殷武(引用49:殷中興の祖、武丁)

殷武いんぶ



撻彼殷武たつかいんぶ 奮伐荊楚ふんばつけいそ

冞入其阻びにゅうきそ 裒荊之旅ほうけいしりょ

有截有所ゆうせつゆうしょ 湯孫之緒とうそんししょ

 神速の軍を率いられる、高宗武丁。

 大いに楚の地方を討伐される。

 その険阻の地にまで分け入り、

 楚に連れ去られた民を奪還された。

 そうして当地を治められたのは、

 まさしく湯王の再来とも言うべき武。

 

維女荊楚いじょけいそ 居國南鄉きょこくなんきょう

昔有成湯せきゆうせいとう 自彼氐羌じかしきょう

莫敢不來享ばくかんふらいきょう 莫敢不來王ばくかんふらいおう

曰商是常えつしょうぜじょう

 武丁は仰った。

「荊楚の民は我が国の南方にある。

 昔、湯王の御代においては

 西方の蛮族、氐や羌が

 みなこぞって殷に貢ぎ物をした。

 来貢せぬものはおらなんだ、

 おらなんだのである。

 これこそが、常識なのである」


天命多辟てんめいたひ 設都于禹之績せつとううしせき

歲事來辟さいじらいひ

勿予禍適こつよかてき 稼穡匪解かしょくひかい

 天は多くの諸侯らに命じ、

 禹王が治水をなした地に

 夏の都をもうけさせた。

 そして季節の折々に来朝させた。

 天子は諸侯をあたら罰されることなく、

 ゆえに諸侯らは農務に励んだ。


天命降監てんめいこうかん 下民有嚴かみんゆうげん 

不僭不濫ふせんふらん 不敢怠遑ふかんたいこう 

命于下國めいうかこく 封建厥福ふうけんくつふく 

 時が降り、武丁の時代。

 やはり天命がくだされ、

 民を厳しく統治される。

 ただし報賞はきっちりとくだされ、

 無用な刑罰をなすこともない。

 ご自身も政務を怠け怠ることなく、

 諸侯らに命じ、

 その福徳を確立なされた。


商邑翼翼しょうゆうよくよく 四方之極しほうしきょく 

赫赫厥聲かくかくくつせい 濯濯厥靈たくたくくつれい 

壽考且寧じゅこうしゃねい 以保我後生いほがごせい 

 殷の都はいよいよ栄え、

 四方の地が規範の極みとする。

 王の声は天下に轟き、

 神霊の威厳はあまねく伝わる。

 武丁は長寿に恵まれ、

 また天下をよく安んじられた。

 その恩恵は、遠く子孫にまで及ぶ。


陟彼景山ちょくかけいさん 松柏丸丸しょうはくがんがん 

是斷是遷ぜだんぜせん 方斲是虔ほうたくぜけん 

松桷有梴しょうかくゆうてん 旅楹有閑りょえいゆうかん 

寢成孔安しんせいこうあん 

 都近くの景山に登れば、

 マツやカシワが青青と葉を伸ばす。

 これらの木を伐採し、都に持ち帰り、

 材木として形を整える。

 マツはたるきとして長く、

 数多なす柱は太く、大きい。

 新たな祖霊のための廟が完成した。

 武丁の霊も、さぞ安んじられよう。




○商頌 殷武

殷の武丁を讃える歌、とする。湯王を武王と呼称しておきつつ武丁が中興の祖として存在しおるとか、殷の王室は後世の人間に歴代王の名を覚えさせようとする気が無いのであろうか。しかしここまでざっと詩を読んできた上で申し上げれば、「お前らが荊楚にちょっかい出したから反撃食らったんだろ、それで逆襲受けたのを更に殴り返すとか蛮族じゃねーか」という印象にしかならぬ。




■おれの名は殷武


晋書37 司馬孚

陳留殷武有名於海內,嘗罹罪譴,孚往省之,遂與同處分食,談者稱焉。


司馬懿の弟、司馬孚が、当時無実の罪に問われていた有名人、殷武とあえて飲食を共にしたというエピソードであるが、しかし殷武の父は、よくもまぁこの名を息子に対して与えたものであるな。絶対に武丁に引っかけての命名であったろう。




■殷高宗・武丁

殷は湯王の建立後、中宗大戊、高宗武丁の二人の中興の祖を迎えておる。そのうちの後者が、ここで盛大に歌われるわけであるが、ご覧の通り大人気である。しかしここまで大きく扱われるのであるから、その妻であった婦好も少しは存在を匂わせてくれてもよいのではないかな。まぁ、そういった感覚はすでに婦好の存在を知っている時代(1976年に墓が見つかるまで余り知られておらず、ましていわゆる伝世資料には一切存在が載せられていない)に生きているからこそ抱くものではあろうがな。


