6.エシェル・シエークルの一日(1)

朝。


6時目覚め。意外と低血圧なのか、そこから起きるのに20分くらいかかる。

起きる気があれば、すぐにでも起きられるが、どうにもこの二年間で、マイペースな生活になっている。


身支度をして、7時頃に庭を眺めながら朝食。

都会の中にあっても、広大な敷地と、その大部分を占める庭園のおかげでとても静かだ。



8時、執務室へ向かう。

勤務時間はおおむね、9時17時。……役人だ。

が、2年前に外部と隔絶されてからは、フランス大使として仕事というほどの仕事は入ってこない。


2年前、この国も混乱していた折は在日のフランス人の対応で相当なものだったが、今は、この国に残っている同国の人間が、時々なにかしら助けを求めて相談に来たり、といったところだ。


天使や神魔が現れる前は、貿易部門がとくに活発だったが今となってはそれもない。


そんなわけで。

早めに書類を片付けてしまうと、10時過ぎには暇になる。


……とりあえず、読書。


ひと気のない館内は、静かになれる場所はいくらでもある。

その日は気候が良いので、風の通るガラス張りの広いラウンジの陽だまりで、エシェルは時折、そうして空を見上げる。



1時間ほど経ったろうか。

静かな空間で読書に没頭しかけたところにふと……庭園の奥の茂みが揺れるのを見た。

現在地は、庭園に面していて、空も、緑もよく見えた。


「……?」


ガサリ。

なんとなく眺めていると、長い鼻先で茂みを押しやるようにして現れたのは、不知火だった。


「……」


不知火もこちらに気づいて、じっと見てきている。

それとも、自分の存在に気づいたから、ここへ来たのだろうか。

妙な間があった。


エシェルは本を閉じると立ち上がり、あけ放たれた開口部から外に出た。


「やぁ、君は司のところの子だね」


こちらから話しかける。

先ほどはガラスを隔てて正面付近だったが、今はエシェルから見て不知火はずいぶん右になる。

不知火は、首だけで振り返るように、その場からエシェルを見ていた。


何事もないように歩を寄せる。


逃げられるか、警戒されるかとも思ったが、なんのことはない。

不知火の方も体をこちらに向けて、寄ってきた。


手が届くくらい近くに来ると、一度エシェルの顔を見上げてから、すん、と鼻先を控え目がちに差し出した手に寄せた。


なるほど、利口な「犬」だ。

というより、ふつうに「犬」だ。


そんなことを思いながらも、触れても問題なさそうなのでくすりと笑みを漏らし、エシェルはその頬のあたりを撫でながら、片膝を落とした。

目線の高さが同じになり、左手で首や肩のあたりを撫でてやる。


固くも柔らかすぎでもなく、ほどよい触り心地。


なんだか、久々の動物の触感だ。


「ここの小物はもう始末されただろう。どうしてまだここにいるんだい?」

「……」


当然、答えはない。

だが、話が通じているのはわかるので、エシェルは声掛けを続ける。


「庭が気に入ったかい? それとも僕の見張りかい?」


くすくすと笑いながら。

不知火はどちらともつかない小さな声で、返事をする。


どちらにしても、自分は困ることではないので問題ない。


これほど大きな身体を思い切り動かせる場所となると、限られてくるだろうし人目につかないという意味では格好の場所ともいえるだろう。

ポジティブに解釈することにする。


「そういえばまだあの時の礼を言ってなかったね。小物とはいえ、多数いたようだし……感謝する」

「うるる……」


礼を言われて悪い気はしないのか、一度だけ添えた手に、むこうから顔を摺り寄せてきた。

攻撃力のわりに、気性の良い性質のようだ。


「それにしてもこんな昼間から……君は主人のボディガードじゃないのか? 司の妹……森といったか」

「るる……」


返事はしている、表情……を全て読めるわけではないが、すぐに可能性には当たる。

