第11話 柚希とメーネ
メーネは玲士朗達がテルマテルに召喚される数日前から、このアミューネ村に逗留している。突然の来訪にもかかわらず、村長のヨシカはじめ村の住人達は快くメーネを迎え入れた。地方の田舎村であるアミューネ村は、
メーネは室内に入るなり、おもむろに衣服を脱いだ。薄手の肌着姿になったメーネは、艶めかしさよりも神々しさを一層印象づける。瑞々しい肌も露にベッドに腰を下ろし、深く俯いた。
梢が見せた悲憤の涙は、メーネには身に覚えのない、しかし心の深奥に確かに根付いていた感情の奔流を解き放った。心の底から感じる悲しみ、胸を締め付ける苦しみ、そして悔しさ、切なさ、愛しさ……ありとあらゆる感情がない交ぜになった得も言われぬ心境に、メーネは困惑した。
彼らと初めて顔を合わせた際も同様だった。自分は一体、何を恐れ、悔み、苦しんでいるのか。その自問自答に答えてくれるものは誰もいない。
底なし沼のような苦悶にはまりかけたメーネの
「メーネ、入ってもいい?」
客人をもてなす心境ではなかったが、誰かと言葉を交わして気を紛らわせたい気分でもあった。メーネは少し思案した後、声の主を迎え入れた。
不安気に戸口で佇んでいたのは柚希だった。メーネのあられもない姿を目の当たりにして、柚希は少し取り乱した。
「ご、ごめん。着替え途中だったんだね」
柚希の狼狽ぶりに思い当たる節がなく、メーネは首を傾げる。
「いえ、寝所ではいつもこの格好なのですが……」
「えっ! そ、そうなんだ……」
ビックリしたぁ、と小声で呟き、気を取り直すように咳払いをする。
「突然ごめんね。ちょっとお話してもいいかな?」
「はい。その……不調法者で、もてなしも覚束ないのですが」
「いいのいいの。ちょっとメーネとお喋りしたいだけだから、お構いなく」
柚希は遠慮しいしい、勧められた椅子に収まった。メーネも対面の席に腰を下ろす。
「自己紹介、まだだったよね。私、音羽柚希。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします、ユズキ。お礼が遅くなってしまいましたが、先ほどは助けてくれてありがとう」
「お礼を言うのはこっちの方だよ。メーネのおかげで、私達はこうして無事だったんだから」
メーネは申し訳なさそうに目を伏せる。
「いえ、私の不甲斐なさの所為で、皆さんを危険な目に遭わせてしまいました。コズエの言う通りです。私が皆さんを無理やり戦いに巻き込もうとしている」
「その……あんまり気にしないで。梢も突然のことで動揺してるだけなの。メーネの所為だなんて、本心じゃないよ」
柚希は真実、そう確信しているのだが、人づてに明かされる他人の真意など気休めでしかないことは柚希も承知している。ただ、メーネを元気づけたい、その一心でここまで来た彼女である。柚希は自らを鼓舞して言葉を紡ぐ。
「ね、一つ訊いてもいい?」
「どうぞ」
「メーネは、何で私達のことを命懸けで助けてくれるの? やっぱりテルマテルの悪い神様をやっつけるために、私達が必要だから?」
「そう……ですね。それは勿論ですが、私も皆さんと一緒に戦わなければならないから」
「戦う? メーネも?」
メーネは言い淀み、視線を下方に落とす。流麗な白金の髪が表情を隠すように垂れ落ちた。
「その……私は、生まれ変わりなのです」
「生まれ変わりって……もしかして、救世主の?」
探るような柚希の問いに、メーネは自信なさ気に首肯する。柚希は大いに驚いたと同時に、疑いなく得心もしていた。メーネの纏う常軌を逸した神々しさは、天命を帯びた聖人の持つ
それより柚希が気になったのは、メーネの鬱屈とした表情だった。大任の重圧に耐えかねているというより、柚希達と同じく、俄にもたらされた己の使命への困惑を印象づける。
「メーネも自分が救世主の生まれ変わりだって、納得し切れてないの?」
「いえ、そうではないのです。その……言葉にすることが難しいのですが――」
沈思黙考して、メーネは訥々と語り出した。
