第2章 少年達は武器を取る

第13話 哀しい記憶

 玲士朗は夢を見ていた。それは、思い出すことを拒み続けながら、決して忘れることはできない哀しい記憶だった。


 白く、どこまでも白い視界に、薄っすらと像が結ばれていく。朧げな光景であっても、病室の鼻につく消毒液の匂いだけが鮮明だった。


 強くなり始めた日差しと蝉時雨、澄んだ碧空と混じり気のない入道雲。レースのカーテン越しに感じる初夏との再会に、若い女性が感慨深そうに呟く。もう夏なんだね、と。


 窓際のベッドに横になる女性は、物々しい医療器具に囲まれていた。肌は蒼白く、身体は痩せ細り、長く続く痛みと苦しみにやつれた表情が痛ましかった。


 ――ママ、いつになったらお家に帰ってくる?


 幼い子どもが不安気に母の顔を覗き込む。女性は子どもの髪を優しく撫でながら、無邪気な問いに微笑んだ。


 ――もうすぐかなぁ。そんな顔しないで、もう少しの辛抱よ。そうしたら、ママはずっと貴方の側にいるから。


 子どもは安堵の笑顔を見せる。だが、病室に集まっていた大人達は誰もが沈鬱な面持ちだった。高校へ入学したばかりだった玲士朗もまた、すぐ近くまで迫っている女性との永訣の気配を感じ取り、失意と絶望に心が押し潰されそうだった。


 女性の息遣いが荒くなる。疼痛と苦悶に耐えながらも、気丈に笑顔を見せ続けていたが、やがてその時は訪れる。


 ――ママ、ちょっと疲れちゃった。しばらく眠ってもいい?


 誰かの嗚咽が漏れる。大人達は皆、果てのない悲嘆の始まりに怯え、声を殺して泣いていた。悲しみに震えすくみながらも、玲士朗は女性との約束通り、子どもを連れて病室を出ようとする。


 ――ありがとう、ごめんね玲君。


 玲士朗はベッドを振り帰る。女性は穏やかな笑みを浮かべていた。それは死への服従だった。愛だって正義だって不誠実な、このどうしようもない世界で、死だけが真摯に、そして淡々と彼女の心に向き合っている。その愚直なまでの誠実さに彼女は心を許し、笑うのだった。


 女性の頬を一筋の涙が伝った。子どもには見せまいと俯いて、静かな慟哭に肩を震わせ続ける。玲士朗は現実の残酷さに眼を背けるように、子どもの手を引いて病室を出た。


 リノリウムの廊下を歩きながら、子どもが玲士朗に笑顔を向ける。


 ――お兄ちゃん、ママの好きなアイスクリーム買いに行こうよ。ママ、起きたらお腹が空くと思うんだ。


 無邪気な言葉に、玲士朗は心が引き裂かれる思いだった。そうだな、袋一杯に買ってママを驚かせちゃうか。天井を見上げ、涙が零れ落ちないように努めながら、玲士朗はお道化た調子で震えた声を誤魔化した。


 玲士朗の左手は、小さな右手をしっかりと掴み直す。子どもにとって最愛の母であり、玲士朗にとって敬愛する姉がどこにもいない世界を、二人でどこまでも進んでいく。果てはない。大好きなあの人の記憶、そして思い出がある限り、胸を抉るこの悲しみも切なさも消えはしないし、ぽっかりと空いた心の喪失感が埋まることもないのだから。



               


 玲士朗が目を覚ますと、見慣れぬ木造の天井が視界に広がっていた。意識はまだ混濁していて、ここがどこだか判然としない。干し草のベッドから起き上がり、寝ぼけ眼で薄暗い部屋を出る。


 簡素な木製のドアを開けると、その先は柔らかで温かい朝日に包まれた夢のような場所だった。いつか見た姉と甥の姿が当然のようにそこにあり、無邪気に笑い合っている。やおら湧き起こる驚きに、玲士朗の意識がフッと覚醒した。


 ここにいるはずのない母子の姿は、やはり夢のように儚く消えていき、玲士朗は幻視の余韻にしばらく呆けていた。彼の気配に気づいたフィリネが、春の陽だまりのような微笑を向ける。


「おはようございます、レイジローさん。もうすぐお食事の用意ができますので、少しだけお待ちいただけますか?」


「あ、ああ、いえ……その、お構いなく」


 玲士朗は我に返ると同時に、異世界転移が現実であることに多少失望もしていた。


(夢じゃ、ないんだな……)


 クシェルの相も変わらない怪訝な眼差しに、玲士朗は苦笑した。


「えーと……そうだ、鷹介はどこに?」


「村を散策したいとおっしゃって、今朝早くお出かけになられました」


「相変わらず朝には強いなアイツ……。俺も少し外に出てきてもいいですか?」


「はい。ご案内しましょうか?」


「いや、大丈夫です。鷹介と合流してすぐに戻ります」


 フィリネとクシェルから逃げるように、玲士朗は足早に戸口へ出ていく。今の玲士朗には、二人の姿がどうしても姉と甥を幻視させずにはいられなかったのだ。


 戸外はやや肌寒かったが、清々しい大気に満ちていた。草花は朝露に濡れ、見上げる空は電線も高いビルもなく、白い雲の群れと鮮やかな紺碧の空がどこまでも続く。村の端に面する湖が陽光を浴びてきらきらと輝き、爽やかな鳥の鳴き声が遠くから聞こえていた。


