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辰井圭斗

  

 木炭紙の2㎜上空をなぞったその指の動きは魔法のようで夢のようで、そして絶望的でひと月分の感情でぶん殴られたような気がした。


 廃部寸前の美術部、二年生の男子が一人、女子が一人の二人きり、放課後同じ部屋でイーゼルを前に格闘している。二人とも美大志望で、しかもそれが同じ大学でというといかにも何かありそうだが何も無い。何か起こることを彼女、志岐しき香月かつきは望まない。同じ大学に行くと言ったって同じ教室に縛られることが無くなれば自然と疎遠になるだろう。


 志岐は多分水彩で描いた方がいい。透明感という言葉があれほど似合う人間もいない。その白いはだもシニョンにまとめた黒髪もよく光を透す。デッサンするのに使う木炭が制服のブラウスにつかないように、袖口をまくって手首から少し上まで膚が見える。俺の目は凡庸だが絵描きだから布を被せられたモチーフなんて何度も見ているわけで、いやなことにその目の発動に否応が無い。だから――安心するのだ。彼女がイーゼルを前にして袖を三回折りたたむたびに、少し許される気がする。彼女が見せても構わないと思っている部分。


「どうしたの?」


 志岐はこちらを見ない。木炭を目の先に掲げて、ラオコーン(無論腹から上しかないレプリカだが)の顔を測っている。あっと言う間に、いとも容易く。


「志岐さんの技を盗もうと思って」


 志岐の口角が僅かに上がる。


「そっちはもうほとんど出来てるんでしょう」


 確かに、俺の方のデッサンは完成に近づいていた。机の上にのせたワインボトルと布と石膏でできた立方体のデッサン。それを俺は木炭紙の上に写そうと足掻いて足掻いてやっと形になった。


「でも駄目だ、描けない」

「描いているでしょう」

「全然駄目だ。


 駄目だ、凡庸で、冴えなく、停滞して、見出すべきところが何一つなく、そのことだけは分かり、微笑む志岐、志岐、君はこんな思いをしたことがあるか。を言ってはならない。迷惑だ。志岐は木炭を横に滑らせようとしている。


「……分かるんじゃないの」


 馬鹿。


「志岐さんなら、分かるんじゃないの」

「何を」

「何が足りないか」


 志岐の手が止まる。俺達は一年の頃から美術部にいるくせにお互いの作品について何かを言うことが無かった。志岐がどうして何も言わないかは知らない。俺の方はと言えば、志岐があまりにも圧倒的だったからそんなもの必要無いと思っている節がある。あと、褒めてしまえば、それを口にしてしまえば、その瞬間俺と志岐の距離が確定してしまいそうで、俺はその予感とともにみじめに口を噤んでいる。ともあれ、今俺が志岐に対して放った問い掛けは俺達のこれまでからして明確にルール違反だった。


 美術室の空気濃度が高くなった気がする。俺が再び口を開こうとしたところで、椅子が動く音がした。志岐が立ち上がってこちらに来る。笑うでもなく仏頂面になるでもなく、目を伏せて奥二重の目元にその時にしかできない淡い陰影をつくりながら、俺を椅子からどかせて代わりに座って、対象物とデッサンを一瞥する。そしてすぐに立ち上がった。


「座って」


 その小さな声に促されて座ると、志岐の指先がデッサンされたワインボトルの口の上を紙面から2㎜離れた状態でついとなぞる。それから指は下に降りていって、ボトルの膨らみのところで行き先を少し曲げて、指を倒して腹の方で下まですっと引く。志岐は上体を起こして指を離した。


 俺は今の軌跡を脳内でトレースしながら実際のワインボトルを見る。息が止まるかと思った。


 これが、光だよ。


 志岐の指が通った所に沿って、僅かに、ごく僅かにボトルが光っていた。あからさまな光ではない、しかし確実に必要なピース。俺には見えなかったもの。俺は練り消しをそれに沿って滑らせる。心臓がバクバクする。そしてボトルの底まで滑らせたとき、目の前が明るくなった。デッサンから風が吹いていた。神様。


 俺は手を腰掛けている椅子の側面に触れさせてしばらく動けなかった。志岐はその間にラオコーンのおおまかな陰影をとった。


 帰り際、デッサンした木炭紙にフィキサチーフのスプレーをかけた(そうして木炭を紙に定着させなければあちこちに粉がついて大変なことになる)。志岐はイーゼルを片付けつつある。カーテンを開けた窓から入って来る夕暮れの光がこの部屋にある物体の影を黒く伸ばしていた。


 今しがた保護したデッサンを見ながら、俺はこれを後生大事にとっておいてしまうのではないかと思った。きっとあれは一度きりのヒントだった。だけど、これを大事にしてしまえば、もうこんなことは無いのだと思ってしまえば、実際その通りになるのではないかと迷信じみた発想をしてしまう。その通りに、違いないのだが。そして、それ以上にそれは――凡庸さの証明ではないか。


 志岐の指が脳裏をよぎる。俺には見えないものをいとも簡単になぞるその指が脳裏をよぎる。――強烈な羨望と嫉妬と憧憬しょうけいを恋に紛わないことは困難だ。おまけに愛着まであるのだから。俺はあの天才が手を動かしているのを見るのが好きで、それと同じ空間にいるのが好きだった。けれども。


「なに難しい顔してんの?」


 向こうでカバンをゴソゴソしている志岐に向かって俺はへらっと笑った。


「いや、俺ふつーに受かるんかなとか思ってさ、才能無いし」


 同じ大学に受かったところで志岐といられないのは分かっているから、その点で俺の言葉はあまり本質的ではなかったのだが、しかし「差」を、俺の凡庸さを痛感するたびに思う事ではあったから、ごまかそうという段になってつい口から出た。その言葉に志岐は首をかしげる。


「才能とか、無いよ。どれだけ描くかじゃないの」


 凡人の十人中十人が俺と同じ事を思う。「お前がそれを言うか」憎悪と情けなさとが混ざって、暗い衝動が起きて、こいつが狼狽えるところを見てみたい、いっそなんて俺が思ったところで。


「というか、受かってよ。あっちで初めの方トモダチがいないなんて嫌だからさ」


 とか、そんな言葉が飛んできた。最初は、「あれ、らしくないじゃないか」と思った。友達ではなくトモダチ、発音のウェイトの置き方が違った。そんなわざとらしい真似をするかと思ったところで、わざとだ、というより、わざとだということを俺に共有させているのだと気付いた。線、引いたからね。完全に俺は志岐にそれを言わせた。何故気付く、というよりそれは狡いだろ、とそう思ったところで。


「……意地悪言ったね」


 と遠くで志岐が微笑んだ。分かってるし、分かってるよねと最後の駄目押し。タコ殴りにされた気分。気が遠くなる。だけど、最早ここまで来るといっそ爽快で、俺は心の九割で思っていることを口にするのだった。


「志岐さんには敵わない」

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