「救世主アルテミシアは一度肉体を喪失し、その類稀なる清廉な魂は、人類総意の祝福を受け、霊長の八種族を護る存在に召し上げられました。バラル神の脅威に際し、再び肉体を得て人格を再生させた事で、メーネという転生者が生まれた。この一連の流れは、同じ人格が同じ肉体に継続して存在していた訳ではなく、同じ人格を別の肉体に復元したに過ぎないのです。だから私は、アルテミシアを端緒とした歴代の救世主の記憶や感情の足跡を持っていても、記憶に当然伴うはずの実感がない。
――私は、かつて私であったであろう人格を模倣し、それらしく振る舞っているに過ぎないのです」
メーネの口から語られる難解な言葉の数々に、脳の処理能力の限界を迎えていた柚希は、視線を一点に見据えたまま動作停止していた。頭からプスプスと煙が立ち上る幻視すらさせる体たらくだ。
そんな柚希の様子を見て、メーネは困り果てた顔で苦笑した。
「ごめんなさい。よく分からないですよね。とにかく、過去の記憶も感情も、身体の実感があってこそのものだと私は思うのです。私の記憶もそれに付随する感情も、身に覚えがない自分の
剣臣は、過去何度もテルマテルに召喚され、救世主とともにバラル神を打ち倒している。ならば、剣臣との邂逅も、救世の戦いに対する剣臣の反発や疑念、憤恚と憂慮も当然、過去のメーネが目の当たりにしているはずだ。名状しがたいこの気持ちも、過去の自分が感じた感情なのかもしれない。
しかし、長い年月の所為か、平常心をかき乱される割に細かい情景も経緯も判然としない。そして、メーネには過去の自分に共感できるはずの縁もない。
「私は、過去のメーネをずっと追い続けるんでしょうね」
自分は決して自分の影には追いつけないのだとメーネは諦観している。影はどこまでも逃げて行く。影とは自分自身であり、また過去なのだ。両者を掴む術も、両者から逃れる術もメーネは知らない。ずっと影に怯えて、影を理解しようとして、その度に挫折と虚しさを経験するのだろう。
静かな悲壮に打ちのめされるメーネを見て、柚希は肩を落とした。
「ごめんね。私って馬鹿だから、きっと、メーネの気持ちを全然分かってあげられてない」
「いえ、謝らないでください。詮無いことなのですから」
メーネの笑顔に明るさはない。炉にくべられた炭の爆ぜる音や弱弱しい火の灯りが、物悲しい雰囲気に拍車をかけているかのようで、柚希は居た堪れない気持ちになった。
自分達だけでなく、メーネにだって苦悩がある。力になりたい、なんておこがましいことかもしれないし、メーネは望んでいないかもしれないが、柚希は率直な気持ちを伝えずにはいられなかった。
「あのね……今はまだ、一緒に悩むこともできないけど、私はメーネの気持ちが分かるようになりたんだ。だから、メーネさえよければ、もっとたくさんメーネの事を教えてほしいな」
柚希の意図を推し量り切れず、メーネは戸惑った。
「私のことを、ですか? ユズキにとっては
「そんなこと言わないでよ。友達の事だもん。色々知りたいじゃない」
「友達――」
その言葉を聞いた瞬間、またしても身に覚えない感情がメーネの心の奥底に湧き起こる。しかし、その感情はこれまでの心を抉るような荒々しさもなく、何かに急き立てるような焦燥感とも異なる。思い出せそうで思い出せない記憶の不確かさにもどかしさを感じるものの、温かで、優しくて、春の穏やかな日差しのような心地よさが確かに息づいている。
――過去の私にも、心許せる友人はいたのだろうか。メーネは不思議な安らぎの残滓を微かに感じながら、思いを馳せずにはいられなかった。
「あ! メーネ、怪我してるじゃない!?」
唐突に大声を出して、柚希はメーネの左腕を取る。陶器のように滑らかで白い手首には、当の本人も気づかない程度の小さな切り傷ができていた。血は止まっていたが、傷の周辺は薄赤い血の痕が広がっていた。
「え――嗚呼、きっとゴブリンとの戦闘の際にできたのですね」
「ちゃんと消毒しなきゃダメだよ! ちょっと待ってて」
