四章



 円窓からは裏庭の様子が見て取れた。薔薇閣は正房おもやの裏に三方を垣根で囲まれた小庭があった。竹林が溜池沿いに生えており、雪は積もっておらず赤茶色の土色が剥き出しになっていて竹の緑と落ち着いた色合いを醸し出す。建物の名の通り荊棘いばらを巡らされたその向こうは自分たちを閉じ込めた塀が見え隠れしているけれども、どこか牧歌的な庭の様子に故郷の宮が思い出されて沙爽は少し寂しくなる。


 目覚めてから七日が経っていた。既に小寒が過ぎ、季節は新年に向けてますます骨身に沁みる寒さになってゆく。

 由毒ゆうどくで萎えた脚はなんとか自力で歩けるまでに回復したが、まだ長時間耐えられるかどうか分からなかった。茅巻が飛ばしてくれた伝鳩とりのおかげで瓉明や撫羊の動きは伝わっているものの、いつ時勢が変わるとも分からない。一刻も早く取引を成立させて帰らなければならないというのに。


「あまり窓を開けていると、お身体に障ります」

 ふいに声がかかり、振り返ると歓慧が茶器を抱えて立っていた。

「ああ。でも、ここからの景色は好きだ」

「左様ですか。あの竹林は春になるとたけのこが採れるんですよ」

 にこにこと笑って乳の香りのする茶を注ぐ。彼女の振舞ってくれるものは四泉のとは違い不透明の赤茶色で少し塩味がした。

「筍か…私は少し苦手だ。あの食感が」

 まぁ、と歓慧は残念そうに首を振る。

「芯のほうを食べてご覧なさいまし。柔らかくて甘いですから」

 湯呑みを受け取って、沙爽は少女の髪紐に気がつく。

「紐の先に硝子玉がついているのだね。綺麗だ」

 歓慧は毎日髪紐を変える。泉畿みやこでは鈴の付いているものが流行なのだと教えると、音の出るものは身に着けられないと言った。

「このあいだ鼎添さまが言っていたのを参考に作ってみたんです。硝子玉一個ずつなら、音もしませんし」

「自分であつらえたのか。歓慧どのはすごいな」

 沙爽は気がついていないが、歓慧は褒められ慣れていない。どう反応して良いかわからず、ただ笑うにとどめる。

 沙爽は沙爽で、彼女がいったいいつ寝ているのかと疑問に思うほどよく働いているので素直に感心している。下女と言う割には品が良く、なまじ泉畿の下官よりも様々なことに精通していて、話していて飽きない。

「もうだいぶお具合はよろしいようでございますね」

「ああ。あと二、三日もすれば。ところで、族主はどうされている?非常にお待たせしているから詫び状のひとつでもしたためねばならないと思っているのだが」

 歓慧は首を傾げた。

「その必要はございません。折を見て使者が来ますでしょう。それに、当主は城を空けていることも多うございますので、鼎添さまが快復されるまで待つことには特別にしびれているわけでもございません」

「そうか、なら良いのだが」

 ええ、と呟き歓慧は湯呑みを手で包んだ。いつもより元気が無い気がして、沙爽は窺う。

「どうかしたのか?世話に疲れた?」

 いいえ、と子犬のように首を振る。硝子玉が揺れてきらきらと反射した。

「……当主にお叱りを頂いてしまったのです」

「なにか粗相でも?」

「いえ。わたくしが鼎添さまに気安すぎるので控えよと。他国の方に迷惑をかけるなと」

「そんなことはない。私はそなたと話していてとても楽しいし、迷惑なことなぞひとつもないよ。むしろよくやってくれている。それに、歓慧どのが素顔を晒してくれているから、私たちもどこか安心しておれる。仮面の者にずっと世話されると考えるとぞっとする」

 そうですか、と歓慧はなおも眉を下げたままだ。

「気にすることはあるまい。何なら、私から族主にお願いしよう」

 いえ、それは、と慌てて手を振った。

「……こじれますので、いろいろと」

「そうか?」

 今度は大きく首を縦に振る。その様子がなんだか可笑おかしくて、沙爽は歯を見せて笑った。

「実のところ、族主とはここへ着いて初日にお会い出来たのだが、私は熱に浮かされてあまり覚えていないのだ。配下の様子から見て大層人望があるのだろう。そんなお人がわざわざ歓慧どのをお叱りになる。よほどこちらに気を遣って下さっているということだな」

