第九章 陛下の御璽
「ありがとう」
韓孺子は女官に言った。彼は当面それ以上の望みはないが、話し相手が欲しかった。十歩の内を少しマシな環境に作り変えれば、皇宮の生活が少しでも楽になるだろうと願った。
「必要がない……もし本当に礼を言いたいのなら、無理やり話題を作らないでほしい、随分と皆を怖がらせた」
孟娥の言葉は異常に冷たく、皇帝に対してだけでなく、他の宦官や女官たちに対してもそうだった。
彼女は太后の
「だから、誰にでも話しかけているんだ。誰かひとりに迷惑をかけないようにね。それに、いつもだまっていると、僕は……気が狂ってしまうんだ」
「宮中には口数の少ない者が多いし、気が狂った者を見たこともない」
「だったら、今の僕たちみたいに内緒話をしている人間がいるはずだ」
孟娥はそれ以上話をつづけることを拒んだ。
目を閉じて安らかな眠りについた韓孺子は、自分の母親の夢を見た。
それからの数日間は何事もなく、演礼と
成功元年の三月十八日——恒例に従いその年の残りの日は先帝の年号を使う——韓孺子は正式に即位することになっていた。彼はこの日もっとも注目される人物だが、そんなことは自分には関係のないことのような気がしてならなかった。
太祖が残した冠をかぶり、彼のために特別に作られた
韓孺子は本当に自分のことを気にかけてくれている視線が見当たらず、朝廷の
彼はなるべく何も考えないようにして、おとなしく言うことを聞く操り人形のようにして、貴族の従者の群れにいる東海王の
大臣たちが爵位や官位の高低によって次々に新皇帝を朝拝し、司礼官が
衝動がすぐに過ぎ去り、韓孺子は依然として人形のように居心地の悪い玉座に腰を下ろしたまま、武将は文臣と変わらず、本物の
即位の儀式は長く退屈なものであったが、
宮中に入ってから二十日近くになるが、彼は依然として「母后」の正体を見たことはなかった。
彼の予想に反し、またすべての人の予想にも反して、最初の御前議政は
韓孺子の祖父の武帝は晩年、
いずれにしても平凡な皇子は
桓帝在位のわずか三年間に、さまざまな大きな変動があり、五人の大臣がそれにつづき、脱落することなく勤政殿にとどまって、大楚の中核的な権力を握っていた。
韓孺子が即位すると、勤政殿は少し変わり、五人の
この日は新帝が正式に即位した初日で、彼が処理しなければならないことは少なくなかった。亡くなった皇兄のための
しかし、これらことは韓孺子にはあまり関係のないことで、彼はただ象徴的に顔を見せに来ただけで、五人の重臣の顔もよく覚えていないうちに、
「陛下はお疲れになり、宮中にお戻りになってお休みになりますが、
韓孺子はまだ温まっていない椅子を降り、楊奉ら宦官の一隊に守られながら勤政殿を後にし、奥深い内宮に向かった。二度と囚われの身を離れる機会はないと思ったが、その機会は彼の歩みよりも早くやってきた。
二つの門を通り過ぎて、振り返ればまだ同玄殿の屋根が見えるところ、後ろから急ぎ足の宦官景耀が息を切らしながら駆けてきて、誰もが驚くような言葉を口にした。
「陛下には
韓孺子はこの予想外の出来事にどうしたらいいのか分からず思わず楊奉を振り向いたが、すぐにほぼ全員の視線が楊奉に集中していることに気づいた。まるで彼があらかじめこうなるように準備しておいたかのようだった。とくに景耀は目つきが険悪なので、そのまま罪を宣告しそうな勢いだった。
楊奉は落ち着いているように見えることが一同の疑いをいっそう深めた。
「これは太后のご命令でしょうか」
「もちろんです」
景耀は愕然とした。
楊奉は手を伸ばした。
「
景耀はさらに驚いた。
「お前、お前……」
