたに、明日は無いかもしれない。明日でいいやって言ってたら、あんたは本当に……死んじゃうかもしれない。だからあたしはもう、立ち止まらない」


「…………」


 ここで俺が鏡花を抱きしめ返してやれたなら、それで全てが終わるのだろう。……けど俺は、鏡花の想いを知ってなお……ささなへの気持ちを断ち切れない。


「……直哉」


「なに?」


「好きよ」


「…………」


「それでもあんたは、ささなが好き?」


「……ごめん」


「もう謝らなくても、いいわ。だってもう、決めたから。絶対にあたしがささなからあんたを奪い返すって、もう決めたの」


 ドキドキと、俺と鏡花の鼓動が溶け合う。……思えばそこだけは、昔と何も変わらない。昔、鏡花に抱きつかれてた時も、今と同じように俺の心臓はドキドキと高鳴っていた。



「…………」



 来年の俺の誕生日までに、ささなより大切だと思える相手を見つけないと、俺は死ぬ。



 そのことを鏡花に伝えたら、彼女は優しいから無理にでも俺の側に居てくれると思った。だから俺は、鏡花には……いや、点崎や玲にも、その事実を伝えたくは無かった。


 ……けどそんな理屈は、結局俺の独りよがりだったのだろう。



 だって……。



「ごめんな、また泣かせちまって。本当は……もっとうまくやれると、思ってたんだよ」


 鏡花にはもう、泣いて欲しくは無かった。だから何年の間、鏡花と話すことは無かった。けど俺の気遣いは毎回毎回、空回る。


 ……ほんと、バカみたいだ。


「バカっ。もう謝らなくてもいいって、言ったでしょ? …………でも、あんたが少しでも申し訳ないって思うなら、もう少しだけ……抱きしめさせて。あんたはあたしを……抱きしめなくてもいいから……」



 それからしばらく、ただお互いの心音を聴き続けた。



 そして、そんな永遠みたいな沈黙はいつのまにか流れて、鏡花はゆっくりと俺から手を離す。



「じゃああたし、もう寝るから。……明日から、覚悟しなさいよ?」


「その前に、テストがあるのを忘れるなよ」


「そんなのもう、楽勝よ。だってもっと頑張らなきゃいけないことが、目の前にあるんだから」


「そうかよ。……じゃあ、おやすみ。鏡花」


 他にも言いたいことはいっぱいあったけど、俺はそれだけ言って鏡花を見送る。


「うん。おやすみ、直哉」


 そして鏡花もそれだけの言葉を返して、この部屋から立ち去る。



 だから俺はそのまま、倒れるようにソファに寝転がる。


「…………変わったと思ってたけど、結局それは俺の……」


 俺はそこで言葉を区切って、そのまま目を瞑る。考えたいことがいっぱいあったし、ドキドキと心臓はまだうるさい。



 けれど今はその全てを無視して、眠りたかった。



 だから俺はそのまま目を瞑る。





 そして──。






 ふと唇に、柔らかな感触を感じた。



「……!」



 だから俺は慌てて、目を開ける。するとそこには、何故か立ち去った筈の鏡花が笑みを浮かべていた。


「……バーカ」


 そして彼女はそれだけ言って、今度こそこの部屋から立ち去る。


「………………バカはお前だよ、鏡花」


 俺は大きなため息をこぼして、もう一度目を瞑る。





 ……しかしいつまで経っても、唇に残った柔らかさは消えてはくれなかった。


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