「はあ…そうでございますね」

 沙爽の中の記憶はだいぶん怪しい。歓慧の複雑な表情には気がつかず、ひとり大きく頷いた。

「そんな御方なら、きっと四泉を救ってくださる」







 人を救うにはまず自分を救わねばなるまい。

 珥懿は鬱々と夕暮れの街路を早歩く。高竺が憮然として後に続いていた。結局、高竺と丞必に説得され、歓慧を直に叱ってしまったのだ。妹の困ったような悲しげな表情を思い出すと、自己嫌悪で吐きそうになる。


 牙族領には城がひとつと、周囲を途方もなく巨大で堅牢な壁に囲まれた街がひとつ。城から続く急な下り坂、掘りき石垣で囲った迷路が東門に繋がり、街の大緯道おおどおりとなり真っ直ぐ横断して西門に続く。壁の外には各家の住む集落と牧草地、兵卒の訓練地と宿舎、棚田に果樹園が広がる。少し離れた山腹には耆宿院の楼堂が立っていて、いずれも周囲は聳立しょうりつする山々で囲まれている。



 街にはごく少数の不能渡わたれずの民と、由歩であっても能に恵まれず間諜として働いてはいない者、別に生業なりわいを持つ者がひしめき合っている。


 牙族に与する人間でも、どこの家の出自か分からない血統を持たない者が多数存在する。また、基本的に血が親しい者同士の婚姻は認められていない。濃すぎれば支障が出るためだ。だから残念なことにそうして生まれてしまった子、望まれず生まれた子は捨てられてしまうことがある。十余年前の大火では身元の分からない赤子や孤児が大量に発生し、そういった者たちも各家で完全に統率されている集落には住めないから街で暮らすしかない。もっとも、有志があればどこかの家に組み入れられるが、聞得キコエの能の高い一家は能力が失われるのをおそれて身元の不確かな者を入れたがらない。


 牙族の街とは市場の機能を備えた要塞の意味合いが強い。住む場所は必ず壁外の集落、街は本来生活をする為の場所ではないのだ。夜も近くなると大抵の人は西門を出て集落へと戻り、不寝番と街に居を構える者のみが取り残され、あたりは閑散として人気ひとけが無い。


 そうは言っても、集落で暮らさない、暮らせない相当数が住んでいる。そして南の一角には夜に賑わう店が集まる。


 珥懿はその一角に足を踏み入れた。ここはいつだって祭りのように騒がしい。高楼の間に渡した紐に赤提灯がいくつもぶら下がり、通りは橙色に染め上げられる。酒に酔い喜色を浮かべた人々が押し合いへし合い緩やかな流れを作っている。活きのいい掛け声を上げる露店が鼻腔をくすぐる匂いをさせ、周囲は活気に溢れていた。

 大通りを少し奥に入ったところで、人波はまばらになる。提灯も道を渡したものは無く、店々の戸口前にぽつりとひとつ掲げられるのみ。

 その通り沿い、隅のそこそこ大きな建物に入る。高竺は近くの路地、店が見える位置で壁にもたれた。彼は今日一晩、護衛として動かない。



 珥懿が店の門をくぐると、知らせてはいないのに店の主人が笑顔を浮かべて待ち構えていた。

「ようお越し下さいました」

「……よく分かったな」

 開けられた戸口から中へ入り、頭から被っていた外套を脱いだ。後ろでひとつに括った黒髪が肩に流れ落ちる。ぼんやりと照明は薄暗いが、個々の部屋では宴会のような狂騒が聞こえているところもある。


「そろそろいらっしゃる頃かと思ったのです。七曜しちようですし」


 七日に一度、城も街も全ての業務を停止する。家禽かきんの世話をする下僕、見張りの者たちなどは休めないが、間諜の各家主人は働かないので仕事は減る。この日は家人のために食事を用意することも寝室を調ととのえることもしなくて良い(大抵は前日に用意しておく)。無論、当主も働かなくていいし、彩影も顔を隠せば城外への外出を許される。


「そうか」

「もう待たせております。酒肴もあつらえてございます」

 うん、と珥懿は瑪瑙めのうの一粒を渡した。主人はそれを押し頂くと、番台に戻っていった。


 最上階の四階、欞花もんようを嵌め込んだ障子隔扇しょうじどを静かに押し開ける。すぐ前には蛇腹に立てられた屏風へいふう、横に抜けると家具も調度も豪華な広い室内が現れる。明かりは窓辺に一つだけ、腰掛けていた女が振り返った。花のかんばせ、しかし笑みなく訪問者を見返している。


