第一章 進宮

 韓孺子は眠りから揺り起こされ、慣れた匂いを嗅ぎ、目を開けずにうんと怠い返事をした。

 「起きて、孺子、私たち、もう帰るよ」

 仙楽せんがくのような母の声に、韓孺子は無理して重いまぶたを持ち上げた。ぼんやりした明かりの中で、興奮と緊張の入り混じった母の顔が見えた。

 「お母さん……」

 「神仏のご加護があって、私たちはやっと帰れることになったのよ」

 母親は感激のあまり声を震わせて繰り返した。

 「どこに帰るの?」

 韓孺子はゆっくりと身を起こしたが、やはり状況は分からなかった。

 「皇宮に帰るの。お前が皇帝になるのよ」

 韓孺子は目をこすりながら、ようやく我に返ったように目を覚ました。

 「僕は帰りたくない。皇帝にもなりたくない」

 母親は息子の腕をつかんだ。

 「こんな意気地なしなことを言わないの。絶対にだめ。分かった?お前にはまだ長い道のりがあるの。たくさんの人が道を塞いでいようと、お前は……」

 母はどう言っていいか分からなかった。息子は十三歳になったばかりで、世間知らずで、大人の言葉を誤解しがちだった。

 「皇位はもともとお前のものなのよ」

 母は優しく言った。

 「武帝はお前の祖父で、お前のことを気に入って、自らお前に名前を付けたのよ。早くお亡くなりになったのでなければ、きっとお前を皇太孫に命じたでしょう」

 韓孺子は頷いた。母親はよくそんな話をしてくれたが、正直なところ、祖父の顔は覚えていなかった。彼はすばやく服を着て帽子をかぶり、母親と一緒に部屋を出た。

 外は暗く寒かった。庭には大勢の人が影を落として立っていた。明かりをつける人はいなかった。母親は息子を前に押し出し、高慢な口調で言った。

 「これが武帝の孫、桓帝の子よ」

 庭の人影が一斉に膝まずった。韓孺子は緊張したが、後ろに下がらなかった。彼は母親を失望させたくなかった。

 一番近くにいた人影が立ち上がり、近づいてくると同時に、冷たい風が吹いてきた。韓孺子はこの冷たさを妙に印象に強く残って、何年経っても忘れることができなかった。

 「私は中常侍ちゅうじょうじ楊奉ようほうです。皇子を宮中に迎えに来ました」

 中常侍の不遜さを察した母親は、さらに冷たい口調で言い返した。

 「たったの中常侍なのか?」

 楊奉は頷き、腰を少しかがめて、韓孺子に言った。

 「どうぞお乗りください」

 韓孺子は振り向いて母親を見ると、夜の闇に母の颜が氷に覆われたように見えた。

 「私たち親子は皇宮から追い出されたのです。こんないい加減な形で帰れません」

 楊奉は腰をさらに深く曲げ、気に留めずに笑みを浮かべた。

 「王美人、老奴ろうどはただ命令に従って行動しています。それに——宮中のもう一組の人たちはいま東海王を迎える途中です。多く言わずとも王美人は一刻も早く宮廷に戻ることがどれほど大事かご存じでしょう」

 王美人はすぐに納得した。一歩前に進み、息子のそばに立った。

 「分かったわ。すぐ出発しましょう」

 楊奉は動かず、彼の後ろにいる多くの人影も動かなかった。

 「私たち親子の命は楊公の手に握られています。楊公は言いたいことがあれば言ってください」

 王美人の口調は意外に柔らかくなった。

 「私が受けた命令は皇子を一人で連れて皇宮に入ることです」

 王美人は表情を急変したが、今回は問い返さず怒りもせず、息子を目の前の人にゆっくりと押しやった。

 韓孺子は驚いて振り返った。

 「お母さん、僕は……」

 「聞いて」

 王美人の声は低いが、疑い余地がなかった。

 「お前は先に皇宮に入って、それから……それから……私を迎えに来てください」

 王美人は息子の耳元に口を寄せ、もっと低い声で言った。

 「よく覚えて。自分以外の誰も信じないで、誰にも恨みを買わないで」

 韓孺子は恐ろしくなった。彼は母の後押しで思わず前に向かって、向こうからも一つの腕が伸ばしてきて彼を受け取った。そして人々が押し寄せて黒い雲のように彼を包み込んだ。この時から、韓孺子はほとんど意識を失なった。自分がどうやって家を出て馬車に乗ったのかも覚えてなかった。車両は周囲に板で囲まれておらず、天蓋てんがいだけのものだった。彼はまだ母がついてくるような気がして、何度も振り返ってみるが、見えたのは見知らぬ十数人の騎士たちだけだった。二ブロックほど道を進み、彼はようやく自分が母親に別れも告げなかったことを思い出した。

