空に走る

もここ

第1話


 あの日から僕は、跳べなくなった。



 曇り空から雫が落ちてくる。ひとつ、またひとつ。僕の額に、頬に、掌に。


 分厚いマットの上で仰向けに横たわって見上げる空は、所々その濃淡を変える分厚い雲に覆われ、どんどんこちらに迫ってくるようだった。


 疑いはすぐに大粒の確信へと変わり、練習は中止となった。「早く片付けて!」遠くで声が鳴る。


 今日も跳べなかった。


 僕は一体、なにをしているんだろう。


 雨粒が目に入って、痛みにぐっと目を閉じると、雫はそのまま耳へと流れた。そのまま目を閉じていると、記憶はあの日まで遡った。





「死んだ……?」


 時計の秒針が鳴る。かちこち、こんなにうるさいはずはないのに。


 画面に届いた連絡は簡素なもので、あとは葬儀がいつだとかどこだとか、そんな事務的なものがだらだら続くだけだった。


 気がつくと家を飛び出していた。玄関から一歩、雨に阻まれて閉まりかけたドアをまた押し開ける。紺色の雨傘を掴んで灰色の世界へと駆け出した。


 嘘であれ。

 嘘であれ。


 荒い呼吸のリズムに合わせて頭の中で繰り返す。


 嘘であれ。

 嘘であれ。


 ほどなくしてその建物の前にたどり着いた。この世界の灰色は、すべてここから生み出されているのではないか、と思うほどその建物には色がなかった。壁も、窓も、地面も、植物さえも。


 これまで何度も訪れた、慣れた場所。受付カウンターに声を掛けることもなく、エレベーターで病室へと向かった。


 焦る気持ちと裏腹に、その機械はゆっくりと僕をつりあげてゆく。2……、3……、点灯するランプの移り変わるリズムが自分の求めるそれとあまりにズレていて心地が悪い。早くしてくれ。


 ようやくゆっくりと開きかけたその扉を手で強引にこじ開けるようにして、またリズムを取り戻して廊下を進んだ。


 嘘であれ。

 嘘であれ。


 病室の入口に設置されている消毒スプレーなんか気にもせずに、見慣れた部屋番号の札の付いた病室の引き戸を勢いよく開いた。


 カーテンが開けられたその部屋は、外の雨天を疑わせるほどに明るかった。


 白いベッドに、「おう」と男友達のような挨拶をする華奢な白い腕。デカい瞳は化粧をしなくても充分インパクトがあって、そして綺麗だ。長い黒髪はいつも横に纏められていて、体勢はだいたいあぐら。まあその足元は布団に隠れていて実際は見えていないんだけど。


「女子があぐらかいちゃダメなわけ?」「こんなラクな座り方男だけしていいなんてズルい」いつかそんなことを言っていたから僕が彼女のその体勢についてどうこう言ったことはこれまで一度もなかった。


 こちらに気がつくと彼女は「おう」と軽く手を挙げる。それがいつもの挨拶だ。そうして「まあ座んなよ」と椅子を勧めて、僕がそれに腰を落とすと「調子どうよ」とこちらが訊きたいことを訊いてくる。


「良くない」正直にそう答えると「かぁ、シケてんね!」と眉を寄せて斬ってくるからこちらも苦いながらに笑いが洩れる。


「今はそういう時期だって割り切るのもひとつだけど、なんか理由があるんならちゃんと見つけないといつまでも抜け出せないよ」


 そして油断しているとそんな的確なことを言ってくるので面食らうんだ。


「わかってる」

「わかってないね」


 ふふーんだ、と漫画口調で笑うとバナナを一本差し出した。


「あげる。誕生日プレゼント」


「どんなだよ」


 思わず言わされながら受け取った。「自分がやいいのに」言うと「食欲なくてね」と病人のようなことを言うから戸惑った。


「……具合、悪いの?」


「そっちよりマシ」


「俺は元気だわ」


「スランプじゃん」


「……そういうんじゃなくて」


「あ、ゴミ持って帰ってね。バナナの皮って臭いから」


「あのなあ」


 半ば呆れて言うと相手はくくく、と肩を揺らした。





 あの日の花が、まだ花瓶にそのまま咲いている。


 だけどあの日の彼女は、今はここにはいない。白いベッドは布団が綺麗に畳まれて隅にあり、白い枕はシミのひとつもなく付近に毛の一本さえも落ちていない。


 テレビの前にあった桃色のコップも、歯ブラシも、タオルも、文庫本も、熟れたバナナも、そこにはなにもなかった。


 誰もいなかった。



 立ち尽くした。

 鼓動が鳴る。全身で鳴る。


 嘘であれ。

 嘘であれ。

あおいくん」


 はっとして振り向くと、彼女のお母さんが立っていた。やつれた、覇気のない顔をして。


「来てくれたんだ。ありがとう。……今朝、早くにね。……あっという間だったの」


 なにを言っているんだろう。


 お辞儀をして病室を出る。その時その部屋の引き戸のところにあるはずの名札が、『つかさ 美緒みお』という彼女の名前が、ないことに気がついた。


 じわり、にがく、実感が走った。


 そこからの記憶は曖昧で、自分がどう過ごしたのかよくわからない。





 分厚いマットの上で、仰向けに寝転がって雨に打たれていた。


 雨はどんどん激しくなって、僕がさっき肩を当てて落としたバーも、他の器具もあっという間に片付けられた。


「葵! どいて!」


 声を受けて、ゆっくりと起き上がる。「すんません」ぼそぼそ答えてそこから降りた。



 あの日から、僕は生きていない。


 降り続く雨粒を体育倉庫から眺めていた。たくさんの雨粒も、地面を伝ってやがて排水へと流れてゆく。川の水かさが増して、その濁った流れの勢いが速まり、グラウンドにも薄茶色の水溜まりがあちこちに出来るけれど、それも一時のことで、翌日晴れたのなら今日のそれはまるでなかったことのように消える。


 いつだってそうしてきた。そうやって雨の日のことなんか当たり前のように忘れて生きてきた。なのに、今はそれが出来ないでいる。


 僕はずっと、雨の中にいる。傘もなく、止む気配もないその暗い空の下で、ただ仰向けになってそれに打たれている。


 涙は出ない。

 ただ雨粒が目に入って、そのまま耳に伝うだけだった。





 家に着く頃、雨は上がっていた。


 濃い雨雲は次の地へと移り去り、所々ぽっかりと青空が見えている。地面に落ちそびれた雨粒たちが、眩しい西日に照らされてきらきら光っていた。


 どこかでは虹が見えたらしいが、僕の目にそれは映らなかった。



 玄関の扉を開く前に、習慣で郵便受けを覗く。不用品回収の広告と、近所のマンションの広告、それと薄っぺらい市の広報誌。


 それに混じって、一通の僕宛ての封筒があった。




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