 薄暗闇のなか、錦張りの凳子いすに座った。

「どうした」

 女はなおもいじけた表情のまま顔を背けた。珥懿は卓上の酒瓶を開ける。


雪貂せっちょう


 名を呼ぶと、やっと立ち上がって傍に来る。酒瓶を取り上げ酒盃さかずきになみなみ注いだ。勢いよく瓶を卓に置く。

「……どうしてふた月もおいでにならなかったんです!」

 雪貂は軽く珥懿の胸を叩いた。零れる、といなして中身を干す。

「それでむずかっていたのか」

「まああ、憤るだなんて。人を赤ん坊のようにっ」

 さらに拳の追撃が来たが今度は容易たやすく掴む。ぐいと引き寄せて女の顎を捉えた。

い顔が台無しだな、これでは」

 膨らませた頬を撫でると、やっと気が済んだのか雪貂はすとんと隣に腰を下ろした。卓の上の燭台に火を灯す。大きく開いた襟元、灯火に照らされて白蠟のような肌が輝いている。

「変わりはなかったか」

「おかげさまで。主公だんなさまは……また髪が伸びましたわね」

 ひと房掬いあげ、手遊ぶ。珥懿は構わず二杯めを口に付けた。

「街の様子はどうだ」

「皆変わりなくってよ。新年にむけて気が早い人は用意を始めてる」

 そうか、と返したのを雪貂は下から覗き込んだ。

「……どうした」

「平気そうな顔をしたって駄目です。……あなたがそんな顔をするのは、いつも何かがあったときって決まってるんですから」

 垂れかかった後れ毛を耳にかけてやる。そのまま艶やかな黒髪を撫でた。



 雪貂は理由を聞かない。珥懿も話さない。それでも二人は通じ合える。過去の死ぬほどに壮絶な体験も、語らずとも分かる。目線が、気配がそれを伝える。

 雪貂が珥懿の長い髪を編み込んでゆく。きっちり結い終わったところで、自分のかんざしを外した。色素の薄い髪が背に流れる。

 そのまま牀榻へといざなわれ、珥懿はおもむろに衣を脱いだ。


 顔とは非対称に傷痕だらけの背に髪の束がするりと落ちる。ほどよく筋のついた、しなやかな若鹿のような、――紛れもない男の肢体。


「相変わらず着痩せしますわね」

 珥懿はもともと体格は大きくないが長身で、衣を纏うとさらにほっそりと見えた。脱ぐと意外にも逞しい体つきをしている。おどけたのにはこたえず、女をしとねに横たえた。

 雪貂もあでやかな格好にはちぐはぐな、どこか幼い顔で微笑みながら手を伸ばし、両耳を包む。

護耳みみあてをしなくて平気?」

 囁きに、吐息とともに是と返すと帯を解いた。それからしばらく、言葉を交わすことはなかった。





 耳を塞がないと、寝ている間にも滝壺のように音が流れ込んでくる。そういう時には大抵夢を見た。

 今回は、ああ、これは夢だな、と判別できるような夢だった。意味不明の音の羅列とぐにゃりと歪む空間。頭が割れるような轟音がとして現れるとはこういうことなのか、夢だと分かっていてもおぞましい。それにいつもひどく寒い。

 早く目覚めたい、と念じるとふいに額にじん、と温かな感触がある。音が止まる。空間がしんと静まりかえって、漆黒の闇に飲み込まれた。それから、一点の光が見えた。それに向かって泳いでゆく。



