第23話 追跡行
冴え冴えとした月が、夜空を照らしている。
土塀の作る蒼い影が一層、寒々しさを際立たせている。
ひゅう――と、切るような冷たい風が、木の葉を巻きあげた。
思わず山崎は、かじかむ己の手に息を吐く。
隣を歩く志村が、その様子を横目で見つめる。
それが見咎められたかのように思え、山崎は反射的に表情を強張らせる。
眼を離すな――と、鋭い視線で志村をうながす。
すると、肩を竦めながら視線を戻す志村の口元が微かに――嗤った。
ちっ――と、その様子を忌々しく思い、山崎は内心舌を打つ。
志村が新撰組に入ったのは、ひと月ほど前の事でである。
取り立てて、なんの特徴も無い男だった。
下野の出身だと言う志村は剣の才があるわけでもなく、かといって算盤が得意なわけでもない。中肉中背。覇気があるわけでもなく、といって陰気なわけでもない。有体に言えば、十人並みの一言に尽きる。
だが、逆に言えばそれは、山崎たちのような役目には強みだった。
探索方――主に、土方の命によって動く新撰組の間者。隊内を見張ることもあるが、その主たる任務は、京の町に潜む長州を始めとする『尊攘派』を見つけ出すことである。
時に町衆に紛れ、時に旅の行商に身を扮し、時に攘夷派を気取る。ありとあらゆる手段を講じ、獲物を見つけ出す――それが探索方である。
そんな探索方にとって、志村のような男は適材であった。
まだ入隊して日が浅い志村に対し下った命は、旅の行商に扮し伏見界隈に潜伏。伏見丹の密売人を探る事ことであった。
「密売人を突き止めた」と、志村から報が入ったのは三日前だった。
日中のことである。志村と同じ駕籠売りに扮した山崎は、偶然を装い志村と合流。
そこで志村が示したのは、目元の涼やかな肌の白い男だった。
とても薬の行商のようには見えない。まるで大店の二代目のようである。
あのような優男風情が――と、思わなくも無いが、かつて副長の土方も家業の薬売りをしていたと聞けば、そのようなモノかと納得できないでもない。
男は、山崎と志村の眼の前で、三人ほどの人間に伏見丹と思われる薬を売った。
ひとりは浪士崩れ。ひとりはどこぞの女中風。もうひとりは老人だった。
山崎はその中の女中風に近づくと、駕籠を売りつけるふりをしながら、懐に忍ばせた薬袋を掠めとった。
女中は気づきもせず「忙しいので」と、足早に去って行った。
成程、確かに袋には『伏見丹』の文字があった。これだけでは真贋の程は分からぬが、山崎には何故か確信めいた勘があった。
どちらにせよ、漸く網に掛かった獲物である。陽も暮れかけたころ、伏見街道を京へと向かう男の後を二人は追った。
「おい、止めんか!」
微かに唇を震わせるような声で、山崎は窘めた。
志村が先ほどから飴のようなものを、しきりに口に運んでいるのだ。
お役目中や――と、志村を睨みつける。
横目でそれを見た志村は、頭を下げるような肩を竦めるような、微妙な様子で頷いた。
人を喰ったような態度に苛立ちは募るが、
お役目中や――と、山崎はぐっと腹に収めた。
そうこうしているうちに、男は伏見街道を逸れ五条橋を渡ると、六波羅蜜寺の方へと進んでいく。
六波羅蜜寺を脇に先に進むと、男はある大店の裏木戸の前で立ち止まった。
咄嗟に、志村の手を引くと、山崎は土塀の影に身を潜める。
それ故か、山崎の中で、葉沼屋と伏見丹を結びつけることはなかった。
盲点やったか――山崎が己の認識の甘さに、舌を打ったときだった。
木戸を潜ろうとした薬売りが動きを止めた。
木戸の中から、先に一人の男が姿を現した。
身の丈は、六尺近いだろう。癖の強い髪を無造作に束ねている。
腰の
猫背の男と薬売りは、何やら神妙な顔で言葉を交わしている。
「あれはもしや――」
坂本か――と、山崎の眼が輝いた。
党首の武市半平太や、参謀幹部を失った土佐勤王党を、今現在まとめていると言われている男である。
この坂本が伏見丹で金を稼ぎ、攘夷派へ資金を流すことにより、長州にとの関係を密に図ろうとしているのではないかと、土方は読んでいる。
もし本当にそうだとするならば、京に潜伏する長州の残党までも釣り上げることが出来る。土方の狙いはそこである。
眼の前で薬売りと話す男は、伝え聞く坂本の特徴とよく似ている。
だとすれば、この葉沼屋が薬の製造に関与しており、土佐勤王党とも繋がりがあると考えて間違いは無いだろう。
漸く――掴んだ。
無意識に山崎が拳を握る。
その時、坂本と思われる男が薬売りを伴い、再び裏木戸を潜り中に入っていった。
どないする――ここは思案のしどころである。
坂本と思われる男は、あの様子では、すぐにどこかへ行くのだろう。
