第37話 祈り

 校舎から見下ろすキャンパスにちらほらと傘がゆれている。今日最後の講義は終わっていたけれど、歩く学生の姿は少なかった。


「止みそうにないね」


 大粒の雨はとめどなく落ちて空は暗いままだ。教室や廊下で学生の多くが雨がやむのを待って談笑している。


「亜結の傘にふたりで入ったらサークル棟まで濡れずに着けると思う?」


 姫花の質問に亜結が呆れた顔をする。


「また傘忘れたの?」

「亜結は持ってるんでしょ? いいじゃない」


 姫花は亜結の腕に手を回してにっこり笑顔でくっついてくる。


「亜結も部室で先輩と待ち合わせでしょ」

「そ・・・そうだけど・・・・・・」

「最近、帰りは別行動なんだから、サークル棟に着くまでの間くらい一緒にいようよ」

「講義中ずっと一緒だったじゃない」


 雨待ちで暇をもて余した姫花に秋守とのことをあれこれ聞かれて亜結は困っていた。そろそろ質問攻撃から逃れたい。


「姫花」


 ふいに声がかかってほっとする。


「黒川先輩」

「あれ? 歩、ここで何してるの?」


 嬉しそうな顔で姫花が駆け寄る。


「ん? 文学部の友達に用があって」

「へーっ」


 疑わしげに目を細める姫花に黒川はそくざに反応した。


「おんなじゃないよ」


 奥歯を噛んだまま口を横に広げて、1音1音ゆっくり発音する黒川に姫花の顎が上がる。


「何よそんな意地悪な顔しちゃって」

「人を疑うやつに笑顔は返さないよ。ほら」

「え?」


 黒川が姫花に傘を握らせる。


「どうせ傘持ってないんだろ? 入ってるの忘れてもう1本持ってきたから貸してやるよ」


 そう言った黒川の目が姫花から逃げる。自然な感じながら少し恥ずかしげに見えた。


「え? あ・・・そう」


 どうやら友達ではなく姫花に用があったのだと気づいて亜結と姫花は目を合わせる。嬉しさをかみ殺す姫花が可愛くて、亜結はほほえましそうに眺めた。


「さっき秋守を見かけた。入口で待ってるって言ってたから俺達も下りようか」


 秋守の名前を耳にして亜結の顔がぱっと明るくなる。そんな亜結に黒川が笑顔を向けた。

 優しそうな笑顔の黒川と亜結の間に、


「傘、ありがとう」


 と言って姫花が割り込む。

 亜結には黒川が口許を隠して笑っている姿が楽しそうに見えた。


「1つの傘で一緒に帰ってあげてもいいよ」

「はぁ? 2本あるのになんでだよ」

「嬉しいでしょ? 恥ずかしい?」

「相合い傘が恥ずかしいとか、中学生かよ」


 うるさそうに先を行く黒川に姫花が小走りでついていく。


(ちゅ、中学生・・・。今朝、嬉しいとか恥ずかしいとか思った人がここにいるんですけどッ)


 心のなかで突っ込みを入れて亜結が後に続く。


(ん?)


 背中に視線を感じた。


(気のせいかな)


 振り返って辺りを見回したけれど、誰もこちらを気にしている日とはいないようだった。


(秋守先輩の心配がうつっちゃった?)


 それはそれで嬉しい気がする。

 姫花と黒川に遅れをとって亜結は階段へと走った。


「秋守くん、傘持ってないなら私と一緒にサークル棟までいく?」


 階段を下り始めたふたりに追い付いた亜結は女の人の声を耳にした。


「大丈夫だよ、ありがとう」

「でも濡れちゃうわよ」


 階段の途中、踊場の手前から手すり越しに声をかける女の人の視線を追って、亜結も下をのぞきこむ。


「大丈夫。傘を持ってる人と待ち合わせてるから」


 顔を上げた秋守が亜結に気づいて手をふった。

 秋守の回りにいる数人の視線が集まって亜結はひょいと手すりから離れる。


(うわ・・・・・・女の人の目が痛い)


「亜結」


 駆け上がってきた秋守が声をかけるのとほぼ同時に亜結はバランスを崩して階段を落ちた。

 背中にドンと衝撃を受けて、はっきりと手形を感じながら。


 驚く秋守の表情と広げられた両腕がゆっくりと見えていた。

 慌てて出した亜結の2歩目、浮いた足がステップの角をこすり落ちて足首がぎくりと曲がるのがわかった。

 雷鳴が電気を明滅させる。

 ストロボを焚いたように世界が駒送りに見えた。

 大きく体勢を崩した亜結が姫花の肩にぶつかって、黒川が彼女の腕を引くのが目の端に写る。すべてがスローモーションの中、亜結は広げられた秋守の腕の中にダイブして彼に身を任せた。ぎゅっと目を閉じて。



「亜結、危ないって」


 今朝の会話がふいに頭をよぎった。


「受け止めきれなかったらどうするんだよ」

「大丈夫、秋守先輩を信じてるもん」


 秋守を信じてる。だから私は安心なんだと伝えたかった。


「僕はスーパーマンじゃないし、ふわふわマットレスでもないんだぞ」


 少し怒って見せた秋守の顔が浮かぶ。



 亜結を受け止めた秋守が勢いに負けて数歩下がった。そして何かにぶつかって止まる。


 ゴン・・・!


 嫌な鈍い音がして悲鳴が上がった。

 ずるずるとへたり込む秋守と一緒に亜結もしゃがみこむ。


「・・・・・・秋守先輩?」


 亜結を抱きしめていた秋守の腕がずるりと垂れ下がる。

 そっと瞼を開けて秋守の顔を見る。目の前に見える彼の頭が力無く傾いていて、目を閉じた顔に生気が感じられない。


「秋守・・・先輩?」


 秋守の首に回した手に生暖かい液体が触れる。


「亜結! 亜結!」


 姫花の声が聞こえる。


「救急車! 救急車を呼べ!」


 慌てる人々の色々な声がやけに遠くから聞こえていた。

 真っ赤に染まる自分の手を見ていた亜結の目がクリーム色の壁を上へとたどる。

 赤い筋が秋守の頭までまっすぐ伝っているのを目で追って、亜結はとっさに彼の後頭部に手を回した。


「いや・・・嫌だ。嘘でしょ・・・・・・」


 秋守を抱きしめて傷口をぐっと押さえる。


「止まって、止まって!」


 叫んでも血は止まらない。


(どうして? ユリキュースと腕の傷は一瞬で消えたのに・・・・・・なんで!?)


 誰かが亜結を秋守から引き剥がそうとしている。でも嫌々と首を振って秋守を抱きしめた。


(お祖父ちゃん助けて! お願い! 秋守先輩を助けて! 魔法使いなら今すぐ治せる? だったらすぐに私を魔法使いにして!! 明日までなんて待てない・・・!)


 時間を跳躍する魔法があったとしても、今の亜結には使えない。


(私、魔法使いになるから・・・。お願い・・・お祖父ちゃん・・・・・・!)


 今はただ救急車を待つしかなかった。



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