第2話

 見慣れないA5サイズの茶封筒。1センチを超える厚みがあって、どうやら本のようなものが入っているらしい。


 差出人は────




 翌日僕は、熱を出した。八度を超えたのは何年ぶりだろうか。寒気が走り、頭はズキズキと痛む。身体は鉛のように重く、トイレに立つのも一苦労だった。


 トイレから部屋に戻り、乱れた呼吸を整えながらベッドに腰を降ろした。


 机の上に、昨日の封筒。差出人は、『つかさ 美緒』彼女の名前だった。そんなはずはない。わかっている。隣にちゃんと括弧書きで『母 代筆』とあった。


 高熱と寒気のせいで熱いのか冷えているのかよくわからない温度の手を伸ばして、その封筒の隣に置いてある、昨日取り出した中身をゆっくりと手に取った。


 手紙などの同封はなく、見覚えのある文庫本がただ一冊。それは病床で彼女がいつも読んでいたものだった。


「おもしろいの?」


「うーん、『おもしろい』って、なに?」


「いや、……読んでんのいつもそれだからさ。まだ途中?」


「なに、貸してほしいの?」

「そうじゃないけど」


 答えるとくく、と肩を揺らした。


「もう丸暗記するくらい読んでるよ」


「え、……なんで?」


 そもそも『本を読む』というイメージすらなかったので驚きが何重にもかさなった。


「『おもしろい』から」


 気になるなら自分で買いな。と意地悪く笑った。




 結局僕はその本を買うことはなかった。本屋で見つけられなかったのもあるけど、買うのはなんとなく悔しかったのと、まず本を読むこと自体が得意ではなかったからだ。


 いつか、彼女に話して聞かせてもらえばそれでいい、と思っていたからだ。




 何度も見ていたけど実際に手に取って間近で見るのは初めてだった。表紙は水彩画のようなタッチで何色もの青色が重ねられたバックに少年か青年か、そのくらいの歳と思われる男性の後ろ姿が描かれていた。


 タイトルは『空に走る』。


 あらすじがあるかと裏表紙も見てみたがそこは余白があるだけでなにもなかった。


 そうして昨夜、そのページをめくった。はじめはあまりに身に覚えのあるそのストーリー展開に「なんだよこれ」と思わず声が洩れた。だけどすぐに夢中になった。主人公の青年の考えが、行動が、状況が、まさに自分と重なって、それはまるで自分のことのようだった。


 晩ごはんを食べるのも忘れて、辺りが暗くなっても読み続けていた。もともとそのページ数が少ないことも手伝って、あっという間に半分を超えた。そのあたりでふと身体にだるさを感じた。


 昼間雨に当たり過ぎたか、寒気もあってこれは少し良くないなと続きを読みたい気持ちを抑えて本を閉じたのだった。



 そして今、だるさの中で再びそのページをめくる。回復は待てなかった。どうしてか僕は、早くその本を読み終えなければならない気がしていた。


 そして、物語は午前中のうちに結末を迎えた。ハッピーエンドだった。悲しみの中の前向きなハッピーエンド。その不自然なほどの美しい情景描写が、脳内に強く残った。


 陽の光が虹色にきらきらと乱反射する空。眩しく、柔らかく、心地よく。


 そんな空が現実にあるはずがない。だけど、あればいい。あってもいい。例えなくても、自分がそう感じればいい。そんなことを思った。


 あとがきや解説はなく、ページは終わった。終わった……はずだった。


 薄いメモ紙が挟まっていた。最後のページと、裏表紙の厚い紙の間。


 なんとなく、そんな気がしていた。だから驚きはあまりなかった。そんな気がしながら、そこを見るのは読み終えてからだ、と無意識に心に決めていた。


 そっと抜き出した。


 綺麗な紙だった。


 綺麗な、字だった。


 あいつの、字だった。





 翌日、熱も下がって、僕はグラウンドにいた。


 バーに向かって、斜めの位置に立つ。片足ずつ軽く足首をほぐして、音を出さずに小さく息をはく。


 軽く、リズムを刻んで、地面を蹴る。弾んで、弾んで、


 跳ぶ。


 空へ。


 肩はバーを越え、身体は曲線を描いて宙を舞う。一瞬はスローモーションとなって、景色はゆっくりと回る。ずいぶんと久しぶりに、バーに触れなかった。その後は何度も記録を伸ばした。



「次の大会、葵、出すから」


 はい、とだけ返事をした。


 それはかつて彼女と夢みた大会だった。「来年は葵の年にしようね」マネージャーの仕事をしながら、日に焼けて赤くなった頬でそう笑った。



「なんでマネージャー?」


 長く苦楽を共にしてきた同志ライバルの突然の引退宣言に驚いたのは去年の春のことだった。


「あたしそっちの才能絶対あるから」


 自信満々なのは変わりなかったがそこには違和感がたしかにあった。だけどそれに気づきながら深くは訊いてはいけないことのように思えた。彼女の纏う空気が、たぶんそうさせたんだと思う。


 発言通りマネージャーとしての彼女は完璧だった。部のために、部員のために、そして一番古くからの付き合いの僕のために、彼女は尽くした。


「葵は才能あるから」

「できるよ」

「大丈夫」

「あたしが保証する」


 ひとつひとつの言葉に、どれだけ救われたことか。どれだけ頼もしかったか。どれだけ力になったか。


 そして、その存在がどれだけ大切だったか。


 僕にスランプが訪れたのは、彼女が入院することになってからだった。心配して駆けつけた病室で「もうね、本気で死ぬかと思った」と変わりなくゲラゲラ笑う彼女に拍子抜けしたのをよく覚えている。


 拍子抜けしたけど、心配は拭えなかった。その不安な気持ちが無意識に僕を跳べなくさせていた。


 結局彼女はそのまま、グラウンドには帰ってこなかった。







 蒼く晴れた日だった。


 所々浮かぶ白い雲は、時々いたずらに陽の光を遮るがそれはまたすぐに明るく地を照らす。


 ユニフォームに身を包んでいた。

 バーの斜め前に立っていた。


 緊張はしなかった。理由はうまく説明できないけど、自分の中でいつもとは明らかになにかが違っていた。




 メモ紙には短くこう書かれていた。



 あおい!


 跳べっ! 飛べっ! 翔べっ!


 必ず見てるから。


 空から見てるから。





 バーに向かって、斜めの位置に立つ。片足ずつ軽く足首をほぐして、音を出さずに小さく息をはく。


 すると、ふいに目の前がきらきらと輝き、同時にひやりと肌が濡れた。


 ……?


 空は晴れていた。雨が降るはずはない。だけど、それは雨だった。細かく、柔らかで、美しい一瞬の雨だった。


 ああ、そうだ。あの本の結末の景色は、きっとこんな色だったんだろう。そうだろ、なあ、つかさ



 軽く、リズムを刻んで、地面を蹴る。弾んで、弾んで、


 ぶ。



 空に、虹が見えた。






 了




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空に走る もここ @mococo19n

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