 スマートフォンの時刻は午前九時を刻んでいる。普段は絶大な信頼を置いている機能だが、ここは異世界、残念ながら当てにはできないだろう。体感的には午前八時くらいではないかと玲士朗は推測した。


 どの家からも穏やかな煙が立ち上り、賑やかな村人達の声と、様々な生活音が聞こえてくる。既に仕事に勤しむ村人や、広場を駆け回る子ども達の活気が村中に溢れていた。


 玲士朗に気づくと、村人達は誰も彼も恭しく頭を垂れる。こそばゆさを感じ、苦笑しながら鷹介の捜索を続けていると、程なく民家の裏手で薪割りに精を出す鷹介と、それを手伝う颯磨に出くわした。


「やっと起きたか」


「おはよう、玲ちゃん」


 玲士朗に気づいた鷹介は薪割りの手を休め、切り株の作業台に腰かけた。


「何やってんだ?」


「見て分かるだろう。薪割りだよ。これからさらに寒くなるらしいからな」


 いまいち状況が掴めず、玲士朗が首を傾げていると、民家の中から体格の良い女性が出てきて、玲士朗達に近づいてくる。鷹介の傍らに積み上げられた薪の山を見て、感嘆の声を漏らした。


「あらまぁ、もうこんなにやってくれたのかい。この調子じゃ村に必要な薪があっという間に拵えちゃうね。流石、剣臣様。頼りになるじゃないか」


 女性は鷹介達にも物怖じせず陽気に声を掛けながら、弾けるような笑顔を見せる。無造作なひっつめ髪に目鼻立ちのはっきりとした顔つき、そして良く通る大きな声は、明るく快活で飾らない性格をよく表現していた。


「コニーさん、コイツが最前話した仲間の一人で玲士朗って言うんだ。見てのとおり中肉中背で容姿も平凡、これといって特徴はないから、しっかり覚えてやってくれ」


 鷹介の悪意ある紹介に悪態をつきながら、玲士朗は居住まいを正した。


「コイツらに比べたら特徴が分かり辛いですが、どうぞよろしくお願いします」


 いじける様子の玲士朗に、コニーは吹き出し、豪快に笑う。


「いい味出してるよレイジロー。気に入った! 困ったことがあったら私に何でも相談しな。遠慮はいらないからね」


「玲ちゃん、コニーさんは俺と悟志を泊めてくれた家の人なんだけど……すごくやかましい人でしょ?」


 屈託ない笑顔でさらりと暴言を吐く颯磨を玲士朗がたしなめる。


「あのな颯磨、いつも言ってるだろう。ご本人を目の前にしてそういうことを言うなって」


「いいんだよレイジロー、気の置けない間柄こそ家族だろう? 救世主様だろうが剣臣様だろうが、この村にいる間は私達の家族さ。だから私の不躾な言葉遣いも大目に見てちょうだいね」


 優し気だが有無を言わさぬ迫力に、玲士朗はたじろいだ。


「願ったり叶ったりです。気さくに接してもらえる方がありがたいので」


「話せるじゃないか。ますます気に入ったよ」


 気を良くしたコニーは玲士朗の肩を強めに叩いた。


「こ、光栄です……それより鷹介。話が途中だった」


 何の話だっけ? と鷹介は惚ける。


「何でお前らがここで薪割りをしているのかって話だよ」


「嗚呼、そのことか。そりゃ一宿一飯の恩を返すために決まっているだろう。この世界の作法や仕来りとやらはまるで分からんから、とりあえず万国共通、身体を動かして返そうと思った訳だ。薪はどの家でも必需品らしいし、村にもフィリネさんにも恩返しが出来るだろう?」


 思いもしなかった発言に玲士朗は絶句した。


「……その殊勝さに驚きだよ、恩を仇で返す奴だと思ってた」


「お前の眼は節穴で、心の眼も曇っているから、俺の真価を見誤るんだ」


「いや、俺も玲ちゃんと同じ意見」


「お前は性根がひん曲がってるから、俺の真価が歪んで見えちまうんだ」


 三人の掛け合いを興味深そうに眺めていたコニーは再び破顔一笑する。


「仲がいいねぇ三人とも。伝説の剣臣様がこんなに若くて気さくで親切なお方達だとは思わなかったけど、嬉しい驚きだよ。うちの旦那はこういう力仕事には不向きでねぇ……あら、噂をすれば」


