溢れだす狂気
東京都港区。ある広告代理店のオフィス。
この代理店がブラック企業の烙印を押されてからも、企業体質が変わる事は無く黒さは増すばかりだった。
平社員が目の下にクマを作り、這う這うの体で出社しても上司は平気な面して仕事を押しつけてくる。
極限状態をとうに過ぎた空間では、平常時ならあり得ない事が起こるものだ。
――それは唐突に始まった。
パワーハラスメントが十八番の部長が、ある社員に膨大な量の仕事を押しつけた。
それまでは、よくある光景。
しかし。
「部長」
その社員が一言発したかと思えば、部長の腹にはコルト ローマン回転式拳銃の銃口が押し当てられていた。
「死ね」
引き金が引かれ、破裂音がオフィスに響く。
呆然と社員を眺める部長の頭に、社員は容赦なく357マグナム弾を撃ち込んだ。
そして、社員は引き笑いを浮かべ、自身のこめかみに銃口を当てて撃った。
一番近くで事を見ていた女性社員が悲鳴を挙げる。
凍り付いた空気が一気に溶け、人々は逃げ惑った。その弾みで
東京都三鷹市周辺。
結局、中学生にサブマシンガンを渡して以降の弓立の足取りは掴めず、立川に戻る事になった。
だが。
「検問?」
そこかしこで渋滞が起きていて、その発生源は各所に敷かれた警察の検問だった。
それに、先程からサイレンを鳴らしたパトカーや救急車とすれ違う回数が多い。
ただならぬ状況に唾を飲んだその時、携帯が鳴る。
『赤沼さん』
「矢上さんか。……どうした」
『今どこです?』
「三鷹の辺りだ。警察の検問に引っ掛かってる」
『……そうですか』
「なんだ?」
『ラジオ点けてください。SNSでもいいです。とにかく、情報を収集してください』
「……なんで」
『都内各所で発砲事案が多発しています』
「なっ……」
『昼の中学校の発砲事案から、通報が激増しているんです』
マリアにラジオを点けるよう頼み、少し耳を傾ける。
東京二十三区に留まらず、日本各地で発砲事案が多発している。上ずった声のアナウンサーが伝える内容が、俺には弓立の嘲笑に聞こえた。
『それから、警察庁からISSに治安維持協力の申し出が来ました。……これは、あくまで噂ですが都知事が防衛省に陸自の治安出動を要請したそうです』
「なっ……」
事態がどんどん大きくなっていく。
「……本当か?」
『“あくまで噂”ですよ。……でも、一般市民が銃を持っていては自衛隊でも、治安維持出来るか』
少し前に上映された、某怪獣映画で大杉漣演じる内閣総理大臣が「自衛隊の弾を国民に向ける訳にはいかない」と言っていたのを思い出す。
あれは逃げ遅れた地域住民で、これは武装した犯罪者だ。
論理的に説明すれば、こう筋が通るが感情というのは常に論理を無視する物。
国土を侵略する敵兵士に銃を向ける覚悟はあっても、同じ日本国民に銃口を向けられるか。
……少なくとも、俺が自衛官だったときは想像すらしていなかった。
俺が押し黙っていると、矢上は少し気まずそうに話題を変える。
『……良いニュースと言うべきかどうかは赤沼さんに任せますが、祖国の盾の決起の日が判明しました』
「……何日です?」
『今月の二十六日です』
今日が二十四日。もう、二日を切っている。
「……そりゃあ、良いニュースだ」
それとは別に思う事はあった。
「……もしかして、二・二六事件とかけてるのか」
『おそらく。……どうです“原隊ニ復帰セヨ”ってビラでも撒きますか?』
「それで戻った奴いたっけ……?」
車列が前の方から動き出した。
「とにかく、そっちに戻る」
『分かりました』
窓ガラスを警官が叩く。脇にぶら下げた拳銃を見て、顔を真っ青にする警官に対し俺とマリアはISSの身分証を見せるのだった。
東京都新宿区周辺。
弓立涼子は人気の無い裏通りを歩いていた。
みんなのうたのメトロポリタンミュージアムを、口ずさみながら。
黒いコートを着た彼女は、背後からの気配を感じ取り振り向いた。
そこには白い警察用の自転車を引いた、若い巡査がいた。
「すいません、ちょっとよろしいですか」
巡査は弓立に声を掛ける。
「身分を証明できるものとかあります? ここのところ物騒でしょう、所持品とかも見せてもらいたんですけど……」
「……構いませんよ」
彼女は微笑み、コートの内側に隠していたグロック26を抜き巡査を撃った。
巡査は自身の胸から溢れ出る鮮血と、痛みのせいで半ば正気を失っている。
更に隠し持っていたナイフで巡査の拳銃に繋がっていた紐を切り、それを奪った。ついでとばかりに警棒や手錠も奪う。
そして。
「これを機に、全警察官への防弾チョッキの着用が義務付けられるかもしれないですね」
そう言って微笑み、巡査の頭に九ミリパラベラム弾を撃ち込んだ。
戦利品をコートのポケットに仕舞い、二度軽く叩いて触感を確かめると。
先程と同じ様にメトロポリタンミュージアムを口ずさみながら、歩き出した。
すぐに黒いコートは闇に溶け、残された遺体だけがただそこに転がっていた。
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