第140話 終わらない戦い

 この試合では全く打席でいいところ見せられない哲平であるが、頭を使わないわけではない。

 ツーストライクに追い込まれてからの、ピッチャーかサードかどちらが処理するか迷う場所へのセーフティバント。

 アレクに続いてのバント攻勢だが、大阪光陰の木下監督にも、この選択肢は読めていた。

 狙い通りピッチャーの真田に捕球させる。

 ぎりぎりでアウトにはなったが、真田を揺さぶるのは今からでも遅くはない。


 そして迎える、今日四打席目の大介。

 一打席目は球筋の確認であった。ツーアウトでランナーもいなかったので、しっかりと確認した。

 二打席目はヒットを打ったが、後続が絶たれて残塁。

 三打席目は敬遠であった。ランナーが三塁にいたので仕方がない。


 ワンナウトランナーなし。

 一点があれば勝てる。その確信がある。

 いつも通りにバットを持って胸を張った大介は、右のバッターボックスに入った。


 大介は右打席でもホームランが打てる。

 ただそれはヒットを打つようにたやすく、とまではいかない。

「いいんすか監督、あれ」

 ジンとしてはいきなりの大介の行動に頭がクラクラするが、秦野としても大介の才能と能力の上限はもう分からない。

「まあ、やらせてみるしかないだろ」

 そう言うしかない。




 大介の前にランナーがいたら敬遠される。

 大介が敬遠されたら後ろのバッターは打てない。

 攻撃が大介頼みになっているのは、本当にもうどうしようもない。

 神宮やセンバツとは違う、去年の夏の真田に戻ったのだ。

 あの試合は大介も、スライダーを攻略出来たわけではない。


 初球はアウトローのストレートと見せかけて、わずかに沈んだ。

 大介の待っていた球ではない。まずはボール先行。

 二球目は高速スライダー。

 これにスイングをしていったが、三塁側スタンドへのファールフライとなった。


 右打席でもスライダーはしっかりと見える。

 慣れていない右打席でも、スイング自体は必ず毎日行っているのだ。

 ホームランだって打てる。甲子園の並のピッチャー相手なら。

 真田は並ではないが、少なくとも目はついていっている。

 打てるはずだ。


 バッテリーも油断はしない。

 特に真田は、大介にだけは絶対に打たせまいとする。

 それでもヒットまでなら打たれてしまうのは分かった。

(最後は外で決める。だから内へのサインを寄越せ)

(内……じゃあこれは?)

(……いや、違う)

(じゃあこれで?)

(そうだ)

 三球目はインローへのストレートだった。

 ぎりぎりいっぱいに決まり、これでツーストライク。


 大介はこの大会、一度も空振り三振がない。

 一打席目の見逃し三振と、ここで取れる三振とでは、意味が違う。

 この試合は既に技術や能力よりも、精神力の削り合いに入りつつある。

 そして白富東にとって相手の精神を削るのは、ひたすら凡退を続けさせること。

 また大阪光陰にとって相手の精神を削るのは、どうにか大介を封じ続けること。


 まだ遊び球は使えるが、考えていた通りに組み立てる。

 アウトロー。追い込んでから、ストレートを。

(低い)