「お許しを、規則ですので」
楊奉は言った。
景耀が真っ赤になって足を踏み鳴らして勤政殿に戻ろうとすると、また一人の宦官が息を切らして駆け寄ってきた。左吉は一枚の紙を両手に楊奉の前に差し出した。
「太后令旨はここに」
楊奉はそれを両手で受け取ると、一度開いて見て頷きました。
「間違いございません。陛下はどうか
韓孺子はこの半日の間にずいぶん歩きまわったので、足が疲れですこし痺れて、いままで食事もろくに口にしていなかったが、それでも少し興奮してそのまま
左吉は額の汗を
「やっぱり太后は楊公のことをよく知っていらっしゃる。太后は楊公が
景耀は楊奉を一瞥して心の中の憎しみはいっそう深くなった。
勤政殿の中は静まり返っていた。五人の重臣は何か相談していると誤解されるのを恐れてバラバラに立った。ぞれぞれでばつの悪そうな表情をしていたが、殿中の書記官は姿を消していた。太后の聴政閣の前に立っている宦官の二人は、まるで敵でも見ているような顔をしていた。
壁の柱に寄りかかって立っている人物は明らかに宦官と思われる服装をした四十歳前後の男であったが、その顔には場違いな怒りの表情が浮かんでいた。開いた箱を抱えていて、片足を前に、片足を後ろに、ぶつかりそうな勢いで立っていた。
あまりにも異様な光景だったので、韓孺子は帰り道にいろいろ考えてみたが、まさかこんなことになっているとは思わなかった。
楊奉も呆然としていた。
五人の重臣はいずれも武帝の特権を持っており、勤政殿で跪拝の礼をする必要はなかったが、上官虚だけは例外であった。彼は初めて
十三歳の少年皇帝は、部屋のなかでもっとも高い人のひとりとなって、茫然としていたが、礼部官員から教えられた作法はすべて使いものにならず、立ったまま誰かが話しかけてくれるのを待った。
楊奉は身を起こして言った。
「
劉介という名の宦官は、片膝をついたまま、両手に箱を持って死をも恐れない様子で叫んだ。
「陛下に
韓孺子は助けを求めるような眼差しを楊奉に向けた。劉介のことを少しばかり覚えていた。演礼にはこの宦官は毎回欠かさずやってきて、皇帝の大勢の侍従のひとりで、口をきいたこともなければ、紹介されたこともなかった。韓孺子はこの男の職務が何であるかを知らなかった。
楊奉の視線は半周して、最後に宰相の殷無害に落とした。
「殷殿、これはいったいどういうことですか」
殷無害は苦笑し、何度も
「楊公は宰相殿にお訊ねになるまでもなく、これはすべてこの劉某ひとりの
劉介のまなざしは非難に満ちていた。
「劉某は
誰も反応しようとはしなかったが、韓孺子の胸は熱くなった。皇帝は単なる無関心の
それでも彼は口をきかなかったのは、本能で今の状況が微妙で危険だと知っていたからであり、自分が
「劉介、陛下がおいでになったのに、まだ宝璽を渡さないのですか。今日は陛下のご即位の日、そんな勝手は一族破滅の大罪ですぞ!」
「
劉介は、皇帝を見やってから頷いて、声を落とした。
「
「陛下……どうぞ……ご
宰相殷無害は諸官の長である以上、ひとこと言っておかねばならないが、その声はこの上ないほどうやむやだった。
韓孺子はそれでも動かず、太后の聴政閣の方角を見てから、傍らに立っている楊奉に目をやった。
楊奉は身をかがめて皇帝の左肘を軽く支え、低い声でささやいた。
「陛下、どうぞご受璽を」
楊奉の目には含みがあったが、このような場合ではどうしても言えないことがあった。
韓孺子は足を踏み出し、楊奉はその場に残して、再び跪いてついてこなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます