第36話 第五章 生田、女子会の夜
新調された衣は美しく、これ以上呪われるという苦しい描写が訪れる事がないという余裕に前途揚々と気分を軽々とさせた岳と、その姿を良しとして足取り軽く意気揚々とさせていた天鈿女。
そして、何事にも冷静沈着にいようとしながらも、熱く、篤い心持ちを抱きながら周りを見渡し、足を進ませている吉備津彦。
大和で起こっていた大変な出来事も露知らず、呑気に笑いながら路を進ませている中で、やはりよく分からない恰好をした男が道端に立っていて、又度声を上げた。
「いくたーーーーーーーいくたっ。いくたーーーーーーーーいくたっ。」
岳はその度にびくりと身体を揺らしていたのだが、他の御二方は平然と路を進ませている。もういい加減堪らなく、岳はどちらに話す訳でもなく言葉を浮かべた。
「時折、路の側でいるあの者は、一体何者なのじゃ…?」
「あれはだな、天孫社が運営している子会社の社員なのじゃ。只、旅人に辿り着いた場所を告げるだけの仕事で、これはこれで難儀な話ではあるな…。」
天鈿女は小鳥と戯れながら明後日の方角を眺めている横で、答えたのは吉備津彦の方だった。しかし、その説明内容がいまいちつかめない岳であったが、吉備津彦の自信満々の表情に、曖昧に相槌を打って足を進ませた。
「さあ、貴方達。私はまだこれからやる事があるの。だからお行きなさい。」
天鈿女はそういって長くしなやかな腕を体の前へやると肩や腕に止まっていた小鳥達は一斉にどこかへと飛び去っていった。
その空が浮かべる光は、昼に見せた光よりもどこか淀んでいて、赤茶けた夕暮れの空が少しずつ秋を連れてきていた。
路行く民達の足並みはどこか早く、まるでどこかで何かを作り上げているかのように何人もの姿が岳達の側を通り過ぎていく。
どこか浮足立っている雰囲気が街全体から漲っているのだ。
「あっ!そっかっっ!」
天鈿女は何かを思い出したらしく、遠くに浮かばせていた瞳にいきなり明るい光が宿り始めた。
そして、身体をうずうずというか、もじもじさせながら、他二名に何かを申し上げたいというか、懇願したいというか…。そんな雰囲気がひしひしと身体全体から伝わってきた。
そこは空気を読む所だと岳は思い、天鈿女にさり気なく問いた。
「あめたんよ…。何かあったのか?」
「何か騒がしいと思ったら、今日は生田祭り当日なのよっ!!!そこには天照姉さんの姪君がいるのっ!」
天鈿女は、両手を頬に当てて、大きな瞳を見開かせながら嬉しそうな面持ちでそう言うと、「久しく逢っていないから、この際是非逢っときたいのよね…。」と、又もや遠くの方へ視線を浮かばせながらどこか切なそうに呟いた。
天鈿女は多分、それが旅路の足かせになってしまう事を危惧しているのだろう。
早く大和へ向かわなければならないとは思うものの、せっかく久方ぶりに近しい者へと逢えるというこの機会を活かしたいと思う気持ちも無理はないと岳は思った。
しかしながら、そんな女心を当然の如く理解しないというより、概念にないこの無駄に熱い漢の言葉が天鈿女に降り注ぐ。
「天鈿女様…。御言葉ではございますが、そのような事、高天原本社に行けばいつでも実現可能かと…。それよりも、大和へと逸早く足を進ませた方が良いかと存じ上げるのですが…。」
確かに吉備津彦が申し上げた事は正論であった。しかしながら、その正論を敢えて突かれると何故か憤り、反発せしめてしまうのも女の性…。
天鈿女は吉備津彦を睨み散らした。
「そのような事…?あんたっ!今そう言ったわよねっ!!!なら、稚日女尊様をそんな事呼ばわりしたって話になるわよねっ!!!」
その言葉に吉備津彦は、衝撃の余り顔を歪ませながら身体を後ろにたじろかせていた。天鈿女の容赦ない檄は続く。
「あーあ、これは流石に査定に響くわねぇ…。狭野にもお姉さんにも、流石に報告しなくてはならないって事になるわねぇ…。もしかすると謀反の罪に問われる事になるかもよ?吉・備・津・彦っ?」
『一本っっっ!!!』
既にこの勝負の行く末は初めから分かり過ぎていた事だった。