 瞼を開いたが、片眼しか外のものを映さなかった。もう半分は塞がれている。いや、埋まっている。

 雪貂は珥懿の頭を胸に抱えて、片手で撫でつけながら桑皮冊ほんを読んでいた。身じろぎしたので体を離す。


「相変わらずお寝坊さん」

 目線だけで見上げる。化粧が取れていてもなんら変わらず美しいままの女だ。白粉おしろいなんて必要ないのに、と薄紅色の唇を撫でた。

 雪貂は微笑みその手を握る。「なんだか寒そうにしていたけど、大丈夫?」

 牀榻の中はかんがあるので暖かく、火鉢まである。ぼうっとしたまま起き上がり、胡座あぐらをかいて髪を掻き上げる。雪貂がせっかく結った髪はほどけてしまっていた。

 一服煙をふかしている間に桶と薬湯が運び入れられ、雪貂が丁寧に髪をきだす。身を整えて遅い朝餉を食べ終わった頃には、陽は中天に差し掛かっていた。


「またいらしてね。珥懿さま」


 愛らしい笑顔でそう言うと、雪貂は上品に手を振った。どこの家族でもない彼女はいつもここにいる。



 店を出ると、高竺がげんなりした様子でたばこを噛んでいた。

「……すまない」

張家ちょうけ産のとびきり高い酒で許してあげます」

「分かった……におうか?」

 男のにおいがするかと訊けば、高竺は首を振った。歩き出しながら莨を吐き出す。

「朝餉も食ってません」

「……好きな物を食え。牛でも鹿でも」







 ようやく取引に臨めるとあって、朝から沙爽は緊張している。歓慧により、泉主にふさわしい高価な長袍いしょうが用意された。沐浴し、髪を結う。彼女は手慣れた所作で身支度を整えてくれた。


「では参じる」

 薔薇閣の門前で振り返った。歓慧はついては行かない。

「どうぞ、良いお取引を」

 笑顔で応じたのに頷くと、沙爽ら三人は仮面の使者に従って初日と同じく迷路のような道を進む。


 今回の房間へやは以前よりも広かった。が、相変わらず薄暗く、香でけぶっている。

 壇上には既に影がある。三人が座ると、族主と思しき人物が簾の中で口を開いた。


「お加減は良くなったようで、何よりだ」

「族主のご配慮とご厚情に感謝申し上げます。今一度、ご挨拶を」

「いい。それより本題に入ろう」

 言を遮られたがしかし沙爽は食い下がった。

「いえ。まずはおん族主の御名を今一度頂戴したく存じます」

 泉主、と暎景がいさめる。簾の人物は面倒くさそうに黙った。

「互いに名乗るのは四泉では基本的なことなのですが…ここでは御無礼でしょうか」

「……牙紅がくと申す。だが名で呼ぶのはおやめ頂きたい。よく知りもしない相手から呼ばれるのは不快極まりない」

 沙爽は頷いた。

「承知致しました」

「それで、今一度四泉としては現状をどう打開したいのか」

 下を向いた。

「出来ることなら、実妹と争いたくはない。しかし二泉の力を借りて城まで攻め入ると言うのなら、排除しなければ、ならないのでしょうね……」

「そこな密偵は撫羊軍の侵攻を思いとどまらせたい、と言っていたが」

「無論、そんな方法があれば一番です。被害は最小限で済むでしょう」

「傭兵の件については、こちらでは数は八百が限界だ」

「問題ないと思います。援軍を派遣し、瓉明の指揮下で京師兵きんぐんを統率するよう指示しました」

 瓉明にほぼ全権を与えたということに等しい。族主は鼻で笑った。

「四泉は数だけはいるからな」

「穫司を越えられてはなりません。なんとしても抑えたい」

 要衝、穫司を越えた金州の北は小邑しょうそんが点々と広がる。人家が少ない代わりに田畑と穀倉があった。

義倉ぎそうを掠奪されぬように今のうちに手を回します」

「戦をしたことのない割に手際が良い」

 恥じ入って俯く。

「実は、全て瓉明の指示なのです。有能な方です。いまは泉畿と穫司の中間である曾侭そじんにいます」

「穫司が落とされた時の為の防衛圏を作っているのだろう?周到だが良くないな。崖都と瀑洛が内から開門したのが原因か」


 そうです、と拳を握った。四泉国軍十一軍のうち三軍は大将軍の直轄で、三軍は瓉明、残り三軍と首都州軍はそれぞれ別の将軍が統率している。崖都と瀑洛を守っていたのは二都市が属するよう州の州軍のうち合わせて千余だが王妹の立場を振りかざした撫羊が開門を呼びかけてこれに寝返った。二県八郷、二万五千の民が撫羊にくだった。


「もし仮に穫司が落とされれば、曾侭で甜江てんこうを堰き止めなければならない。周辺のまちの住民はどうする」


 沙爽は眉間を揉んだ。各国の泉はいずれも主泉しゅせんを源として枝分かれし各都市に小泉しょうせんをつくっている。途中で大きく分岐する流れもあるが、基本は主泉から放射状に延びる幹川かんせんから各小泉に流れ込んでいる。


