第5話神崎夏憐という彼女。
神崎 夏憐は、文武両道、容姿端麗、謹厳実直という優等生を絵に書いたような女性だった。
その褒め称える言葉も彼女のためにあると言っても差し支えない程に『完璧』であり、まさに全てを極め持っている女性と言えるだろう。
しかし、彼女は持ってる人ならではの「苦悩」あるいは「葛藤」を抱いていたに違いない。
それは自分だけでなく、両親からの期待があったかもしれない。或いは周囲からの憧れだったかもしれない。なんにせよ、自分ではどうしようも無いことから逃げたかったのだろう。
彼女は高校2年の冬のある日を境に失踪した。否、存在を消したという言葉の方がより正確だろう。
無論、失踪届けを両親は出しただろうが、なんの痕跡もなくその身一つで消えて見せたのである。
こと失踪に関しても、彼女はその優等生ぶりを大いに発揮したといえる。
俺と彼女の関係を語れば、何のことは無い至って普通のクラスメイトといって差し支えないだろう。(過去も今も未来も。)
彼女との関わった思い出は、その大半、軽い挨拶や日直が重なったときの業務連絡のようなことをしたのみである。
しかし、俺は彼女と何もなかったと言えば嘘になるだろう。
高校2年生の冬。
妹の事件以来、俺は学校にも行かず近場の煙草の自動販売機でアメスピを買い、ダラダラとした階段をを登り、東國山神社で一服していた。
ここ東國町にある丘とも山ともとれる
だが、この神社は普段清掃もされず誰も来ないおまけに東國町全体を見渡せるという個人的には最高の隠れスポットになっている。
その鳥居から伸びる階段に腰を下ろし、街を見下ろしながら吸う煙草は格別と言っていい。
タールの重苦しい空気が自分を取り囲むように、ずっしり漂う。それも数秒後には、鳥居から吹き抜ける風が邪を祓うかのように霧散していく。
肌寒い空気が肌をちくりと刺す。それはこれから来る冬本番を予感しているようにも思える。
そんな事を予感させる風は、ふわっとした春の香りをもってくる。
その匂いにつられて、そちらへ目を向ける。
「…神崎。」
どこまでも真っ直ぐ長いストレートの綺麗な黒髪を手で抑えて、風に煽られて崩れないようにしている彼女は俺を見つめる。
そのあまりにも美しい姿に硬直していると彼女はゆっくりと口を開く。
「隣、座ってもいいかしら。」
そう言うと、俺の応えを待たずに肌が少し触れ合うような距離に腰を下ろした。
「それ、私にも貰っていい。」
彼女が視線だけをそれに向ける。
その視線の先に視線を向けると、どうやら彼女は俺の右手で遊ばれている煙草を見つめていた。
「体に悪いぞ。」
とは言いつつ、ポケットからアメスピを取り出す。
「いいの。そういう気分なんだから。」
ライターが灯り、彼女の顔がうっすら暖かみを帯びているように見える。彼女の白い肌と対照的でそこだけ1枚の絵のようになった。
彼女との会話はない。
彼女はその目に刻み込むように街の様子をただただ見つめていた。
お互いの擦れる肌が彼女に温もりがあることを俺に教えてくれる。それはまだ程遠い春の温もりに似ているような気がした。
「…何も言わないんだね。」
彼女は街から視線を逸らすことなく、独り言のように呟く。
「俺がそうだからな。」
「…そう。」
返答になっていない言葉に、相槌を打つ。
そんな時間を過ごしていると、きっと彼女と俺はよく似ていると自然と思った。
日は傾きつつある。
オレンジが街を覆って、空は緩やかに
時間を感じさせないほど、隣にいる彼女との居心地は良かった。
ふいに彼女は立つ。
「もう行かなきゃ。これ、煙草のお礼。」
差し出されたのは丁寧に四つ折りにされている紙切れだった。
俺は疑問に思って彼女を見上げる。
「…何これ?」
「内緒。いつか、君が君を許せたら開いてみて。」
彼女の言葉は終始噛み合っていない。
しかし、それでもいいと自分で思えてしまうのが不思議だ。
「分かった。」
彼女から、その紙を受け取り制服の内ポケットにしまい込む。
彼女は微笑し、暗がりで見えにくくなっている階段を踏み外さないように、踏みしめるようにゆっくりと下りる。
彼女の甘い香りが風に乗って、俺の鼻を擽った。
―――その日以降、彼女の香りはもうしない。
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