第258話

 遊び心を捨ててしまったとき。

 人間は本当の奴隷になる。


 氷室さんのセリフは、どういう理屈か、電車に揺られるリョウの胸にずしんと響いた。


 携帯が鳴った。

 アキラからのメッセージ。


『風邪引いた〜』

『うわぁぁぁん!』

『シクシク……』


 どのくらい熱があるのか質問してみた。

 38.5度くらい、と返信がきた。


 クーラーの真下で読書しながら寝ちゃった。

 起きたら頭のガンガンが止まらなくなったらしい。


 あ〜あ。

 ドジっ子め。


『演劇のレッスンは?』

『夏休みに入ってから週6くらいでレッスンだろう?』


『今日から3日間は出てくるなって……』

『トオルくんが……』

『シクシク』


『仕方ないな』

『お見舞いにいってやるか』


『やったにゃ〜!』

『でも、リョウくんに風邪をうつすと悪いから、遠慮しておくよ』


『いやいや』

『アキラの風邪ならうつされても構わない』


『きゃ⁉︎』

『キュンキュン♪』


 照れたニャンコのスタンプが送られてくる。


 というわけでお見舞い決定。

 まずは手土産を選ぶところからスタート。


 普通はフルーツを持っていくのかな。

 でも、皮をむくのが面倒だよな。


 銀座に立ち寄ってみた。

 大勢のマダムでにぎわうデパートの地下へ入ってみる。


 おいしそうなフルーツゼリーを見つけた。

 大ぶりの果肉がたくさん入ったやつ。


 アキラに写真を送ってみる。

 うまそう! と返ってきた。


 モモ、西洋なし、甘夏、パイナップル。

 調子にのってホイホイ買ったら、お会計のとき、2,000円ちょっと取られて驚いた。


 ぐぬぬ……恐るべし。

 これが銀座デパ地下の魔力か。


 1時間くらいかけてアキラのマンションへ向かう。

 玄関のピンポンを鳴らすと、思いのほか元気なアキラが出てきて、ようこそおいでました、と中へ入れてくれた。


 手には読みかけの洋書を持っている。

 誕生日に買ってあげた赤毛のアンのやつ。


「なんだよ。生き生きしているな。心配して駆けつけたのに」

「違うよ。空元気からげんきだよ。夜になったら熱が上がるパターンだよ」


 ゼリーの袋を渡した。

 はい、お土産、と。


 アキラの顔が、財宝でも発見した海賊みたいに、パアッと輝く。


「やった〜! これ、高いやつでしょ!」

「今日、原稿を納品してきた。そのうち原稿料が入る。その前祝いみたいなやつ」

「あっはっは! リョウくん、社会人みたい!」


 アキラの父と母は留守のようだ。

 リビングなんて宗像家の2倍はあるから、1人で過ごすには寂しい家かもしれない。


「やっぱり元気そうだな。本当に熱があるのかよ?」

「リョウくんの顔が見られたから元気なんだよ」

「この人たらしめ」

「クックック」


 ガラス容器を2つ出してもらい、さっそくゼリーを開封してみた。

 まずはアキラの好きなモモから。


「うまっ! やばっ! すごっ!」

「おい、ボキャブラリーが小学生になっているぞ」

「そうだな。……このゼリーは素晴らしい。ゼリーの定義ってやつを、根底からくつがえしやがった。日本人の繊細せんさいさ、こだわり、母親のような愛情、それらが一品の中にギュッと詰まっている。ゆっくり味わいたい! なのに喉をつるっと滑り落ちていく! この食感、まさにピュアな恋泥棒!」

「食レポの才能があるな」

「むふふ」


 アキラの笑顔がまぶしいと、リョウの心も晴れてくる。


「そうだ。ヨーグルトを混ぜたらおいしいかも」

「だろうな」

「ちょっと待ってて。冷蔵庫から取ってくる」


 それからお互いの近況について話した。


 アキラはレッスン漬けの毎日。

 エミリィー先輩のアンダーとして、コツコツ特訓しているらしい。


 ほらほら、筋肉ついたでしょ。

 そういってパジャマの前をはだけて、肩から腕のラインを見せつけてくる。


「もしかして、大胸筋を鍛えたらバストアップするの?」

「はぁ⁉︎ 君は本当におっぱいの話が好きだな! お母さんのお乳でも揉んでいなさい!」

「いや、母親より、アキラがいい」

「ば〜か、ば〜か」


 両腕で胸元をガードする仕草がかわいい。


 お見舞いにきてよかった。

 アキラが喜んでくれた。

 リョウだって楽しい。


 しかし、お見舞いにきた一番の成果というやつは、この数分後に待っていた。


「ねえねえ、リョウくん、君にしか頼めないお願いがあるのだけれども……聞くだけ聞いてくれるかな?」

「ん?」


 口では頼むといいつつも、本当に頼むべきか、アキラは迷っている様子だった。

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