忘れたくないモノ

 今日一日で起きた騒乱は、東京いや日本中を巻き込んだ。

 多くの者を震え上がらせ、不安に駆られるほどに。

 ホテルやネットカフェもそのあおりを受け、休業してしまい本部が壊滅した今俺とマリアは宿なしになっていた。

 仕方なし、立川から草薙達の車に乗せてもらい俺の実家まで行くことにした。

 母親も弟夫婦もいない。それに、千葉なら混乱もマシなはずだと踏んだ。

 運転は山寺に任せ、俺達は後部座席に乗り込む。

 一時的にとは言え戦争状態であったせいか、車通りは全く無い。

 あまりに快適に進むせいで、マリアは大欠伸をしてそのまま寝てしまった。

 疲れもあるのだろう。それに、オフィスのソファーよりかセダンの座席の方が寝心地は良い。

 俺も寝ようとしたが、その前に草薙に声を掛けられてしまった。


「……赤沼さんって、矢上さんの事どれだけ知ってます?」

「大したことは知らないな。確か、元SATの隊長だとは聞いたけど……」


 強いて言うなら、今回の帰国で出会うのは二回目だ。

 一回目はスカウトの時。それ以来、日本に帰ってくるまで顔を合わせてない。


「彼、大した策略家だわ」

「そうなんですか」

「ええ。……本部での戦闘で祖国の盾をほぼ全滅まで追いやったのは、彼のおかげよ」


 見ない内に草薙は、矢上の事をずいぶん買ったようだ。


「弓立と対峙した時……私とマリアと矢上さんの三人で立ち向かったの」


 肩にもたれ掛かり、寝息を立てている相棒の顔をマジマジと見つめる。


「……絶体絶命って所まで追い込まれたんだけど、そこで彼の作戦が火を吹いたのよ」

「ほう」


 話によると、祖国の盾構成員達はコブラの20ミリガトリング砲で肉片になったらしい。


「彼は、弓立の“慣れ”と“驕り”を利用したの」


 ――人間というのは、未知のモノに対して過剰なほど警戒する。

 戦闘の真っ最中ならば、それは最高潮になるだろう。

 しかし、人間というのは知っている人間を相手にする時は、往々にして油断するものだ。

 それが、一度戦い負かした女と同じ職場だった女なら尚更。

 弓立は自分が圧倒的に有利だと思い込んでいた、相手を見くびり過ぎていたのだ。

 だが、それには一つの不安要素があった。

 弓立からしたら初対面の矢上である。

 マリア・草薙は置いておくにしろ、初対面の人間の戦闘力は中々計り知れない。

 格闘技ならまだしも、銃の撃ちあいだ。

 そう簡単には分かりはしない。

 もし、そこにいる男が銃の達人だったら?

