第6話

 学校から逃げるように帰った謙也は、真っ先に詩織の家へ向かっていた。

 家に到着して、躊躇いながらもチャイムを押すと、しばらくして玄関の扉が開かれる。出て来たのは、詩織の母親——西条静香だった。


「あら謙也くん。どうしたの? そんなに汗もかいて、涼んでく?」

「……はい」


 小さく返事をして、謙也は詩織の家に上り込む。玄関に飾られた写真立てに目を向けると、そこにある写真からは、詩織の姿だけがなくなり、また、詩織だけの写真は一切なくなっていた。怖くなって視線を落とし、謙也はそのままリビングへと足を運ぶ。


「はい、お茶」

「ありがとうございます」

「うん。今日はお父さんの帰りは遅いの?」

「はい、今日は泊まりみたいで」


 短い会話をして、静香から受け取った緑茶を一口飲んだ。いつもとなんら変わらない雰囲気は、謙也にとってはとても異様に感じるもので、コップを置いたのちに彼は再び確認するように壁へ目をやった。

 かけられたコルクボードを埋め尽くす写真には、やはり詩織の姿はない。まるで最初から三人家族だったみたいに、静香を含め、詩織の父親と充の写真だけが貼られていた。


「あ、あの……!」


 意を決して、謙也は静香に声をかける。和やかな笑みを浮かべる静香の姿は、今の謙也にとっては恐怖でしかなかった。


「なに?」

「詩織は……まだ帰って来てないんですか……?」

「——詩織って……だれ?」


 その言葉が、その声音が、その表情が、まるで冗談のようには見えなくて、謙也は全身に鳥肌が立つのを感じた。そんな彼の気持ちなど露ほども知らない静香は、閃いたように手を合わせると、俯く謙也を前にして平然と言葉を続ける。


「それより謙也くん、今日はうちでご飯食べていきなよ。充もきっと喜ぶと思う」

「えっと……ごめんなさい。今日は帰ります。少し、やらなきゃいけないことがあるので……。また誘ってください」


 必死に笑顔を取り繕って嘘を吐くと、静香は少し残念そうな表情を浮かべた。


「じゃあ、仕方ないか。またいつでも来てね」

「はい。ありがとうございます」


 礼を言い、愛想笑いを浮かべて飲みかけの緑茶を飲み干し、謙也は荷物を手に取って立ち上がった。


「あれ、謙くん来てたんだ」

「……久しぶり、充」


 タイミング良く帰って来たのは、当然詩織ではない。制服のボタンを外しながら、彼は荷物を持つ謙也に声をかけた。


「もう帰っちゃうの?」

「ああ、久しぶりに寄ってみただけだから」


 言いながら充の側へ歩み寄ると、謙也は彼の頭を軽く叩いた。


「ご飯食べていけばいいのに」

「今日中に終わらせなきゃいけないことがあるから、今日はごめんな」

「本当に?」

「ああ、本当だよ。高校生は忙しいんだ」


 充は渋々納得し、それ以上謙也を引き止めようとはしなかった。ただ謙也を見送るように玄関まで一緒に行き、彼が靴を履いた時、不意に思い出したように口を開いた。


「そうだ。悪いんだけど、今度家具の移動手伝ってくれない? いつでもいいからさ」

「どうしてそんなこと?」

「空き部屋があるでしょ? そっちの方が広いし、移動したいんだよ」


 充の言う空き部屋というのが誰の部屋だったのか、謙也にはそれがすぐにわかった。

 泣き出したいのを我慢して、空返事をすると、すぐに家を出る。早く帰りたくて仕方なかった。目を背けたくて、仕方なかった。

 自分の家に駆け込んで、部屋に急ぐ。何度も詩織の姿が想起されて、それは現実と向き合えと、そう言っているようにも思えた。誰もいない部屋で、謙也は声を抑えて泣いた。時折、服に付いていないはずの血の匂いがして、猛烈に吐き気が込み上げるのを感じた。

 眠ろうと思っても眠れず、かと言って何かをする気力も湧かず、目を瞑ればあの光景が蘇り、謙也を襲い続ける。吐いて、泣いて、また吐いて、何も出るものがなくなって、溜まった気持ちを晴らすようにベッドを叩く。そうして何もかもを発散した謙也は、いつの間にか深い眠りに落ちていた。


 翌朝の気分は最悪だった。あの夢で目が覚め、ベッドでうずくまっていると帰って来た和也が起こしに来たが、熱っぽいと言って学校を休むことにした。いつもの登校時間、謙也はカーテンの隙間から門扉の辺りを覗き込む。しかしそこには、いつもいるはずの詩織はいなかった。


 翌日からは、和也が仕事に行くまではいつも通りの生活を続けた。和也を見送った後は、ただ部屋に篭り、現実から目を背けるように怠惰に過ごす。そんな日々が一週間ほど続いた。


「——謙くん……! 謙くん起きて!」

「……詩織?」


 七月十日。ようやく2年の一学期が終わりを迎える間近。謙也を起こしたのは、死んだはずの詩織だった。

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