 「またすぐ会えます」

 韓孺子は心でそう思い、ついつい口にした。

 京の夜は静かだった。街路に響く馬のひづめの音がやけに大きく聞こえた。そばに座っていた楊奉は韓孺子の呟きを聞き、振り返って優しく声を掛けた。

 「子供のころの皇子を見たことがあります」

 韓孺子は黙って返事をしなかった。

 「皇子は今年で……十二歳ですか」

 「十三」

 馬車の走りがあまりにも速く、韓孺子は体がふわふわして空っぽになった気がして、それでもしっかりと座って居られるのは意外だった。

 楊奉は少年をじっと見つめた。彼はできるだけ早くこの皇子の価値を見極めなければならなかった。

 「君は幼く見えます」

 韓孺子は同年代の子供たちと比べて小柄ではなく、子供っぽく見えるのは彼の表情だった。犬小屋に落ちた子猫のように茫然として、たくさんの見知らぬ顔と匂いに途方に暮れていた。

 「皇子はめったに家を出ないでしょう」

 楊奉は思い出した。恒帝が太子だった時、王美人はあまり寵愛されず、息子と一緒に奥まった離れに住んでいた。太子が即位した後、親子が皇宮に入ってもやはり冷遇され、わずか一ヶ月後、「皇子は年が大きくなり、宮内に長く居るのは望ましくない」という理由で、皇宮から送り出された。

 いずれにしても、いくら寵愛されない皇子でも十五歳までには王位を与えられるのは楚の先祖の慣例で、領地は辺鄙なところになるだろうが、結局は一方の諸侯だ。王美人も王太后になり、皇宮の監視や嫉妬から遠ざかる。

 楊奉は突然彼をすこし不憫に思った。隣に座っている少年はまるで小さい羊のようで、他に素晴らしい将来があるはずだが、今は自分の手によって狼の群れに連れて行かれようとした。

 「いつになったら……母を宮中に迎え入れることができるの?」

 韓孺子が小声で尋ねた。

 楊奉はひそかに自分の一時いちじ的な軟弱を嘲笑った。

 「君が勅令を出せる時です」

 「じゃあ、どれぐらい待てばいいの」

 韓孺子は続けて聞いた。

 楊奉は少し沈黙して、一語ずつ区切るように言った。

 「

 韓孺子は宦官の言葉の深い意味が理解できなかったが、相手の表情と口調から冷たさを取ったのか、口を閉じた。彼は皇子だが、これまで人より偉いと感じたことが一度もなかった。

 楊奉は立ち上がって、前列の御者に向かって大声で言った。

 「前を右に曲がって、蓬莱門を行け」

 「楊公、蓬莱門の方は遠いよ……」

 御者は意外に思い、急ぐ楊常侍がなぜ遠回りにするかを分からなかった。

 「道を見ろ!」

 楊奉は御者の背中をどんと叩き、元の位置に座りなおすと、背後の従者たちに向かって手を振った。

 御者はそれ以上疑問を口にすることができず、辻を曲がって皇宮の北東にある蓬莱門に向かった。後続の宦官十数人は二手に分かれ、一組は馬車に追い、もう一組は東青門に向かって前進した。