 四泉の主泉のある泉畿せんきは北に位置し、そこから東西南に向かって延びる河川のうち、甜江は最も太い主流で、南では曾侭と穫司を繋ぎ、枝分かれした川が崖都、瀑洛その他南諸都市の小泉を形成している。穫司が落とされるのならば撫羊軍の生命線となっている甜江と穫司泉を涸れさせて動きを抑えるのが早い。


「瓉明が、穫司が危うくなれば甜江沿いに民を北へ逃がすと言っています。既に逃げている者もいるでしょう。甜江を堰き止めるには時間がかかるので、今のうちに動いておくと」

「分岐の小都市はどうする」

「なるたけ、流れをそちらに変えるようには言いましたが……」

「穫司を捨てて撫羊軍が奪うのが目に見えるな。やはり曾侭で堰き止めるしかあるまい」

 膝を震わせた。それは曾侭の為に南諸都市を見捨てることにほかならない。泉が枯渇すれば他には貯水槽と雨水しか頼るものがない。泉地には、牙族のように地下水脈がないのだから。いくら曾侭が大都市とはいえ、南諸都市全ての民を受け入れることは不可能だった。

「やはりできない……甜江を堰き止めるのは、犠牲が多すぎる……。どうにかして撫羊の進軍を止めさせたいのです」

 簾の中で族主が頬杖をついた。

「方法がなくはない」

「以前もそう言っていたが、何か策があるのか」

 暎景が口を挟んだ。あるとも、と族主は今回も簾を揚げさせた。今日は濃い鶸茶ひわちゃに紅白の南天の花木が染められた襖衣きものを着ている。鉄扇で二泉側の国境を指した。


「二泉の泉を涸らせばいい」

「な――」

「四泉侵攻が黎泉の加護のもとに無いことが分かれば、二泉も兵を退かざるを得まい。まぁ涸らすといっても主泉は大きすぎて無理だがな。国境近くの小泉を涸らして脅すくらいしかないが」

「できるのか、泉を涸らすなどということが」

 さてな、と族主は楽しむように答えた。

「それは二泉側に露見することなく、堰き止めることが出来ると?それは不可能だと思うが」

 茅巻が地図を見ながら唸った。

「そも黎泉の懲罰とは、喧嘩両成敗だ。侵掠したほうもされた側も泉が涸れてゆくもの。しかし、四泉は既に堤の準備中、黎泉の罰は下っていない。それは二泉にも予想出来ていることだが」

「涸らす、というのは単に水を失くす、という意味だけではない」

「どういうことだ」

「霧界にも川が流れているのを知っているだろう」

 泉とは独立して、由霧が立ちこめた国境その他山岳地帯にも渓谷が点在する。

「河川というより、沼に近いが」

 その水は飲めない。毒を含んで茶黒く変色し、気化してさらに由霧を増やす。

安背あんはいを見てみろ」族主が扇の先で図面を叩く。

 国境の山に隣合うようにある二泉の郷だ。

「安背泉は由霧が北辺に被っているだろう」

「これは昔からだ。立ち入れないだけで泉は問題ない」


 由霧は樹木を伐採しても障壁をつくっても晴れることがない。だからいくら泉を城壁で囲いたくても、北辺が由霧に覆われた国境に近すぎるために建設が放棄されていた。北を囲わずに矩形くけいになっているのが安背の特徴だ。北辺は泉のきわからすぐに深い森林地帯、もともと国境を越えての戦は想定されていないから問題なかったのだ。


「まさか国境側から水を抜く?」

 首を傾げた沙爽に暎景は首を振る。

「いや、それでは意味が無いです。安背泉に流れるほうを止めないと」

「……そうだな。ではそちらも堰き止める?」

 族主も黙って首を振る。ちりちりと飾りが揺れた。

「むしろ、流し入れる」

 暎景と茅巻の顔から血の気が引いた。沙爽はそんな二人を交互に見る。

「ひょっとして、霧界の河川を安背泉に引き入れるということですか」

 族主は面紗ふくめんの下でくつくつと笑った。

「……笑い事ではない!」

 たまらず暎景が吠える。「貴様、今言ったのがどういうことか分かっているのか。一度毒におかされた泉が飲めるようになるのは容易なことではないのだぞ」


 泉を抜くのは難しくない。上流を堰き止めて流れを変えるだけでいい。しかし由霧の溶け入った泉は常に大量の炭と、北東の泉国・一泉いっせんでしか採れない麦飯石ばくはんせきで濾過しなければ触れるだけでも害がある。