 コニーの自宅から出てきたのは細身で小柄な男性だった。起き抜けらしく、しきりに眼を擦りながら力ない声でコニーの名を呼んでいた。


「……ったく、世話が焼けるよ。タボア、剣臣様の前で何てだらしない姿見せてるんだい――」


 言葉とは裏腹に嬉しそうな調子でコニーはであるタボアの元に向かう。コニーの後ろ姿を、颯磨は茶化すような意地悪い笑みで見送っていた。


「コニーさんってああ見えて、夫には尽くすタイプでさ。タボアさんに対する一挙手一投足にツンデレが炸裂しすぎて、俺はもう呆れて笑うしかないよ」


「仲が良いのは結構なことじゃないか。微笑んで見てやれよ」


「無理無理、一人息子のテオでさえ苦笑するレベルだから。あ、玲ちゃんにも後で紹介するよ」


 切りの良い所で上がっておくれ、とコニーが自宅の戸口から声を張り上げる。鷹介は手を振って応え、タボアとコニーは屋内に戻っていった。


「さて、悟志は行方知れずだが……とりあえず玲士朗には検証結果を伝えておこうか」


「検証結果?」


 疑問符を頭に浮かべる玲士朗に、鷹介は呆れた表情を見せる。 


「あのなぁ……まさか本当に俺が恩返しのためだけに薪割りしてると思ってないよな?」


「玲ちゃんがやって来る前に、俺達の身体の変化とか疑問点をいろいろ調べておいたんだ。薪割りはその一環なんだよ」


「あ、やっぱり鷹介の恩返しは擬態だったんだな。安心した!」


「……続けていいか?」


「どうぞ」


 晴れやかな表情の玲士朗とは対照的に、鷹介はじめじめとした目で幼馴染を睨みながら不貞腐れたように話し出す。


「分かったこと、というか証明できたことは三つだ。まずその一。俺達の身体能力の劇的な向上。昨日のゴブリンとの戦いでも分かってたことだが、俺達の腕力も脚力も、平凡な高校生のそれを軽く凌駕している。例えば――」


 鷹介は片手で斧を軽々と振りかぶり、切り株の作業台に据えられた薪を軽い所作で一刀両断する。


「力は格段に強くなっているし、道具の使い方も身体の方で了解しているらしく、こうして楽々斧も振れる」


 玲士朗は思わず唸った。続いて颯磨が準備運動を始める。


「こんな風に、高くも跳べるし」


 垂直に跳んだ颯磨の身体は、平屋の民家を優に超える高さに達していた。


「走れば速い」


 着地後、すぐに踏み込んだ颯磨は一瞬で数メートル先まで移動し、また一瞬で元の場所まで戻っていた。


「長距離も試してみたけど、ほとんど息は切れなかったよ。この調子ならフルマラソンも余裕で走り切れるかもしれないね」


 颯磨の信じ難い言動に、感心を通り越して玲士朗は呆れた。


「なんとまぁ非常識な」


「他にも聴覚嗅覚が鋭くなっていたり、動体視力や反射神経もよくなっていたりもする。火事場の馬鹿力じゃないが、根性次第で普段以上の力も発揮できるみたいだ」


 玲士朗は得心していた。ゴブリンを撃退した並々ならぬあの力は、死にたくないという願い、生き残るという意志、理不尽な暴力に対する怒りが作用した結果なのだろう。


 鷹介は斧を作業台に突き立て、話を続ける。


「その二。具現鋳造。いつの間にか俺達が扱えるようになっているらしい特殊能力って話だが、試せど試せど一向に要領が掴めない。まぁ、メーネの言うとおりなら精神論の延長みたいなものっぽいし、謎も多すぎるから、もしまたゴブリンに襲われても、当てにはできないかもな」


 鷹介はやれやれと肩を竦めた。


「最後の三つ目は、たぶん俺達が一番知りたいことかもしれない」


「もったいぶるなよ」


 鷹介に変わって颯磨が続けた。


「村の爺婆じじばば達が教えてくれたんだ。俺達がテルマテルにやって来るより前に、このアミューネ村には剣臣がやって来たっていう逸話があるみたいだよ」


 驚く玲士朗が二の句を継ぐ前に、鷹介は機先を制する。


「詳しいことは分からん。ただ、話を掘り下げようにも、その剣臣がやって来たのは二百年以上も昔。当然、当時のことを知る村人はいないし、歴史書や文献も記述が少ないから現時点では眉唾だ。だが、望みはある。長寿と博識を誇るエルフなら、何か知ってるかもしれないとさ」


 メーネの記憶にあった、森の番人たるエルフの姿を玲士朗は思い浮かべる。一見すると容姿は人間に近かったと記憶しているが、話は通じる手合いだろうか。ゴブリンという苦い先例があるだけに不安が尽きなかった。


「……村の歴史を知っているってことは、エルフはこの近くに住んでるんだよな?」


 待ってましたとばかりに、鷹介は満足気な笑みを浮かべた。


「ああ。とあるエルフの一族がこの先の森に長年暮らしているらしいぞ。メーネが顔見知りらしいから、頼んで渡りをつけてもらおうぜ」

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