第7話

 夢と現実の狭間を彷徨っているような感覚だった。

 ぼんやりと見える詩織の姿が、徐々に鮮明になっていく。声が明確に聞こえてきて、それが詩織の存在を確立していく。


「起きて! 謙くん!」


 言葉とともに詩織の顔が目の前にくると、謙也はハッとして目を覚まし、驚いた様子で体を起こした。


「「痛っ!」」


 互いの額が激しくぶつかり、鈍い音とともに声を出す。確かに感じる痛みは、寝ぼけた謙也の目を覚まし、彼女の実体がそこにあることを教えてくれた。長すぎる夢を見ていたのか。そう思い、謙也は慌てた様子でスマホを開く。日付は七月十日。それは確かに進んでいて、あの日の出来事もまた夢ではないことがわかった。

 夢と現実が曖昧になるような、不思議な感覚を抱き、謙也は頭を抱えてもう一度詩織に顔を向けた。


「……詩織?」

「もう、なに急に?」


 まるであの日のことなど覚えていないかのように、詩織はただ額に感じる痛みに悶えながら声を漏らしていた。

 生きていたとして、なぜこの部屋にいるのか。遅れて浮かぶ疑問を、謙也は口に出す。


「どうしてここに……?」

「そんなの、私にもわからないよぉ。気がついたらここで目を覚まして、それで謙くんに話を聞こうと思ったの。……その、もしかしてだけど、私たち……」


 そこまで言って、詩織は一度口籠った。徐々に頬は紅潮していき、詩織の考えていることがわからない謙也は、不思議そうに首をかしげる。少しして出てきた言葉は、あまりに突拍子もないことだった。


「しちゃった……の?」

「……は?」


 思わず声が裏返り、次いで謙也は慌てた様子で否定を始めた。


「いやいやいや! そんな状況じゃ、ないし……。っていうか、何も覚えてないのか?」

「うん。それなんだけど、謙くんがうちでご飯食べるっていう約束をしたでしょ? あの日の放課後から、記憶が飛んでて……目を覚ましたらここにいたの。謙くんのスマホ見ちゃったんだけど、日付は進んでるし……とりあえず起こそうと思って」


 詩織の返事を聞き、謙也は考え込むように頭を抱えた。脳裏を過るのは、ハクが言っていたあの言葉。


『俺たちは普通の人には見えないからな』


 もしもあの言葉が本当ならば、ハクも、そして詩織でさえも、今は幽霊のような曖昧な存在になっているのではないか。そう考えて、謙也は一度詩織を一瞥する。様子から見れば、詩織が死んだことを認識していないのは確かだった。それ故に、死んでいることを伝えるべきか否か、謙也は逡巡してしまう。詩織が死んだというショックよりも、今は現状への驚きの方が勝っていた。


「そんなに考え込んでどうしたの?」


 突然声をかけられ、謙也がハッとして顔をあげると、詩織は不思議そうに首を傾げて謙也の顔を覗き込んでいた。

 謙也は一度深く息をして、詩織に向き直る。決心したように詩織を真っ直ぐに見つめると、謙也は徐に口を開いた。


「詩織の今の状況について、詳しい人に心あたりがある。……ただ、その前に一つだけ伝えておかなきゃいけないんだけど、大丈夫か?」


 真剣な表情で告げる謙也の顔を見て、詩織も気を引き締めた様子で深く頷いてみせる。それを肯定と受け取り、謙也ははっきりと詩織に伝えた。


「信じられないかもしれないけど、一週間前のあの日、詩織は俺の前で確かに死んでる」

「……嘘、だよね?」

「いや——」


 言おうとした時、部屋には扉をノックする音が響いた。返事をする間もなく開かれた扉の前には和也が立っており、彼はベッドの上で正座をする謙也を見ると、笑いながら口を開いた。


「そんなところで正座して、何してるんだ? もう七時だから、朝ごはん食べとけー」

「わかった」


 返事を聞くと、和也は扉をしめて階段を下りていく。残された謙也は、前に座る詩織に顔を向けると、ゆっくりと尋ねた。


「わかっただろ? 父さんには多分見えてない」


 目の前で起きた出来事が、謙也の言葉に確信を持たせていた。到底信じがたい出来事ではあり、死んだ実感もない。しかしそれが嘘だとは思えないまま、詩織は笑みを取り繕って口を開いた。