それを待ち、坂本を追うか――
だが、あの男が坂本であると断定するのは早計である。
先ずは、葉沼屋と伏見丹が繋がっているのかを確かめるのが先決である。
ならば坂本を諦めるか――それも否である。
「志村」
山崎に呼ばれ、志村は気怠そうに顔を向けた。
「わては屯所に戻り、
山崎は一度、土方の指示を仰ぐことを選んだ。
急いでこちらに増援を回してもらい、探索の壁を厚くする。もしもその間に坂本が出て行くようなことがあれば、志村に追わせる。
志村の尾行には、山崎も一目置いていた。
だが、事の重大さがどこまで分かっているのやら。志村は懐より飴を口に含むと、怠そうに頷いた。
「えぇな。任せたで」
一命を賭してもな――と、強い言葉で言い含め、山崎はその場を後にした。
そんな山崎の背を見送り、志村は荷を降ろすと尻を地面につけた。
ひんやりと冷気が伝わるが、昼間から歩き通しである。いい加減休みたかった。
火でも焚いて暖を取りたいところだが、せめて腰を降ろすくらいは構わないだろう。
そもそも、山崎はくそ真面目すぎていけない。
一緒に居ると肩が凝る。
適当に役目をこなして、そこそこの給金を貰う――それで良いではないか。
田舎郷士の五男に産まれた志村にとって、尊皇だろうが佐幕だろうがどうでもよいのだ。
何にも期待などされぬ気楽な身の上。己が楽をして食い繋ぐことが出来ればそれで充分。お役目といえ、他人ごとに命を懸けるなど愚の骨頂である。
この様に――と、再び飴玉を口に放り込む。
飴でも舐めながら張り込むくらいの気軽さが無くて、お役目などやってられるか。
それにしても――旨い飴である。
一粒舐めると、
滋養強壮の効能でもあるのか、舐めていると気血に力が漲り、無性に女が欲しくなる。
これが甘露と言われれば、成程と納得もしよう。
口寂しくなり、飴を再びまさぐる。
残りが二つしかなかった。
ちっ――と、舌打ちし、志村は飴玉をひとつ口に入れる。
困った。食べ過ぎである。
だが止められない。
はて――と、志村は首を捻る。
そういえば、この飴はどこで買ったのだったか。
確か、一週間ほど前だった筈だ。
伏見の稲荷前で張り込んでいた時――そうだ、妙に色気のある飴職人がいたのだ。
鳥居の脇に店を出していた、若い飴職人が声を掛けてきて、二袋ばかり貰ったのだ。
御代は結構です――そう言った。
気に入ってもらえたら、次は御代を頂きますよ――そう言って微笑む若い男の顔に、憶えがあった。
待てよ――最初から、憶えがあったのか?
そうでは無く、最近見た顔の中に、飴職人に似た顔が――と、志村が記憶を手繰っていると、裏木戸が開いた。
身を屈め、中から猫背の男が出てきた。
坂本だった。
手に提灯を持ち、坂本は西に向かい歩き始めた。
あぁ……と、志村は肩を落とした。
このまま朝まで出てこなければ楽であったものを。これでは追わぬわけにはいかぬではないか。
深い溜息を吐くと、志村は地面に指で楔形の印を描いた。楔の一端は長くなっており、西を示している。
これで誰か応援が来れば、西に動いたと言うことが伝わる筈である。
もう一度溜息を吐くと、六波羅蜜寺の方に向かう坂本を追って、志村も歩き始めた。
月の明るい晩である故、気づかれぬよう距離には充分注意をする。
尾行で大切なのは、なにより対象者を見つめ過ぎない事である。と言うよりも、意識を向け過ぎないと言うべきだろう。
見る。聞く。など、相手に意識を向け過ぎれば、自ずと気が動く。
やっとうの腕がたたなくとも、そもそも人には、その程度の気配で有れば読む力があるのだ。
上手に意識を向けないようにしてやれば、距離はあまり関係ない。
極論を言えば、眼前に居たとしても対象者は認識すらしない事もあるのだ。
志村は、中肉中背。目鼻立ちも凡庸であり、良くも悪くも十人並み。山崎など、それこそが探索方としての志村の武器などと言うが、そうでは無い。
この意図的に意識を向けない技こそが、志村の武器なのである。
だが、前を歩く男は常に周囲に気を張り巡らせている。
土佐勤王党の残党であるのなら当然のことであろう。
志村は距離を違えぬよう、最新の注意を払って後を追った。
坂本は五条橋を渡り、西へ進んでいく。
本國寺を越え、このまま行けば壬生の屯所も近い。
まさか大胆にも、この近辺に潜んでいるのだろうか。
そんな志村の思いを知らずか、坂本はさらに荒れた野辺の方へと進んでいく。
いつの間にか、月には雲がかかりはじめ、足元も心許ない。
辺りには人家も無く、ただ枯れた芒の茂る野原である。
闇が濃くなっていくのが分かる。