・史記2 夏

 祝融之後封於豕韋,殷武丁滅之,以劉累之後代之

・史記3 殷

 帝小乙崩,子帝武丁立。

・史記4 周武王

 紂都朝歌在衞州東北七十三里朝歌故城是也。本妹邑,殷王武丁始都之。

・史記13 三代世表

 帝武丁。雉升鼎耳雊。得傅說。稱高宗。

・史記28 封禅書

 帝武丁得傅說為相,殷復興焉,稱高宗。有雉登鼎耳雊,武丁懼。祖己曰:「修德。」武丁從之,位以永寧。

・史記33 周公旦

 其在高宗,久勞于外,為與小人,作其即位,乃有亮闇,三年不言,言乃讙,不敢荒寧,密靖殷國,至于小大無怨,故高宗饗國五十五年。

・史記34 召公奭

 在武丁時,則有若甘般:率維茲有陳,保乂有殷

・史記84 賈誼

 傅說胥靡兮,乃相武丁。夫禍之與福兮,何異糾纆。

・史記130 自序

 維契作商,爰及成湯;太甲居桐,德盛阿衡;武丁得說,乃稱高宗;帝辛湛湎,諸侯不享。


・漢書25.1 郊祀

 後十三世,帝武丁得傅說為相,殷復興焉,稱高宗。有雉登鼎耳而雊,武丁懼。祖己曰:「修德。」武丁從之,位以永寧。

・漢書20 古今人表

 上中仁人 武丁(小乙子。)傅說(武丁相也。)甘盤(武丁師也。)

・漢書22 礼楽

 武丁、成王,殷、周之大仁也,然地東不過江、黃,西不過氐、羌,南不過蠻荊,北不過朔方。

 願與大臣延及儒生,述舊禮,明王制,驅一世之民,濟之仁壽之域,則俗何以不若成康?壽何以不若高宗?

 乃及成湯、文、武受命,武丁、成、康、宣王中興,下及輔佐阿衡、周、召、太公、申伯、召虎、仲山甫之屬,君臣男女有功德者,靡不襃揚。

・漢書27 五行

 劉向以為殷道既衰,高宗承敝而起,盡涼陰之哀,天下應之,既獲顯榮,怠於政事,國將危亡,故桑穀之異見。

 野木生朝,野鳥入廟,敗亡之異也。武丁恐駭,謀於忠賢,修德而正事,內舉傅說,授以國政,外伐鬼方,以安諸夏,故能攘木鳥之妖,致百年之壽

 如人君有賢明之材,畏天威命,若高宗謀祖己,成王泣金縢,

・漢書30 芸文

 桑穀共生,大戊以興;鴝雉登鼎,武丁為宗。

・漢書48 賈誼

 桑穀共生,大戊以興;鴝雉登鼎,武丁為宗。

・漢書64.2 賈捐之

 武丁、成王,殷、周之大仁也,然地東不過江、黃,西不過氐、羌,南不過蠻荊,北不過朔方。


・後漢書10 和熹鄧皇后

 高宗成王有雉雊迅風之變,而無中興康寧之功也。

・後漢書28.2 馮衍下

 務光者,夏時人也。殷湯伐桀,因光而謀,光曰:『非吾事也。』至殷武丁時,武丁欲以為相,光不從,遂投於梁山。

・後漢書30.2 郎顗

 今陛下聖德中興,宜遵前典,惟節惟約,天下幸甚。易曰:「天道無親,常與善人。」是故高宗以享福,宋景以延年。

・後漢書46 陳寵 子 陳忠

 今明詔崇高宗之德,推宋景之誠,引咎克躬,諮訪羣吏。

・後漢書57 劉陶

 臣又聞危非仁不扶,亂非智不救,故武丁得傅說,以消鼎雉之災,周宣用申、甫,以濟夷、厲之荒。

・後漢書58 蓋勳

 昔武丁之明,猶求箴諫,況如卿者,而欲杜人之口乎?

