十月之交(引用3:乱政批判)

十月之交じゅうげつしこう



十月之交じゅうがつしこう 朔日辛卯さくじつしんう

日有食之にちゆうしょくし 亦孔之醜えきこうししゅう

彼月而微かじつしび 此日而微しじつしび

今此下民こんしかみん 亦孔之哀えきこうしあい

 十月一日、日食があった。

 何とも恐ろしきこと。

 かの月が欠け切った時に、

 太陽を欠けさせてしまうとは。

 人々も、いたく悲しんでいた。


日月告凶じつげつこくきょう 不用其行ふようきこう

四國無政しこくむせい 不用其良ふようきりょう

彼月而食かじつじしょく 則維其常そくいきじょう

此日而食しじつじしょく 于何不臧うかふぞう

 太陽も月も世の凶を告げるため、

 常の運航から外れている。

 各地でも政が滞り、

 よきものが用いられていない。

 月の満ち欠け、これはいつもあること。

 しかし太陽が欠けるのは、

 何か良からぬことの兆しではないか。


㷸㷸震電ようようしんでん 不寧不令ふねいふれい

百川沸騰しゃくせんふっとう 山冢崒崩さんちょうそつほう

高岸為谷こうがんいこく 深谷為陵しんこくいりょう

哀今之人あいこんしじん 胡憯莫懲こせんばくちょう

 雷が激しくとどろく。

 人々の心は平らかならず、

 政令も行き届かぬ。

 川と言う川が沸き立ち、

 山と言う山が崩落する。

 高い岸は崩れて谷となり、

 逆に深い谷は崩れて丘となった。

 天地が警鐘を鳴らしているというに、

 悲しきかな、今の人々はその悪事を

 改めようとも思わぬのだ。


皇父卿士こうふけいし 番維司徒ばんいしと

家伯維宰ははくいさい 仲允膳夫ちゅういんぜんふ

棸子內史すうしないし 蹶維趣馬けいいしゅば

楀維師氏くいしし 豔妻煽方處えんさいせんおうしょ

 皇父は公卿として、番氏は司徒、

 家伯は宰相、仲允は王の食事を司り、

 棸子は文書を司り、蹶氏は王の馬を、

 楀氏は軍事を握り、好き放題をする。

 そして、かの褒姒。

 その権勢は火をあおるが如し。


抑此皇父よくひこうふ 豈曰不時がいえつふじ

胡為我作こいがさく 不即我謀ふそくがぼう

徹我牆屋てつがしょうおく 田卒汙萊でんそつおらい

曰予不戕えつよふしょう 禮則然矣れいそくぜんいー

 皇父は無謀な遷都をやめはすまい。

 私を労役に駆り出すにあたり、

 私への諮問をなすこともなかった。

 我があばら家は撤去され、

 田畑は無残に荒れた。

 それでも、奴は言うのだ。

 私は民を損なっていない、

 すべては礼に基づくものである、と。


皇父孔聖こうふこうせい 作都于向さくとうこう

擇三有事らくさんゆうじ 亶侯多藏だんこうたぞう

不憖遺一老ふぎんいいちろう 俾守我王ひしゅがおう

擇有車馬たくゆうしゃば 以居徂向じきょそこう

 皇父は己を

 神か何かとでも思っているのか。

 向の地に都を移し、

 いわゆる三公には賢人を選ばず、

 己に追従し、富んだものを選ぶ。

 強いて一人の宿老を選び出して、

 王を守ろう、という振りすらしない。

 そして自らの子飼いばかりを連れ、

 向の地に向かうのだ。


黽勉從事びんべんじゅうじ 不敢告勞ふかんこくろう

無罪無辜むざいむこ 讒口囂囂ざんこうごうごう

下民之孽かみんしげつ 匪降自天ひこうじてん

噂沓背憎そんとうはいぞう 職競由人しょくきょうゆじん

 私たちは苦労を口にすることもなく、

 あえて務めに従った。

 しかし罪なき我々に対し、

 向けられるのは非難の声。

 あぁ、まこと、下々の苦難とは、

 天より下されるものではない。

 面従背反をしでかすような輩が、

 こぞって引き起こすものなのだ。


悠悠我里ゆうゆうがり 亦孔之痗えきこうしばい

四方有羨しほうゆうせん 我獨居憂がどくきょゆう

民莫不逸みんばくふいつ 我獨不敢休どくがふかんきゅう

天命不徹てんめいふてつ 我不敢傚我友自逸がふかんこうがゆうじいつ

 広々とした天下を眺め、

 我が心は憂いにさいなまれる。

 四方には富を享受している者がいる中、

 ひとり憂悶のさなかにある。

 民は安逸に浸る者も多いが、

 私が心安らうことはない。

 いつまでも降らぬ天命を前に、

 友は世捨て人のごとく振る舞い始める。

 しかし、それでも私は正道を貫きたい。




○小雅 十月之交


今更であるが、この辺りの詩は「変雅」と呼ばれておるそうである。つまり国風が正風変風に分類されていたのと同じく、雅も正雅変雅と分けられていた、と言うことである。それにしても当詩は乱れゆく世の中にあって、それでもなお凛と立っていたい、という決意がうかがえるかのようであるな。




■山は谷に、谷は丘に


晋書34 杜預

預好爲後世名、常言「高岸爲谷、深谷爲陵」,刻石為二碑,紀其勳績,一沈萬山之下,一立峴山之上,曰:「焉知此後不為陵谷乎!」


のちに征呉で抜群の功を挙げることとなる名将杜預は、後世に名を残したいと思っていた。常に口にしていたのが、当詩の「高い崖は谷となり、深い谷は陵となる」。どこでどんな逆転があるかもわからぬ、としたのであろうか。ともあれ自らが成し遂げた功績を刻んだ石碑を、ひとつを谷底に、ひとつを山の頂上に設置したという。「いつかここが谷底になるかもしれんな!」と言ったそうであるが、とらえようによっては天下が千々に乱れる予言ともなろうに。恐ろしいことを言っておるな。




■十月の交


魏書108-1 礼1

常以九月、十月之交,帝親祭,牲用馬、牛、羊,及親行貙劉之禮。


九月と十月が交わる、ゆえに「十月の交」となるそうである。いわば秋と冬との境目ともなり、北魏ではこのタイミングで皇帝自らが祭礼をなすのだそうである。




■何か言ってる事おかしくね?


魏書43 房法寿 族子房景先

問毛詩,「十月之交,朔日辛卯,日有食之,亦孔之醜」曰:日月次周,行舍有常,分至之候,不為愆咎。今同之辰而為深戾者,專以金木相殘,指日成釁。推步不一,容可如之。若謫見正陽,日維戊午,生育相因,猶子歸母,但以陰陽得無深忌乎?若為忌也,朔亦應為災;如不忌也,辛卯豈獨成醜?且舉凡之始,以屬月時,繫之在日,有爽明例。義不妄構,理用何依?


房景先は江南から亡命した劉昶、蔣少游、王騎、崔休、劉芳、霍光、袁式らとともに、北魏の典章制度を整備していった人物とされる。その彼が著した中に「五経疑問」というものがあり、上記はその一節である。よくわからぬのだが、何となく日食は天の運行上どうしても発生するんだからそれに対して吉兆とか凶兆とか言っても仕方なくね? 的に語っておるようにも見える。




毛詩正義

https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E5%8D%81%E4%BA%8C#%E3%80%8A%E5%8D%81%E6%9C%88%E4%B9%8B%E4%BA%A4%E3%80%8B

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