第69話

 本当に唐突だった。

 良く見えなかったけれど、おそらく三年生の端と、その近くで話し合っていた先生達が悲鳴を上げ、周囲が混乱状態になった時、藤原君の…声がしたのだ。


「――――如月、逃げるぞ!」


 そう言って私の手を取り、走り出す藤原君。

 背が高い藤原君には何が見えたのだろう。

 私には想像も出来ず、ただ藤原君と走っていた。


 ……阿鼻叫喚というのは、あれを指すのだろうという地獄絵図。


 人が、簡単に肉塊に変わっていった。

 骨の砕ける音と血飛沫が飛ぶ音。

 暗い中でも響き渡る肌と肌のぶつかる音に悲鳴と嬌声。


 その狂想曲を聞きながら、藤原君に連れられてただただ逃げた。

 それしか出来なかったのだ。


 魁を心から心配していたけれど、一年生の居た所と三年生の居た所は離れている。

 彼は強いからきっと無事だと、そう願う事しか出来なかった。

 下手にここで私が止まって我儘を言ったら、藤原君に迷惑が掛かってしまうのは分かっていたから。

 だから魁の強さを信じるしかなかったともいえる。


 魁の事を思いながら、どこかで瑞貴が同じ様な目に遭っていなければいいと心底願いながら、目の前で暗い中でも不思議と見える犠牲になる人達を尻目に逃げ続けた。

 心は麻痺していたのかもしれない。

 恐怖は不思議と湧いてこず、まるで夢の中の出来事の様に流れていく。


 初めは、何が起こっているのかも分からなかった。

 逃げ回っていて、ようやく豚の顔をした大柄な人型の怪物に襲われているのだと理解した。


 怪物達は棍棒の様な物を持ち、単純に振り回しているだけの様に思えたけれど、力が強いのだろう、その一撃で人が潰れたり吹き飛んでいく。

 そして怪物達は女性を犯しているらしいのがそこかしこで暗い中でも不思議と目に入る。


 間違いなく私も捕まったら同じ目に遭うのだろうと思うと、嫌悪感と恐怖から震えが走った。

 人にそういう目に遭わされそうになった時も言語に絶するほど気持ちが悪かったが、今はそれ以上の恐怖を感じる。


 ただただ怖かった。

 けれどそれはどこか他人事で、暗くて良く見えないのも手伝い、遠くから眺めている様に感じていたからこそ足が動いたのだろうと思う。

 そうでなかったらとっくの昔に恐怖でいつもの様に固まって、すぐさま犠牲になっていただろう。


 けれど幸いにも私よりずっと背が高く足が速い藤原君と一緒に逃げているのだ。

 足は縺れそうになりながらも、それでも必死に動かしていた。


 助けを求める声に、無意識に足が止まりそちらに向かいそうになる。

 それを藤原君が引っ張ってくれていたからこそ、どうにか逃げ回っていた。


 きっと私だけでは直ぐに捕まってしまっていただろう。

 足の速い藤原君が手を引いてくれたから、逃げる事が出来ていたし、止まらずに済んでいた。


 ――――でも、追い付かれたのだ。

 あの怪物は私達より大きくて鈍重そうに見えるのに、俊足だった。

 それに森の中で囲まれていたらしくて、私達に最初から逃げ場はなかったのだ。

 ……まるで初めから私たちが来るのが分かっていたかのように。


 もう終わりだと思った。

 せめて藤原君だけでも逃げて欲しいと手を離した。

 どうみても足手まといの私が居なければ、藤原君だけなら何とかなると思ったのだ。


 けれど藤原君は自分を犠牲にして怪物の視線を自分に集中させ、私を茂みに隠してくれた。

 そんな彼が怪物の攻撃を受けて倒れてしまった時は、目の前が真っ暗になった様に、とてもとても怖かった。


 怪物は怖いし恐ろしい。

 捕まった時の事を考えると震えるし嫌悪感しかない。

 けれど何より嫌で怖かったのは、氷川先輩や藤原君が傷つく事だったのだ。


 だから、直ぐに藤原君を治したかった。

 けれど脇目も振らずそれをしてしまったら、折角私を助けてくれた藤原君に合わす顔がなくなってしまう。


 怪物が辺りをうろついているのだ。

 迂闊に出て行ったら藤原君の行為を無にしてしまいかねない。


 そう必死に自分に言い聞かせ、爪が手のひらに食い込んで血が出ていたのにも気がつかず、飛び出しそうになるのをなんとか堪えていた。


 その時だ。

 ふと気が付いた。


 暗い中でも不思議とはっきりと木の上で嗤いながら周囲を見ている人に。


 木の上にいるのは何も思わない。

 そうやって身を守っているだけなのだから。


 ――――けれど、何故、彼は嗤っているのだろう……?


 寒気がした。

 人が、ましてや同じ学校の仲間が襲われているのに、何故、楽しそうなの……?


 私には到底理解できず、ただ硬直するしかできない。


 思わず視線をその人物から逸らした時、怪物が藤原君の周囲にいなくなった様に見えたのだ。


 今しかないと思った。

 だから体が勝手に動いたのだ。

 今にも消えそうな藤原君の呼吸に我を忘れたとも言える。


 ただただ藤原君に駆け寄り、力を使った。

 まだ彼の息がある事に素直に感謝しかない。


 これで藤原君を助けられなかったら……私は自分を許せそうになかった。


 いつも通りに力を振るえる事にこの時ばかりは感謝する。

 常日頃は周りを気にして怯えているから、肝心な時に力が使い物になるのかが怖かった。

 ――――怪物よりもその事の方がずっとずっと怖かったのだ。


 ただ、違和感は感じた。

 自分の力に、だ。

 いつも通りの様で、何かおかしい様な気がする。

 最初はいつもと同じだと思った。

 でも違うのだ。

 微妙な違和感とでもいうのか……

 何がとは正確には分からない。

 それでも何かいつもと違うとも思えて、その事に首を傾げた。


 藤原君の驚愕の表情に居た堪れなくなる。

 自分の力を人前で振るう事には躊躇しかない。


 それでも、藤原君には死んで欲しくなかった。

 単なるエゴだ。

 目の前で沢山の人が死んでいるというのに……


 自己嫌悪に襲われている時だ。

 唐突に腕を引かれ藤原君に抱きしめられた。


 ……血飛沫が顔にかかる。

 目の前にいた豚の顔をした人型の怪物の上半身が消失していた。


 更に血の雨が辺りに降りかかる。

 それは周囲にいつのまにかいた豚の顔をした怪物達のものだ。


 怪物達を目にもとまらぬ速さで肉塊に変えていたのは――――


「瑠那、無事、か……?」


 一帯を怪物の血の海に沈めて、自分も血まみれの魁が…私を血走った瞳で心配そうに、案じるように見詰めていた。

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