五課係長、天鈿女の刃のようなその言葉は、天孫社、平社員の骨まで断ち切る威力を十二分に誇っていた。
吉備津彦は悶絶するようにその場へと崩れ落ち、遂にはしくしくと泣き始める描写まで至らしめてしまっていた。
「うううっ、天鈿女様…。どうかそれだけは、そのような事態を招く事だけは…、勘弁してつかぁさい…。ううううっ…。」
元々大和の民である吉備津彦が放った言葉の語尾は何故か土佐弁だった。
否、そんな事はどうでもいい。
吉備津彦は頭を地面に埋もれさせ、まるで子供のように大声で泣き腫らしていた。
大の漢をそこまでに至らしめられる程、その組織的な言葉は絶大なモノであるのだろうかという疑問と、天鈿女が発する雰囲気の不穏さがよく理解できない岳。
それよりも、初めて天鈿女と出逢った刻に感じ取った感情が沸々と心底から湧き出てきていた。
『やはりあめたんは…性悪なのか…?』、と…。
いやいやいや…。そんな事を思い返している場合でもない。
兎にも角にも、吉備津彦が置かれているこの状況を何とか打破しなければならない。
というよりも、天鈿女から理不尽と思わざるを得ない言葉で制されている吉備津彦の姿を、いつも居た堪れない気持ちで眺めていた岳は、ここで初めて言葉を挟む決意に拳を握らせた。
最もらしく言うと、この漢の威厳を保たせる為に…。本当の事を申し上げると、自分自身を護る為に。
「あめたん…。私が言葉を挟むのも違うとは思うのだが、ここは敢えて言わせてもらう。ちょっと吉備津彦に対して、余りにも酷いと思う節を感じるのだ。こんな私の顔に免じてと言うのはおこがましいが、吉備津彦にもっと優しく接して欲しいのだ。楽しくと言ってしまえば浚われた弥生に対し良くないのだが、私達はこの道中の仲間ではないのか…?私は吉備津彦を漢として尊敬している。もちろんあめたんも…。だから、信頼し合える仲間として、この旅の意味を本物にしたいのだ。」
岳はそう言うと、まるで家臣が天皇にそうするように、片膝を地面に着かせ、深々と頭を垂れた。
「民、岳津彦。女神、天鈿女様にそう申し上げ奉り候…。」
この岳の姿に、天鈿女は何を思ったのか、真面な視線を向ける事はできなかった。
相変わらずわあわあと泣き声を上げる吉備津彦と、たどたどしく片膝を着かせて頭を垂れる岳。そして、何を思いあぐねているのか、顔は岳の方へ向かせながら視線だけを逸らせ口元を疼かせている天鈿女。
その三方の側へ季節がもたらすひやりとした風と、家へ帰ろうと合図するような烏達の鳴き声が通り過ぎた。
「神日本の子孫にそうさせちゃうと私の立場が危うくなるから今すぐやめて頂戴…。」
天鈿女はそう言いながら、気持ち良さそうに身体を上へと伸ばしていた。そして…。
「吉備津彦…。神日本の子孫である岳からの願い賜いてそう従うだけで、私と岳と吉備津彦の間柄で、天孫の立場を無効にしてあげる。おっと…、あんたと私の立場が覆ったって話ではないってだけ言っておくわっ!これでいいわねっ!?貴方達っ!?」
平伏せていた状態に陥っていた吉備津彦は、まるで奇跡が起きたかのような表情を浮かべ、天鈿女の顔を、瞳を瞬かせながら見つめ尽くしていた。天鈿女の言葉は少し乱暴なものの、想いが通じたと思い感無量の気持ちに包まれ笑顔を綻ばせた岳。
漢二人は天鈿女に勢い良い言葉を発した。
「天鈿女様っ!!有り難き幸せっ!!!!」
「何叫んでるのよっ!!さあ、生田神社へ行くわよっ!!」
どこか照れくさそうに天鈿女は叫び声に似た声を上げると、すたすたと一神きりで前方へと足を進ませた。
それに対し岳はこう思わざるを得なかった。
『あれ?結局、その場所へと向かうような話になっていたのか?』
その疑問は吉備津彦の胸の中にも存在していた。
『この女はやはりこの後も自分の意見を通し尽くすな…。』
そんな漢達の心情描写も露知らず、足を止めない天鈿女。楽しい祭りの宵は、どのような出来事をつれてくるのか…。
今、三方の足並みは生田神社へと向かっているのであった。
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