口の中が乾き、志村は飴玉を口に放り込んだ。
最後か――そう思うと、身体が震えた。
これで飴が尽きると思うと、ぞっとした。
お役目どころでは無い。
こんなことをしている場合では無いのではないか。
自分はもう、この飴が無くては、一刻とていられぬのが分かる。
口の中は爽やかな清涼感から、濃厚なコクが溢れ出していた。
駄目だ――
このまま踵を返し、伏見に向かおう。それで明日の朝一番に、この飴を買うのだ。
坂本も伏見に向かったのだと、そう報告すれば良いのだ。
志村が、そう意を決した時だった。
ふと、先を歩く坂本の姿が、微かに揺れた。
すると、見る見るうちに、その姿は糸が解けるように崩れ、夜気の中に消えていく。
「な、なんだ、あれは!」
脚を止め、思わず声に出してしまう。
坂本と思っていたモノは姿を失い、ぽとり――と、何かが落ちた。
志村が慌てて駆け寄ると、枯れた芒の中に、四寸ばかりの土人形が落ちていた。
その腹の辺りに、六芒星が描かれているが、志村には覚えの無いものである。
「こ、これは一体……」
何が起こったのか理解できない。ただ志村の背を嫌な汗が流れる。
口の中が無性に渇き、懐をまさぐる。だが直ぐに、飴が終わってしまった事を思い出す。
「これを御所望なのでは?」
突如、背後で低い声が響く。
「――ひっ!」
前方に転がるようにして、志村が振り向く。
「お気に入り頂いたようで、何よりです」
闇の中に、あの飴の袋が浮かんでいた。
「お試しの期間は終わりですから。御代をきっちりと払っていただけるのなら、幾らでもご用意させてもらいます」
そこには、伏見から追ってきた薬売りが立っていた。
「あっ!」
思い出した。あの飴職人――誰かに似ていたのではない。伏見丹の売人の薬売りが、飴職人に似ている――否。目元涼やかな薬売りこそが、飴職人だったのだ。
「このような場所まで来てもらえるとは嬉しゅうございます。それほどまでに気に入って頂けたのですね。この――」
伏見丹を――と、薬売り《飴職人》が言った。
「ふしみ……丹?」
「はい」
薬売り《飴職人》が慇懃に頭を下げる。
その時だった。
まるで幕を引くように、月を雲が覆い、闇がその匂いを濃くした。
「探していたのでしょう」
――と、闇の中に声が響いた。
薬売りの背後に、白い幽鬼の姿が浮かび上がった。
「新撰組探索方、志村信吾」
「お、おぉう!」
名を呼ばれ、反射的に答えた。
その瞬間、金縛りにでもあったように、身体が硬直した。
白い幽鬼の横に、黒い大きな獣と、肌の蒼白い若い女が現れた。
逃げなければ――本能的にそう思うのだが、身体は痺れたように硬直したままだ。
「求めよ。されば与えられん」
幽鬼の言葉を合図にしたように、薬売りが闇の中に下がっていく。
入れ替わるように、黒い獣と諸肌を脱いだ女が前にでる。
女の手には、黒い観音像が握られていた。
「な、ななんだよぉ……」
カチカチと、歯の根が合わない。
女が白い指先を伸ばし、志村の顎先を撫でると、蕩けるような甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
すると、痺れて動かぬ身体の中で、股間の物だけが熱を持ち、硬く上を向いていく。
硬く熱を持っていく。
「さぁ、第四の宴を始めましょう」
幽鬼の血のように紅い唇が詠う。
刹那。
女の顔が切なそうに――歪んだ。
その瞬間、女の白い腹から刃が突き出した。
「ひぃぃぃ――――」
それは刃では無く、女の背後に立つ黒い獣の爪だった。
ゆっくりと、鳩尾の辺りから飛び出した爪が、女の恥骨に向かって下がっていく。
ぞぶりと、それを追うように腸が零れていく。
うふふふふふ――
女が恍惚に濡れた顔で悦に浸っていいる。
「おぉぉぉぉぉあぁぁ――――」
その異様な光景を目の当たりにし、志村自身も猛っていた。
次の瞬間。
驚くことに女は、手にした観音像を、裂けた己の腹の中に捻じ込んだ。
はぁ――と、安堵の表情を浮かべ、女は愛おしそうに腹を抱える。
その姿はまるで、子を抱く母の様であった。
「主よ。来ませり」
幽鬼の声が闇に響いた。
最後に憶えているのは、生木を裂くような異様な音だった。
獣の爪のひと薙ぎが、志村の首を吹き飛ばした。
志村が耳にしたのは、己の肉が千切れ骨の砕ける音だった。
ぼとり――と、志村の首が、二間ほど向こうの草むらに落ちた。
首を無くした身体から、吹き上がる血を浴びて、女が恍惚の表情を浮かべたまま崩れ落ちた。
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