135 懺悔

「…………よし」


 アンリの用事が終わったモスマンは、ザラシュトラ家から解放され酒場に来ていた。


「よし……よし……よし」


 その顔は涙と鼻水で汚れているが、達成感に満ち溢れている。


「よし! 正解だった! よし! よし! 耐えた! 生き残った!」


 Sランク冒険者であるモスマンの尋常じゃない様子をみて、他の客たちは余程重要な任務を達成したのだと尊敬の念を抱いていた。

 実際、未来が漠然としか見えないモスマンにとって、今回の成果は紙一重で勝ち取ったものだった。


 何せ、アンリと関係を深くすれば自分が拷問の末に死ぬ未来を見てしまったのだ。

 そのためアンリから距離をとっていたモスマンだが、今朝見た予知のせいで愕然としていた。

 何をしても永遠に拷問されるという、絶望の未来が待っていたのだ。

 発狂しそうになりながらも何度も占いを繰り返し、そして辿り着いた唯一とも思える正解の道を歩むことができたのだ。


「危なかった……奴にだけ注意していればいいと思ったのが間違いだった……周りも狂った奴しかいなかった……寿命が縮んだぞ……」


 普段はそこまで酒を飲まないモスマンだが、人生最大の仕事を終えたとばかりに、この時ばかりは浴びるように飲んでいた。


「はっはっは! 先に始めてたのかモスマン! ちょっとは待ってほしかったぜ」


 ディランがやってきた頃には、モスマンは出来上がっていた。

 負けじとディランも酒を飲む。


「おぉ、兄貴に会ったのか? なかなか面白いやつだろう?」


「……あに……き?」


 ベアトリクスを落としたアンリを、ディランは尊敬の意を込めて兄貴と呼んでいた。

 正確には落としたのではなく堕としたのだが、人が良いのかディランは気付かずにいる。


「アンリだよ、アンリの兄貴だ。どうだった? 前は俺から感想を聞いただろ? 今度はモスマンから聞かせてほしいぜ」


 普段は自分の感情を出したがらないモスマンだが、酒の力もあり本心が口から出てくる。


「俺はこれまで色々な人間を見てきた。善意を持った者。悪意を持った者。信念を持たない者」


「あぁ、それはそうだろうよ。兄貴はどうったんだ?」


 モスマンは酒を飲みながら宙を見る。

 自分の考えを整理するためだろうか。


「奴は……分からない……」


「はぁ? 珍しいな……モスマンがそんなこと言うなんて。実際に会って、兄貴をどう感じたんだよ……」


「奴の行いは悪だ、間違いない。だが分からない。奴の根幹にあるのは悪意ではない。だから分からない……」


 アンリの悪行を詳しく知らないディランは少し不思議に思うも、笑いながらモスマンを一蹴する。


「はっは! 悪意が無いなら大歓迎だと思うぜ? 変なこと考えずに、仲良くやろうぜ?」


 その言葉に反応したモスマンは、ディランの腕を強く握りしめる。

 そして、声を震わせながら訴えだした。


「分からない……分からないのだ……っ! あれ程の化物が、鬼畜生が、なぜあそこまで悪意を持たずに平然としているのか……私には分からない!」


 モスマンの心からの叫びは続く。


「奴は私達を……同じ人間として見ていない……いや、奴自身が人間ではないのかもしれない。私は怖い……悪意を持たずに悪となる奴が怖い。間違いない、奴は悪そのものだ。私がこれまで見てきた悪人は、なにも悪くはなかったのだ。罪悪感を抱き、後ろめたさを感じているのだから。開き直り、必死に自分の罪を見ないふりしているのだから」