・後漢書80.1 傅毅

 武丁興商,伊宗皇士。爰作股肱,萬邦是紀。


・三國志25 高堂隆

 昔太戊有桑穀生於朝,武丁有雊雉登於鼎,皆聞災恐懼,側身脩德,三年之後,遠夷朝貢,故號曰中宗、高宗。

 太戊、武丁,覩災竦懼,祗承天戒,故其興也勃焉。

・三國志29 管輅

 昔高宗之鼎,非雉所鴝,殷之階庭,非木所生,而野鳥一鴝,武丁為高宗,桑穀暫生,太戊以興焉。


・晋書20 礼中

・宋書15 礼二

 陛下既以俯遵漢魏降喪之典,以濟時務,而躬蹈大孝,情過乎哀,素冠深衣,降席撤膳,雖武丁行之於殷世,曾閔履之於布衣,未足以踰。

・晋書68 紀瞻

 武丁擢傅巖之徒,周文攜渭濱之士,居之上司,委之國政,故能龍奮天衢,垂勳百代。

・晋書72 郭璞

 木不生庭,太戊無以隆;雉不鳴鼎,武丁不為宗。


・魏書67 崔光

 桑穀拱庭,太戊以昌;雊雉集鼎,武丁用熙。

・魏書91 張淵

 傅說,殷時隱於巖中,殷王武丁夢得賢人,圖畫其象,求而得之,即立為相。死,精上為星。


・世説 言語8

 禰衡被魏武謫為鼓吏,正月半試鼓。衡揚枹為漁陽摻撾,淵淵有金石聲,四坐為之改容。孔融曰:「禰衡罪同胥靡,不能發明王之夢。」魏武慚而赦之。




■なぜ民が安らぐのか

民が安らぎを得るのは、君主が君主の分を全うして施政をなすがゆえである、とする。そして、臣下は臣下の職分を全うし、決して怠惰となることなく勤め上げることで、国に幸福が下されるとする。よって、「この逆の状態」の時にあえて諫言としてこれらの句が用いられることも多いようである。


・左伝 襄公26

 商頌有之曰。不僭不濫。不敢怠皇。命于下國。封建厥福。此湯所以獲天福也。

・左伝 哀公5-10

 詩曰:「不解于位,民之攸塈。」不守其位,而能久者鮮矣。商頌曰:「不僭不濫,不敢怠皇,命以多福。」

・後漢書61 黄瓊

 雖詩詠成湯之不怠遑,書美文王之不暇食,誠不能加。

・三國志2 曹丕 注

 舜禪於文祖,至漢氏,以師征受命,畏天之威,不敢怠遑,便即位行在所之地。




■殷の武威盛んなるを

翼々については小心翼々とでだいぶ意味合いが変わってきそうな印象もある。こちらでは「偉大なる鳥が雄々しく飛ぶさま」がイメージとしてついて回るであろうか。武丁期の殷が、どれほど雄飛しているイメージであったかを示しておるようである。


・漢書81 匡衡

『詩』曰:「商邑翼翼,四方之極;壽考且寧,以保我後生」此成湯所以建至治,保子孫,化異俗而懷鬼方也。

・漢書99.1 王莽上

 是以殷有翼翼之化,周有刑錯之功。


・後漢書40.2 班固下

 然後增周舊,修洛邑,翩翩巍巍,顯顯翼翼,光漢京于諸夏,總八方而為之極。

・後漢書49 王符

 今舉俗舍本農,趨商賈,牛馬車輿,填塞道路,游手為巧,充盈都邑,務本者少,浮食者眾。「商邑翼翼,四方是極。」

・後漢書54 楊震

 欲令遠近咸知政化之清流,商邑之翼翼也。



■氐と羌と言えば

五胡十六国時代、東晋を建康に追いやった勢力たちが、五胡。匈奴鮮卑羯、そして、氐と羌。詩経にすでに名前が見えるとは、ずいぶんとまた由緒正しき名とも言えようが、逆に言えば「そのくらいの昔から西方の住民らに対する認識をろくに改めようともしなかった」用にも見えてならぬ。さすがにこの当時と東晋時代の氐羌は全く別の血統であろう。


・後漢書87 羌無弋爰剣

 至于武丁,征西戎、鬼方,三年乃克。故其詩曰:「自彼氐羌,莫敢不來王。」

・魏書101 氐

 氐者,西夷之別種,號曰白馬。三代之際,蓋自有君長,而世一朝見,故詩稱「自彼氐羌,莫敢不來王」也。




毛詩正義

https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E4%BA%8C%E5%8D%81#%E3%80%8A%E6%AE%B7%E6%AD%A6%E3%80%8B



ひとまず、以上で全311首の紹介が終了である。ただし途中から始めた「引用句紹介」の形式が大雅突入でようやく固まったため、小雅以前を一度見直さねばならぬ。現在その準備を進めており、また進捗については「前口上」にて報告させて頂く。跋文、いわゆる編集後記については、全首引用の掲載が終了した後に更新、それをもって当作完結とさせて頂く予定である。


それでは、また。

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