第16話 第二章 明石の怪物

「あかしーーーーーー。あかし。あかしーーーーーー。あかし。」

 播磨と同じく、妙な服装をした男が道中で叫ぶ声で、明石という土地へと辿り着いたのだと岳は思った。

 海と山が閉鎖的にその土地を挟んでいるのだが、その間に所狭しに立ち並ぶ家、そして家、だから家。

 これまで見た事無いほどの群集に、吉備の田舎者、岳は圧倒されていた。

「岳ぇ…。そんなに驚かなくてもいいじゃないの…。こんな所、人が密集してるだけの大きい田舎じゃない…。」

「そんな事言われても…こんな景色見た事がない…。すごいな…。」

 呆気にとられている表情の岳に、吉備津彦の笑い声が上がった。

「はっはっはっはっ!天鈿女様、山と海ばかりの吉備に住んでいた者にしか分かりますまいっ!岳津彦よ、こんな所で圧倒されていたら、大和に辿り着いた刻に死んでしまうやもしれぬな。はーっはっはっはっ!」

 高らかな笑い声を上げる吉備津彦を、岳は景色に圧倒されて聞いていないだけであったが、天鈿女は確実に無視するように、明後日の方角に視線を向けて路を歩いていた。

 これまでの細い山道や獣道よりも、今歩いている路は確実に広く、物流を司り、大荷物を両肩にぶら下げながら全国を走り回っている者や、観光でこの地を訪れている者。多分永住していると思わしき者や、岳一行のようにその先に目的地があり、この地を只、通り過ぎるだけの者等々。

 明石に入る少し前辺りから、何人もの民が岳の傍を通り過ぎていった。

 もしかするとここが明石の中心なのだろうか。

 どこまで続いているのか分からない程の広大な空間に、まるで競うように御座を敷き詰め、野菜、魚介等の食品。武器、防具等の戦道具。装飾品や見た事のない家具等々。多種多様な物を所狭しに並ばせて、売っている商品の価値をまるで怒鳴るように訴えては、物が飛ぶように無くなっては補充されていた。

 物々売買などは、どこの村にでもある話なのだが、ここまで大規模の物流市など見た事がない岳は、気迫と執念が立ち込める商人魂と、物欲、食欲を徐に曝け出す消費者達の、双方ともが放つ欲望の渦に又もや圧倒され、その場へと立ち尽くすしかできなかった。

 どこもかしこも怒号が飛び交っていて、いつも心静かに生活を営んでいた岳からしてみると、多分自分は田舎でしか住めない性分なんだと思わざるを得ない。

『ん…?』

 激しく物々交換が繰り返されているそんな中、岳はある事に気がついた。

 時折物ではなく、それが石なのか銅なのかは遠すぎて分からないのだが、小さな円形物が手渡されては、物を渡している商いがあり、『あれは何だ?』と岳は首を傾げた。

「岳ぇ、ホントいいとこに目が行くわね。」

 明石に入る大分前まで、運動不足解消という事で共に足を運ばせていたのだが、いきなり「疲れたわ…。」とか言い始めて岳の心へと逃げるように戻っていった天鈿女の声が頭の中に響いた。

「あれが何故、物と変わるのか?街の物流具合は理解できかねるが、あれは一体なんなのじゃ?」

 またあの淫らな恰好に着替えて、橙色が付着した水を、器にそのまま口をつけて一気に飲み干していた。そして、安心したように大きく息を吐くと、潤った艶やかな声が聞こえてきた。

「あれはね、貨銭って言ってね、海を渡ったお隣の国の物流制度で使われている物なの。ていうか、あれを扱ってる店なら私も持ってるし買い物できるわっ!!岳、出るわよっ!?」

「えっ!?いきなりっすかっ!?」

 やはり下向きではなく上向きで紫の煙が岳の口から噴出し、いつ着替えたのかは分からないが、いつもより淡い色合いで、軽装の衣を身に纏わせた天鈿女が姿を現した。長い髪が天辺で結われていて、涼しそうな出で立ちが何とも美しかった。

「岳ぇ、天孫語勉強中?うふふふっ…。」

 意地悪そうな表情を浮かべながら一度だけ岳の方に視線を向けると、「ちょっと待っててね。」と一言だけ添え、その店へと足を運ばせていった。

 吉備では弥生以外の女など見た事がなかった為、全く気にならなかったのだが、その場から立ち去る天鈿女のその妖艶な背姿を眺めていると、弥生はやはり童なのだと痛感せざるを得なかった。

 弥生はもちろん我が最高の女であるには間違いない。

 そう、間違いはないのだ。大切な事だから、敢えて二度申し上げたまでなのだが、それよりも、これまで通り過ぎてきた道中、男もいればもちろん女もいた訳で、そんな中、その女どもと比較対象にならないくらい、この女神の美人淡麗具合が尋常ではない事に岳は気がついていた。

『しかしながら、やはり弥生には勝てないのだがな、ふっ…。』と、今心から離れているが故、心中ながら高らかに宣言しておこう。

 そんな事を考えながら、暫くは弥生の事を思い出していると、何やら香ばしい匂いが立ち込めてきて、我に返った。

「岳ぇ…、何考えてたの?まさか私の後ろ姿に見惚れてたんじゃないわよね?まあ、仕方ない話なんだけど、うふふふふっ。そんな事より、これ食べなさいっ!」

 そう言いながら、平たい器のような物を差し出してきた。その上には、これはどう比喩したらよいのだろうか…。いぼいぼ…?ぐにゃぐにゃ…?よく分からないのだが、太く長い軟体的な物が竹串に刺され、それは多分炭火で焼かれているのだろうが、軽く焦げ目を彩らせて、香ばしい薫りを発させていた。

「明石と言えば蛸!太古昔からそう決まってるのよっ!!さあ、暖かい内に食べなさいっ!」

 我が近辺では余り見受けない食べ物だったが故、というよりもその奇怪な姿に、初め見た時は流石に躊躇してしまったのだが、空腹は最高の調味料とは上手い表現である。

 とんでもなく美味そうな薫りに、岳の脳内は瞬時食欲に塗れ、手掴みで徐に口の中に放り込んだ。

『う、馬いっっっっっっ!!!』

 馬は特に関係ないのだが、脳内回路が異常を来してしまう程、その蛸という軟体は香ばしく美味かった。

 その貨銭とやらで、どれだけの蛸と交換してきたのか分からない程、食べても食べてもなくなる気配はない。これだけの物と交換できるほど貨銭というのは価値がある物なのだろうかと、多少の疑問を抱きながらも、まるで何者かに囚われたように岳はそれを食い散らかせていた。

 ふと、天鈿女がきょろきょろと周りを見渡しながら呟くように言った。

「あれ?吉備津彦はどこに行ったの?これだけあると食べてくれなきゃ困るじゃないのっ!ホント、用がある時にいないんだからっ!もうっ!」

 珍しく肩をプンプンと怒らせながら、先へ進もうとする天鈿女。

「うぐっ…。あめ…たんよ…。ちょっと待って下さい…。」

 大きく頬張らせた口を必死に動かしながら、大量の食糧を急いで担ぎ、岳もその後に続いていった。

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