柚希はミニショルダーをまさぐり、中から消毒液とコットン、パステルカラーが特徴的な絆創膏の束を取り出す。見たこともない異世界の道具に目を見張るメーネを余所に、慣れた手つきで傷口を消毒していく。
「私、おっちょこちょいだからよく怪我しちゃって。いつも消毒液と絆創膏は常備してるんだ」
柚希は得意げに胸を張った。幼馴染達がこの場にいれば、「自慢できることじゃない」と窘めているところだが、メーネはむしろ、発達した簡易な医療道具の存在と、それを持ち運び、かつ、手際よく手当てできる柚希の器量に感心していた。
「はい、これでもう大丈夫」
絆創膏を張り終えた左腕を、メーネはまじまじと見つめた。その眼差しには、見慣れぬ異世界の衛生材料に対する不信や恐れといった冷ややかな固さは一切ない。誰かに労わられる嬉しさ、手首に残る優しくて柔らかな温もりに、自然とメーネは微笑んでいた。
「ありがとうユズキ。とても綺麗……大切にします」
思いがけないメーネの言葉に、柚希は吹き出した。
「気に入ってくれてよかった。でも、絆創膏は傷が治ったらちゃんと剥がすものなんだよ。もしまたメーネが怪我したら貼ってあげるね。……まぁ、怪我しないことが一番なんだけど」
「……ゴブリンとの戦いでもそうでした。どうしてユズキは、会ったばかりの私にそこまで心を砕いてくれるのですか?」
柚希は目を白黒させた。予想だにしない質問だったらしい。
「え!? め、メーネったら難しいこと訊くね……」
ウンウン唸りながら熟考し、答える。
「理由なんてないんじゃないかな?」
今度はメーネが目を瞠った。
「ない? 貴方は、誰にでも同じように心を尽くすことができると?」
「そうできたら一番いいよね。でも、私にできることってまだ少ないから、今はメーネや玲士朗達の力になりたいって思うことが精一杯。人はさ、人に優しくなれることをこうして嬉しいって感じることができるんだもん。そこに理由なんてないよ。嬉しいものは嬉しいんだから」
メーネは茫然と柚希を見つめた。俄かには信じ難い、それでいて心惹かれる魅力を持つものが、柚希を通して目に見えるようだった。
人は人に優しくなれる、そうなれれば嬉しいと柚希は語る。
優しくされれば、こんなにも心が穏やかな温かさに包まれる。これが“嬉しい”という感情なのだとメーネは実感する。
生まれた世界も境遇も様々に異なる別々の人格が、こうして同じ気持ちを抱いている。それはまったく不可思議な奇跡だとメーネは思った。違うからこそ言葉を交わし、触れ合うことで共有される幸福な感情。互いが互いを思いやることで生まれる人の温かさ。その尊い奇跡を目の当たりにして、自然と彼女は微笑んでいた。
「あの……もしよければ、私にも聞かせてください。ユズキのこと、それに皆さんのこと」
言葉を交わすこと、来訪神の人となりを知りたいと思うこと、どちらもメーネにとっては有益なものだとは思えなかった。しかし、有益か無益か、そんなこととは関係なしに、救世主や剣臣の立場とは無縁に、ただ語り合っていたい。身体の奥底からじんわりと溢れ出るこの心地よい温かさを感じていたい。それはメーネが初めて感じた自分の能動的な意思でもあった。
メーネの申し出に、柚希は猫のような大きな目を輝かせる。
「ホント!? 私達の事、聞いてくれるの? じゃあ教え合いっこだね。どんなことから話そうかなぁ」
話題選びに心躍らせながら、柚希は別の喜びも感じていた。異世界で初めて出会った友人の晴れやかな笑顔を見て、彼女は自分がここにいる意義を感じていたのだ。悲哀や絶望といった沈鬱な感情は、メーネの清々しい高踏さの重荷でしかない。嘲笑も冷笑も似つかわしくない。メーネは、もっと心の底から笑っていい。軽やかに、空を飛ぶように、浮世の雑念から自由になってこそ、メーネの魅力は引き立つのだと、柚希は直感していた。
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