「穫司を落とされて曾侭まで後退する可能性がある以上、四泉だけに犠牲が増える。二泉側にも何か仕込まないと割に合わないと思うが」

「……それはすでに内乱とは呼べなくなります。こちらから二泉になにかすれば、絶対に本軍が攻めてくる」

「だから、黎泉の仕業に見せかければいいではないか」

「そんなことが本当にできると?」

 族主はさらにつまらなさそうに鉄扇を打ちつける。

「そもそも、四泉は守りに入りすぎだろう。由毒で撫羊軍が動けないのなら、すぐ叩くべきだった」

「それでも三万とすこし、しかもこちらから攻め入るとなればあちらはかならず籠城戦に持ち込む」

「瓉明に最初から京師兵を与えて半数で攻めさせれば勝機はあった」

「その間に二泉が動いたらどうする!あちらだって撫羊軍に由歩三千がいるのだ」

 やめてください、と沙爽が声を上げた。

「こちらから攻撃するなと命じたのは私です」

「主が無能だと辛いな」

「撫羊に従っているのは四泉の民なのです。州軍千もいる。それに、彼女は私の血を分けた妹。それをちゅうすということがどういうことか、族主にはお分かりですか」

 震える声で絞り出し、目に涙を浮かべた。

義兄あにたちは先代の優れたものを受け継ぎながら自ら身を滅ぼした。いまや沙家の王統は危ういのです。何百代も続く王統を繋がなければならないという重圧が、どれほど苦しいものか……。この上撫羊を失っては、希望が霞みます」


 建国以来、沙家は王統として血を絶やしたことがない。これは四泉にとっても、もとい黎泉にとっても重要なことだった。王統が長く続く泉ほど毒に強く、滋養豊かになる。王統が絶えることはまさに泉国民全ての生命に関わることなのだ。

 名将と名高い瓉明が守りのほうを厚くした理由の一つはこれだろうと思われた。可能ならば、撫羊を説得し、奪還したいという泉主の言を撥ねつけることが出来なかったのだ。


「……莫迦莫迦しい。これだから黎泉に隷属している泉国は好かんのだ」

 唾棄のごとく呟いた族主に暎景が気色ばんだ。

「牙族であれ他の一族であれ、血を繋ぐのは同じであろうが!」

「我らと泉国ではそれの目的が違うのだ。一緒にするな」

 冴え冴えと返して沙爽を見下ろした。

「いずれにせよ、こちらが提示致すものとしては傭兵八百と安背泉の汚穢おわいだ。四泉側の小泉も潰したふりが出来るように手配しよう。安背のほうは準備に時間がかかるゆえ、やるなら早めに言って頂きたい」

 これで終わりなのか、と沙爽は項垂うなだれた。一縷いちるの希望を持って毒にむしばまれる身体を引きずり、やっとの思いでここに来たのに。示されたのは絶望的なまでに抵抗のあるものだけ。


「……兵を、貸してもらえるとしたら?」

 茅巻が重々しく問うた。

「傭兵ではなく、牙族の私兵なら?」

「それは掟に触れる。我らはあくまでも傭兵を等価で貸し出すのみ。私兵全てを動かすのは泉国への過干渉だ。それはならない」


 牙族は直截に泉国には関わらない。だから味方として兵を全投入することはない。傭兵も突きつめれば私兵だが、利害で動く人員を集めている。族主に対する忠誠が薄い訳ではないが、対価が支払われればどこへでも行く身軽な者たちだ。


「民のことを第一に考えるなら多軍で崖都と瀑洛を攻め、公主を討ち取って被害を最小限に抑えるべきだ。沙琴を失って二泉がどう出てくるのかは予想出来ないが、少なくとも敵を排除すれば南の一帯に布陣することがかなう。瓉明軍には由歩兵が二百と少し、我らの傭兵八百と合わせて千、南の国境の霧界へ入り二泉の進軍を食い止めるには充分だ。その間に罠なり作れるし、運が良ければ黎泉が動いて泉が涸れる。涸れずともこちらで工作するが。それで一件落着だ。……沙琴撫羊を殺しさえすれば全てが動く」

 鬼だ、と茅巻は冷や汗を垂らした。沙爽に容易く妹殺しつみそそのかす。

「安背の準備は進めておこう。返事は三日後に」

 族主はそう言い捨て、打ちひしがれる三人を残したまま、またも衝立の裏へと消えた。





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