 大介はそう判断したが、審判の手は上がった。

「ットライ! ッターアウト!」

 審判のミスではない。低いと思ったのが、想像よりも伸びてきた。

 それでも微妙ではあったが、直史が広げたストライクゾーンが、真田にも適用されたのだ。

 それにサウスポーの投げる右打者への外角は、審判の目にはやや甘くジャッジされる。


 ここで投げるために、初球でアウトローにカットボールを投げたのだ。

 自分の組み立てによる強打者からの見逃し三振は、ある意味空振り三振より気持ちいい。

 大阪光陰の応援団も、大介を封じたことに大はしゃぎである。




 この試合二つ目の見逃し三振に、顔を歪める大介である。

 もっとも一打席目は分かっていて見逃したのだが、今の打席は選んでみて選び損ねたものである。

「お前相手にあのコースに決まると、審判はストライクにするだろうな」

「ミスりました。カットしないとダメでしたね」

 秦野の指摘は正しいが、別に責めているわけではない。

 大介が見逃すなら、他の誰だって見逃すだろう。

 それにボール球をまだ投げられる状況だったのだ。あそこはボールになってもおかしくなかった。

 だが大介は、試合を決めるつもりだったのだ。なのに見逃して出塁ではダメだろう。


 続く鬼塚が掬い上げたフライは、ファーストの頭を越えたところに落ちた。

 結果論ではあるが、大介がどうにか出ていれば、九回の表に待望の先制点を取れるチャンスだったのだ。

 そしてそれは、おそらく決勝点になっただろう。

 倉田もミートはしたが、サード正面でライナーのアウト。

 結局白富東はこの試合、一点も取れなかった。


 ここまでは。


 九回の裏、大介が三振に取られた後にもかかわらず、直史は淡々と投げ続ける。

 ボール球を振らせてストライクを取ることを、かなり意識的にしだした。

 もちろんジンの配球パターンも変わっている。


 九回の裏なのだ。

 ここから先は全て、表に点が取れていない限りは、サヨナラの危険性がある。

 どんな投手でも腕が縮こまっても無理はないこの展開で、直史は連続で三振を取る。

 そして九番の真田。

 明らかに一発を狙っている。


 延長戦になればサヨナラの可能性を持っている、後攻が圧倒的に精神的には有利だ。

 だからと言ってここで決められず、参考パーフェクト達成などさせてはたまらない。


 佐藤直史は異形だ。真田ははっきりとそう思う。

 この状況で淡々と投げるなど、おそらく自分には無理だ。

 ここまで全く失投はなく、おそらくこの先も淡々とアウトを重ねていくのだろう。

 誰かに頼るのではなく、自分で決める。


 変化球で追い詰めた後の、落差のあるカーブ。

 それを狙って掬い上げた。打球はセンターに飛んで行く。

 だがアレクは定位置から数歩後退しただけで、それをキャッチした。


 九回、打者27人に対して球数97、奪三振16、被安打0、与四死球0で、当然ながら無失点。

 昨年に引き続き、パーフェクトに抑えながらも、打線の援護なく参考パーフェクト。

 夏の甲子園で二度のパーフェクトを達成しながら、それを認められないというのは、何かの冗談だろうか。

 ベンチに戻っていく直史に対して、白富東応援団のみならず、観客の全てに、大阪光陰の応援団までもが、スタンディングオベーション。

 拍手の嵐が、球場内にこだまする。

 0-0のまま、延長に突入である。




 10回の表の、白富東の攻撃。

 大阪光陰もピッチャーの交代はない。

 真田の投げるボールは、球威は少し落ちてはいるが、キレはそのままだ。

 球数は109球で、打たれたヒットは三本、四死球は敬遠一つを含めても二と、普通ならば勝っている数字である。

 ただただ相手が悪い。


 この回先頭の武史は、粘ったがファールフライでアウトになった。

 沢口の代わりに入った中根は、まだ真田の変化球に対応出来ず、あっさりと三振。

 そしてジンの打席になるが、じっくりと真田の様子を観察する。


 精神的には絶対に有利なはずなのに、九回の裏の自分の打席で、強引に打ってきた。

 限界が近いのかどうか、見極めるのがジンの役目だ。

 しかし真田は内角を厳しくストレートで攻めた後、高速スライダーを一閃。

 結局のところは三球三振である。




 延長に入った以上、大阪光陰の圧倒的な優位は揺るがない。

 特にこの10回は一番の毛利からで、普通なら最も点数が入りやすい打順である。


 だがそれはここまで、誰も直史からヒットはおろか、四球を選ぶことも出来ていないわけである。

「この回はとにかくバントをツーストライクまでは見せて、その後は強攻や」

 木下としてもこんな戦法は使いたくないのだが、なにしろ全く隙がないのでしようがない。

 とにかく誰かが塁に出る。そこからどうにかするしかない。


 だが白富東バッテリーとしても、毛利のスタンスのわずかな違いから、その程度の狙いは分かるのだ。

 ストレートを高めに投げさせ、バントはキャッチャーフライで失敗。

 続く明石もボールを見てくるが、構えが小さいのは分かる。

 二球目をサード正面に転がすが、武史は素手で取ってそのままスロー。一塁でアウト。


 三番の大谷は、二人の凡退を見て、考えを変える。

 初球のスライダーは強振し、まずストライク。

 そして二球目のバットの根元ストレートを、やはりサード方面に転がした。

 だがこれは直史の守備範囲で、素早く捕球してゆっくりと投げてアウト。

 直史の体力を削る意図もあったのかもしれないが、結果的にはこの試合で最も少ない球数でのチェンジとなったのである。




 大阪光陰が有利なはずなのだ。

 相手はここまでパーフェクトピッチを続けており、それが途切れればピッチャーの集中力も途切れる可能性は高い。

「そろそろ岩崎の準備をさせといた方がいいかな?」

 打席に直史が立っている状態で、ふと秦野は呟く。

 ベンチのメンバーで、それを耳にしたメンバーが、秦野の方を見て首を横に振る。

「だよな」

 ここまで来れば、エースと心中である。


 夏の甲子園において、完全試合は達成されていない。

 去年の直史の記録は、タイブレークに突入しての達成であったので、ノーヒットノーラン扱いになっている。

 もっともそれにしたところで、延長をノーヒットノーランに抑えたのは、直史が史上二人目ではあるのだが。

 一応ネットなどの情報では、参考として直史が一本もヒットを打たれず、エラーも四球もなかったことは記されている。


 九回までパーフェクトをしようと、試合に勝てなければ、それは参考記録にもならない。

 夏の甲子園では九回の二死までパーフェクトに抑えながらも、そこでデッドボールを与えて記録が途切れた例もある。

 なお決勝でのノーヒットノーランも、これまでに二度しか達成されたことはない。


 延長で、決勝でパーフェクトを達成したら、おそらくこの記録は永遠に残る。

「真田も120球超えたのに、まだ球威は落ちていないのか……」

 秦野は呟くが、このあたりはさすがに名門の鍛え方だと言おうか。

 もっともそれを言うなら、直史はいまだにMAXスピードを投げられる。


 さすがに素直に三振してきた直史は、わずかに水分を補給して、バナナを半分食べた。

 おそらくこの試合が終われば、体重は3kgほどは減っているだろう。

 張り詰めた空気を発するでもなく、ただ静かに座っている。

 いつものように。

 ただそこにいる。




 延長も11回の裏、一発で試合を決められる後藤を、まずは三振で切る。

 そして丹羽はショートフライを打たせて、宇喜多も三振。

 三振を奪ってもガッツポーズすらなく、ただ機械的にアウトを取っていく。

 だがその周囲には、他の誰にもない熱量を感じる。


 観客席で瑞希は祈る。

 一点でいいのだ。

 一点あれば、この試合は終わる。


 九回が終わったところで、こらえきれずに泣き出した者もいる。

 だが瑞希はその姿を一瞬でも見失わないように、ずっと投げる直史を凝視する。


 ああ、こんなことがあるのか。

 人間がその頭脳と肉体で表現することは、ここまでのことが出来るのか。


 甲子園大会、一試合における最多奪三振は、上杉の29である。

 ここから全て三振でアウトを取れば、30となってそれを塗り替える。

 だがさすがにそれは現実的ではない。

 三振記録などどうでもいいから、ただ一点の援護がほしい。




 去年は14回の表にホームランが出て、試合は終わった。

 今年の12回の表の攻撃は、そのホームランを打った大介からだ。

 一点あれば勝てる。

 大介がホームランを打てば、それで勝てる。


 バッターボックスの前で止まった大介は、少し逡巡した後、また右打席に入った。

(それじゃダメだろ)

 珍しくタイムをかけて、秦野は大介を呼ぶ。

「迷うぐらいなら、いつも通りやれ」

 秦野はそれだけを言って、大介の胸を叩く。

「うっす」

 大介は今度は迷いなく、左打席に入った。


 左打席の大介に、真田は記憶を刺激される。

 何度となく夢で見た、あの場外ホームラン。

 延長に入って、まだガス欠にはなっていないが、それでも今は集中力で限界を超えている可能性はある。


 この程度の球数であれば、いくらでも投げてきたのだ。

 それこそブルペンであれば、二試合分ぐらいの球は投げる。

 ただ甲子園の舞台と、マウンドの熱と、そして相手打線の強力さが、一球投げるごとに真田からスタミナを奪っていく。


 ピッチャーとしての成績は、明らかに負けている。

 だが絶対に、チームとしては負けたくない。

(そのためには、左打席に入った白石を抑える)

 スライダーだ。

 左打者相手には、必殺とまで言われるスライダー。

 初球もスライダーから入り、相手の見逃しでストライク。

 最悪フォアボールになってでも、スライダーでコースを狙う。


 見せ球のストレートを外に大きく外し、三球目もスライダー。

 それがすっぽ抜けた。

(あ――)

 踏み込んでいた大介の腰に当たった。


 真田にとっては甲子園では初めての死球。それがまさかこんな場面だとは。

 だがこれで、ノーアウトの状態で大介が塁に出たのである。




 鬼塚は真田のボールに適応しようとしている。

 ヒットになってもおかしくなかった打球は打てたし、ストレートの威力も少し落ちてきたような気がする。

 単に慣れてきただけかもしれないが、それでも対応はしやすくなっている。


 この場面で一番ダメなのが、内野ゴロゲッツーであり、その次が内野フライか三振だ。

 バントのサインが出ないのは、自分への期待と思うべきだ。

 事実秦野は期待している。真田が失投し、そしてランナーがいる状態で四番に回ってきたのだ。

 倉田は合っていないが、鬼塚はかなり合ってきている。

(でも打順が逆なら、倉田にバントさせて鬼塚で勝負が出来たなあ)

 それはそれで他の場面では、失敗したこともあるのだろうが。

 だがここまで真田に完封されているのは間違いないのだ。


 その鬼塚に対して、真田は初球インハイにストレート。

 ファールの打球が真後ろに飛んだ。タイミングは合っている。

 二球目はスライダーで、これにはまだタイミングが合っていないのか、見てきた。

 簡単にツーストライクに追い込まれた気もするが、ここでバッテリーは外にストレートを外した。

(ここだな)

 秦野のサインに、鬼塚は頷く。


 四球目はカーブ。そして大介はスタート。

 真田の落差のあるカーブが低めに決まり、鬼塚は三振。しかしワンバンの間に大介は二塁へ進塁していた。

 送りバント代わりの盗塁となったが、サインとしてはランエンドヒットで、打てるものならゲッツー覚悟で打ってほしかった。


 続く倉田は、今日は完全に当たっていない。

 だが彼も考えるのだ。当たっていないならそれなりに、出来ることはすると。

 ライト方向へ、フライを打つことには成功した

 大介がタッチアップして、これでツーアウト三塁。


 そして六番の武史。

 今日も一本ヒットを打っていて、おそらく真田との相性はいい。

 来年もまた対決することはあるだろう。ならばここで一本打っておきたい。

 しかし真田もそれは同じだ。

 制球がやや甘くなった高めに外れたストレートを打ってセカンドフライ。

 ランナーまたも残塁で、12回の表も終わる。

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