「……そっかぁ。私、本当に死んじゃったんだね……。実感はないけど、うん、そっか。わかった」

「詩織——」

「大丈夫! 大丈夫だよ。謙くん。私は、大丈夫だから」


 心配させまいと笑みを浮かべる詩織だったが、謙也にはそれが嘘であることがわかっていた。詩織が嘘を吐くとき、決まって彼女は右手でうなじのあたりを撫でる癖がある。それを知っているからこそ、謙也は詩織に声をかけたかった。しかし、詩織の言葉はそれ以上言わないでと、そう言っているようにも聞こえて、謙也はその先の言葉を飲み込んだ。


「とりあえず学校に行こう。話を聞かないと、詳しいことはわからない」

「そうだね。朝ごはんも食べなきゃでしょ? 私は部屋にいるから、行ってきて」

「……わかった」


 詩織に微笑を浮かべて返事をすると、謙也はゆっくりと部屋を出て行った。

 いつも通りに朝食を食べ、簡単な身支度を整えて和也を見送ると、謙也は部屋へ戻った。

 微かに聞こえる泣き声が、扉を開けようとする謙也の手を止める。一瞬躊躇いながらも、謙也は深く息をして扉をノックすると、ゆっくり扉を開いた。


「おかえりなさい」

「うん。着替えちゃうから、後ろ向いててくれ」

「わかった」


 顔には笑みを浮かべていたが、目元は確かに赤くなっていた。まだ齢十七にも満たない少女。誕生日を間近に控え、順風満帆な高校生活を送っていた彼女にとって、突然の死はそれほどに酷なものだった。死んだ記憶すらないのだから仕方のないことだろう、と謙也は思う。むしろ人前で弱さを見せまいとする姿は、詩織の立派な強さとも言える。

 それでも、そんな詩織の強がりは、謙也にとってはとても痛いものだった。何か声をかけようと思っても、その全てが皮肉になってしまうような気さえした。支えることもできない悔しさを、謙也は強く感じていた。

 互いに背を向け合いながら、謙也は強く歯を食いしばり、詩織は必死で涙を堪えていた。


 学校へ向かう途中、詩織は試すように通行人の前に出たり、肩をトントンと叩いてみたりしたが、やはりそれに反応する人はいなかった。


「あれ? タカやん今日は学校来たんだ。グレちゃったかと思った」

「まあ、色々あって」


 校門前で晋助に話しかけられるも、やはり彼も詩織には気が付いていないようだった。見えていれば、またいつものように羨ましがるはずだから。


「なんすか色々なことってぇ。怪しいなぁ」

「あまり勘繰るな。それより晋助こそ、いつもは朝練じゃないのか? 部活やめたのか?」

「いきなりひどいな、タカやん。寝坊しただけだよ」

「それはお互い様だろ」


 呆れたように返事をすると、謙也は思い出したように口を開いた。


「そういえば、休んでた分のノート見せて欲しいんだけど。あとでジュース奢るから」

「おっけい。俺のノートめっちゃ綺麗だから、期待しといてくれ」


 話しながら昇降口に入り、上履きに履き替えると、謙也は階段を登っていく結城の姿を捉えた。


「悪い、先行ってる」

「ほい。俺トイレ行ってからいくわ」


 返事を聞きつつ、謙也は結城の後を追って小走りで階段を上っていった。当然詩織もその後を追うものの、彼女の存在に気がつく人は誰一人としていなかった。


「結城!」


 二階に上ったところで結城に追いつき、謙也は彼女の肩に触れてその名前を呼ぶ。振り返る結城は、僅かに驚いたような表情を見せて、詩織と謙也の顔を交互に見た。

 やがて安堵したように息を吐くと、結城は微笑みかけて口を開いた。


「謙也。良かった……。多分、色々聞きたいことがあると思うけど、詳しい話は放課後に、灯里もいるから」

「そうか。わかった」


 すぐ聞けると思っていたため、若干拍子抜けしたような感じにはなったものの、謙也は素直に結城の言うことを聞くことにした。謙也の返事を聞いた結城は、続いて詩織に顔を向けると、彼女にもこれからのことを説明し始める。


「西条さんは保健室で待ってて。灯里はあなたのことを認識できるし、そこには私の友達もいるはずだから」


 確かに目が合い、確かに名前を呼ばれ、詩織は驚きながらも内心では僅かに喜びを感じていた。結城の指示にしたがい頷くと、「それじゃあ、また放課後」と手を振って保健室へ足を向ける詩織。その後ろ姿を少しの間見送ると、謙也と結城は改めて教室へ足を向けた。


「やっぱり、結城には見えるのか」

「灯里にも見えるから、あそこなら安心。シトリとミトリもいるし。ハクだって」

「この前は家族って——」

「詳しいことは放課後に」


 そう言うと、結城は足早に階段を上っていく。謙也はゆっくりと教室へ向かい、約束通り借りた晋助のノートの綺麗さに驚きながらも、一日を過ごすこととなった。

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