ふつうに勤務勤勉時間なので、学生にしろ、社会人にしろ、校内やらオフィスにやらはさすがに張り付いていられないんだろう。


だとしたら、なおのこと、昼間は一人で部屋で待機、というのはつまらなそうだ。


「僕は少し散歩に出るよ。一緒に来るかい」


庭ではなく、外に出よう、とふと思った。

ちょうど昼も近いからたまには外食をしてもいいだろう。


「人間」の自分が一緒なら、不知火が出歩いてもさして問題もない。という判断で誘ってみた。


返事がないので、背中を向ける。

不知火は静かにそれについてきていた。


「光栄だね、散歩のお供をしてもらえるなんて。それともやっぱり見張りなのかい?」


ふふ、と笑いながら他意もなく言うと、今度は声はなかったが首をひねるように見上げた顔で、なんとなくはわかった。

特に不知火にも他意はないらしい。


天使と敵対する勢力、でもなくこの鷹揚さはさすがにこの国に由来する存在だな、とは思う。

少しひねた発言を控えて、時折、話しながら歩く。


「さすがにこの辺りは歩いたことがないだろう。……といっても、特に何があるというわけでもないのだけれど」


門を出て、南へ向かう。

先には、白金台があるが「おしゃれ」「エレガント」といった定番のイメージよりも、あくまで散歩に出かけただけなのでそのあたりは普通に、都内ではありがちな路地の多い入り組んだ街並だった。

もちろん、方向を変えれば博物館や緑豊かな公園はある。


が、今更緑豊かな場所に連れて行ってもなんだし、北に向かえば六本木ヒルズなどもあるがそちらは観光神魔も多く、賑やかなのもどうなのかと思うので、無難に「ただの散歩」だ。

が、うららかな日の、なんでもない住宅街の散歩は、不知火は気に入ったらしい。


ふんふんと興味ありそうに、あたりを見回している。


「ここから先は白金台の商店街だよ。さすがにテナントは少ししゃれてるところが多いね」


大使館からその間には、巨大な首都高が見事なまでに上方を横断している。

おかげで、その下は大通りとはいえ日陰も多いし、景観が良いとは言えない。


が、そこを抜けると、ふつうに生活感のある街並みで、土地柄のせいか住民らしき人々もそれなりに往来のある明るい場所だった。


「……さて、どうする? 君は神魔となれば入店OKな店もあるが……何か食べたいものがあるかい」


この間のお礼に、と理由もきちんと付け加えたが、少し考えるように首を傾けたあと、ふるふると不知火は顔を振った。


「うーん、じゃあ……もう少し先に行こうか」


陽だまりの街を歩く。

観光地でもなく、オフィス街でもショッピングモールでもなく、ただの生活圏内での散歩は、割と平和だ。


そして、いつしかおしゃれなテナントが消えた頃……


八百屋が顔を出した。


「このあたりから先は、白金台らしいテナントは特にないんだ。ふつうに一般市民用の、商店街みたいになるね」


相変わらず、そこここに食事ができる場所はあるが、八百屋に続き目につくのは魚屋。

そして、香ばしい香りがしてきて、エシェルはそちらに目を向けた。


精肉店。

……とはいえ、もちろん、売っているのは生肉だけではない。


「こんにちは」


自分からは入ったことがないその店に、エシェルは足を踏み入れた。


「はい、いらっしゃい」


人のよさそうな壮年の女性が自然な笑顔で迎え入れる。

ちょうど総菜が揚げたてのようで、香りはそこが発信源のようだ。


「おや、珍しいね。神魔のヒトじゃなくて、外人さん?」

「です。2年以上前から在日してるので、日本語は大丈夫ですよ」


にこりと笑うと、何かがツボったらしい。

服装はラフだし、外見は少年と青年の間くらい、しかも顔の整った年下の異性からそんな顔をされたらおばさまは、一撃でノックアウトであろう。



……ちなみにエシェルには、まったくその気はない。

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