 モスマンの顔は、再度涙でぐしゃぐしゃになっていた。


「奴は違う。奴には全く悪意が無いのだ! いや、これが本当の悪意なのかもしれん! なぜ奴は、あそこまで他人をゴミのように見ることができるのだ! なぜ奴は、あそこまで自分以外の全てを犠牲にできるのだ! 奴はこの世の全ての悪を体現している! 奴は何がしたいのだ! 次は、次の犠牲は誰だ! 私か!? このモスマンの名に懸けて断言する! 奴は、奴は世界の敵だ! 誰か、何とかしてくれ! 奴を止めてくれ! 誰か奴を殺せぇぇぇ!!! うぅぅぅぅぅぉぉぉぇぇぇぇぇ」


「お、おい落ち着けよモスマン。悪い酒が入ってるようだぜ?」


 しまいには嘔吐してしまったモスマンの背中を擦りながら、ディランはモスマンを介抱する。


「……すまん、今のは忘れてくれ」


「あぁ、問題ないぜ。なんなら、初めてモスマンの泥酔姿を見られてラッキーだと思ってるぜ」


 日頃から多くの依頼を受けているモスマンは、とても忙しく疲れているのだろう。

 そう思ったディランは、今のモスマンの醜態を見ても笑って許せていた。

 旧知の仲であるディランの慰めは、モスマンの心に染みていく。


 心に染みた分、モスマンが流す涙の量は増えていく。

 それにディランは気付かない。


「……ディラン……もし、砂漠を一人で死にそうになりながらも彷徨っていたら……残る水分がコップ一杯になっていたとしたら……」


 いきなり話が変わったことに、ディランは怪訝な顔をする。


「もし、そんな中……同じく彷徨っている者がその水分を求めてきたら……その助けを振り払うことは、悪になるのだろうか……」


「あぁ? いきなりどうしたんだ? ……まぁ、そんな状況だったら、助けを無視しても仕方ないと思うぜ? まずは自分自身が助からないとな。悔やまれるのは仕方ないけど、自分が生きてもっと多くの人間を助けたほうがいいと思うぜ? ……あぁ、そうしないといけないんだ」


 ディランの言葉は、モスマンが一番求めていた答えに近かったのかもしれない。

 モスマンはこの日初めて、本心からの笑顔を見せた。


「あぁ、もうこんな時間か。悪いなモスマン、実は占ってほしいことがあってな」


 ディランは懐から紙を取り出すとモスマンに見せる。

 それは、組合から渡された指名依頼票だ。


「この依頼、報酬がびっくりするぐらい良いだろう? ただ、少しきな臭いというか……まぁ、少し躊躇してるんだぜ。この依頼を受けていいかどうか、占ってくれないか? ほら、この前あの女に貢ぎ過ぎて、ちょっと財布がピンチでな……」


 笑うディランに、モスマンは声を絞り出す。


「………………問題ない」


「そうか! 良かった良かった! じゃぁモスマン、ここは俺の奢りでいいぜ? 早速依頼を受けに行くから、またな!」


「……あぁ……じゃあな……」


 小さくなっていくディランの後ろ姿を見ながら、モスマンは昔を想う。


「………………」


 過去、内向的な性格だったモスマンはその未来予知ともいえる能力のせいか、周りの人間から距離を置かれていた。

 モスマンと話すと自身の全てを見透かされているように感じた者達は、モスマンを不気味に思い、恐れていたのだ。


「…………ぅぅ……」


 そんなモスマンにも、ずっと距離を取らないでいてくれた友がいた。

 ディランだ。

 モスマンの希望によりパーティーは同じではなかったが、ディランは確かにモスマンの支えになっていた。


「…………ディラン」


 モスマンは誰よりも強い友に、いつも憧れていた。

 モスマンは誰よりも優しい友を、いつも頼っていた。

 モスマンはそんな友を──


「許して……許してくれぇぇ……」


 ──たった今、奈落へと突き落としたのだ。


「許してくれ……私にも未来が分からないんだ……私は一秒でも長く生きたいんだ……」


 臆病な男の懺悔は、喧騒の酒場では誰の耳にも届かなかった。

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