 天辺てっぺんが微かに明るくなりかけ、車夫は慌てて「楊公」と叫んだ。

 前方の通りに兵士の一隊が道を塞いでいた。

 楊奉は突然立ち上がり、夜の闇の中に兵士たちの素性がよく見えなかった。楊奉は両手を車夫の肩に押して、命令を出した。

 「速く走れ。誰も内宮の車を止める者はいない!」

 前方の兵士たちも馬車に停止を命じる声をあげていた。

 韓孺子は僅か体をずらし、全力疾走する四頭の馬の先に目をやると、少なくとも二十騎ほどの兵士が行く手をふさぐように列をなし、槍を手にしているのが見えた。

 馬車は通れない、と彼は思って楊奉のほうを振り返った。五十代の宦官は悪狼のように身を乗り出し、御者の肩に両手をかけて力を入れていた。

 「もっと早く!」

 楊奉は大声で叫んだ。

 韓孺子は驚いた。彼は何人かの宦官に会ったことがあって、皆が小心者で、忍び足の猫のように用心深かかった。中常侍の楊奉は彼らとは違って、まるで訓練された猟犬のようだった。

 道を塞ぐ兵士たちがますます近づいてくると、韓孺子は片手で荷台にしがみつき、車が横転するのを迎えようと身構えた。

 数人の従者が追い越して先頭を走り、罵りと命令を連発した。

 結局、何が効いたのか、道を塞いでいた兵士が道を開け、馬車が前進し続けた。韓孺子は初めて勇敢に突き進む力を見知ってさらに驚いた。

 楊奉は座りなおして、しばらく黙っていたが、突然振り返って聞いてきた。

 「本当にお母さんを皇宮に迎え入りたいのですか?」

 韓孺子はしきりに頷いた。当然なことだ。彼は小さいごろからこん風に母親と離れることがないのだった。

 「よし、皇子は静かな男のようですね。これからは皇子は静かにしていてください。すべては私に任せてくれませんか」

 韓孺子はもう一度頷いた。

 夜が明けた頃、馬車は無事に皇宮に入った。韓孺子はここに対して何の印象もなく、ぼんやりしている間に一つの部屋に案内された。

 しばらくして楊奉の従者らしい一人の宦官が急いで入ってきて、額から汗が流れながら報告を告げた。

 「景公一行は東青門に止められた」

 楊奉は興奮して床を踏み鳴らした。

 「そんなことになると思った。止めたのは誰だ?」

 「変なことですが、太学たいがくの弟子の一団が大礼に合わないとか騒いでおりました」

 「何も変じゃないよ。本当の黒幕はこんなに早く姿を現わさないだろう。そうだな、お前はすぐにもう一度東青門に行って、孺子皇子が入宮したと宣言しろ。景公たちの難関を解けるかもしれない」

 伝言の者は一瞬きょとんとしたが、それ以上尋ねることもせず、すぐに命令を実行するために引き下がった。

 楊奉は韓孺子に向き直った。

 「恐れることはありません。君が得るものはすべて私が君のために獲得してきたものだということを忘れるな」

 韓孺子は頷いた。母親は彼に誰も信じるなと言ったが、いま何にも分からずにいる彼に、頼れる者はこの老宦官以外誰一人もいなかった。

 楊奉はしばらく皇子を見つめていたが、そのままきびすを返し、大股おおまたで去っていった。

 部屋にはもう誰もいなかったので、ぼんやりと椅子に座っていると、まだ夢の中にいるような気がして、起きろと促す母の声が聞こえるではないかと疑ったが、外の日差しはますます明るくなってきて、これまでの出来事がすべて真実であることを示した。

 どのぐらい経ったか、部屋の外で二人の言い争う声がした。

 「お前が大臣に密告して、東青門に待ち伏せさせておいて、善人面ぶるな!」

 激怒な声だった

 「景公、敵の先機を予見したことを密告だと思わないでください。我々は同じ船に乗って、誰かが前の危険を発見する必要がある。私の鋭さを幸いだと思ってほしいものだ」

 こちらは楊奉の声だ。

 「ふざけるな。太后に会いに行くぞ。皆を騙せると思うな!」

 韓孺子はじっと座ったまま動かなかった。ここで起きていることはすべて彼と関係があって、同時にすべて彼と関係がないのだとぼんやりと理解した。

 扉が開く音がして、韓孺子と同じ年代の少年が入ってきた。刺繍ししゅうの入ったにしきのガウンを着た少年は韓孺子を見て、一瞬きょとんとした。

 「君も玉座を争いに来たのか?おれたちは兄弟のようだな。後で君を王にすると言われたが、君を殺したほうがあと腐れがないと思うがね」

 韓孺子は楊奉の忠告に従い、一言も口をきかなかった。

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