 その疑問は警戒を産み、警戒は策略の邪魔になる。

 それを取り除くために、矢上は敵前で銃を弾切れにしたのだ。

 サイドアームの拳銃でも戦えない事は無いだろうが、拳銃弾とライフル弾では雲泥の差がある。

 そんでもって、袋小路に入ってしまえば弓立からすれば願ったり叶ったりの状況だ。

 ……自分が既に矢上が作り上げた舞台の上で踊っている事を知らずに。

 草薙の話を反芻し、俺はあのどこか無機質な顔を思い浮かべ、底の知れなさに畏敬の念を抱いた。



 三鷹市。某マンション。

 筋肉を縫い終わり、その上からガーゼを当てた弓立は礼を言って、立ち去ろうとする。

 王はそれを大慌てで止め、療養を申し上げた。

 このまま行こうものなら、間違いなく彼女は死ぬ。そんな事は王の医者としてのポリシーに反する事だった。


「……とりあえズ、晩飯デモ喰ってケ。食事は、命の源だからナ」


 弓立は迷ったが、彼女の体は空腹を訴えてる。


「……分かった」

如佳ルューチャー! 彼女ニお粥作ってヤレ」


 王は娘を呼びつけると、そう頼み弓立を食卓に座らせた。

 王もその向かいに座る。


「さて……これから、お前さんハどうするんだイ?」


 お粥ができるまでの間、王は弓立のこれからについて聞き出そうとしていた。

 医者としては、相手が勝手に来て勝手に治療していったとはいえ、怪我人が無茶するのは見たくない。

 それが本音だ。


「決着を付けなきゃいけない人がいるの」

「絶対にカ?」

「ええ」

「すぐにでモ、行かなきゃけないノカ?」

「……それは……別に」

「それだったラ、今日一晩ハゆっくりシロ。部屋は施術室を使エ」


 弓立は俯き、どこか不機嫌そうな顔をしている。

 彼女のそんな様子を見て王は溜息を付き、娘が運んできたお茶を飲んだ。


「……お前サン、本当に痛みヲ忘れたのカ?」


 台所から鶏出汁の香りが漂い始めた頃、王は弓立にそんな事を聞いた。

 弓立の眼光が怪しく揺らめく。


「麻酔無シでの手術。……痛みどうこうハ置いとくにしテモ、体にはダメージを与えてイル。……マトモな奴ノする事じゃなイ。……特ニ、体が資本のガすることじゃなイ」

「……何が言いたいの?」

「……俺がマダ、中国にいた時ノ話ダ。かれこれ、二十年くらい前、ある男がいタ」


 その男は、食べる事が好きな男だった。

 多くの人間が生きる為に食事を取るが、その男は“食べる為に生きる”と豪語するほど食事が生きがいだった。

 しかし、その男は不幸に見舞われる。

 交通事故を起こし、頭部を負傷したのだ。

 幸いにして、自損事故だったので彼以外の怪我人はいなかった。

 だが、場所が良くなかった。

 その男が住んでいたのは、山奥の農村。車通りの少ない山道で起こった事故だったのだ。

 事故発生から一日経って、ようやく救助された男は病院に行くことに。

 けれど、体が丈夫だったせいで頭部をぶつけたこと以外、大した外傷も無く彼はすぐに家に帰された。

 男は約一日ぶりの食事を口にする。

 しかし。

 味がしないのだ。

 同じ食事を食べる母や妻は子は「美味しい。美味しい」と言いながら、食べ物を口に入れているのに噛んでも、舌ですり潰しても味がしない。

 疑問に思った男は、都会の病院に行き精密う検査を受けた。

 ――事故の際、頭を打ったのと発見が遅れた事とすぐに検査を受けなかったことが災いして、男の脳の一部神経は完全に切れてしまったのだ。

 打つ手は無く、男は生きがいを失ってしまった。

 けれども、諦めきれなかった男はある東洋医学の研究者を訪ねた。

 中国の裏社会ではそれなりに名が売れていた男は、男の話を聞きこれまでの医者と同じ様に「諦めろ」と告げる。

 針やツボだって、万能じゃない。出来ない事は出来ない。

 しつこく食い下がる男に、研究者は怒り研究室から追い出した。

 その後、研究者が街を歩いていると男の姿を見かけた。

 男は市場で麺を啜っていたのだ。

 まさかと思い、研究者は男を観察した。すると、男が時折丼の中に何かを入れているのに気が付いた。

 それは……唐辛子の粉末。

 人間の味覚は、甘味・苦味・塩味・酸味・うま味の五つ。それは、舌にある味蕾みらいと呼ばれる部位で感じるのだが……辛味は、舌でなく皮膚粘膜の「痛覚」を感じる部分で感じる。

 男は、五つの味覚を失ったが辛味だけは以前と同じように感じているのだ。

 普通の味が感じないから、辛い味に無理矢理する。

 唇を辛さで腫れさせてまで、味に固執する姿はとても哀れだった。

 何も感じない食事を取りたくない、味覚に執着するあまり異常とも呼べる行動を取る。

 それは研究者の心に強く印象付けられた。


「――。つまり、私ガ言いたいのハ……お前はワザと痛くしテ、忘れた痛みヲ感じようトしてるんジャないかって事ダ。……味を忘レタ、あの男の様にナ」


 年を取った東洋医学の研究者は、弓立の顔を見てそう言った。

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