第257話
トオルとキョウカの初夜について。
3通りの可能性があると予想していた。
その1。
男女としての一線を超えちゃう。
だって2人とも若いんだもの。
その2。
キスくらいに留めておく。
お互いに恋愛が許されない立場だから。
その3。
ほとんど手を触れない。
楽しみはキョウカが高校を卒業してから。
アキラは答えを教えてくれた。
別荘から帰ってきて、近くの公園でヒグラシがキキキキキキキキッキッキッ! と鳴いていた夕方のこと。
「キョウカちゃん、腕枕をしてもらいながら寝たんだってさ」
「へぇ〜」
他人の恋路について話すとき、アキラは一番生き生きしている。
「想像していたより健全だな。もっとこうイチャラブするのかと思った」
「そうかな? どうして?」
「俺がトオルさんの立場だったらさ……」
キョウカは文句なしの美人さん。
気立が良くて、社交的で、明るくて、家柄も良くて、しかもトオルに
何よりアキラの恩人というのも高ポイント。
「我慢できないだろう、普通。こっちは腹ペコで
「うわ〜、リョウくんは
「男なんてそんなもんさ」
「うわ〜、うわ〜」
ドン引きされてしまった。
王子様キャラのくせに、男の性欲はとんと理解していないっぽい。
にしても、キョウカはすごい。
確率1%だったかもしれない恋。
それを確率50%くらいまで引き上げた。
ゴールまでの道のりは遠いけれども……。
キョウカならシンデレラストーリーを走破するだろう、と思わせてくれるエネルギーを持っている。
……。
…………。
そして数日後。
リョウは出版社へやってきた。
氷室さんの最終レビューのため。
40Pの原稿にOKをもらって、納品するためだ。
「う〜ん……ギリギリ及第点ってところかな」
氷室さんは原稿をトントンして、頭からサラッと読み直していく。
自分が描いたわけじゃないのに少しだけ嬉しそう。
「カナタ先生ってさ、まだ四之宮先生に勝ちたいって思っているの? いや、1年くらい前は連呼していたから」
あったな。
連呼したのはアキラだけれども。
「そりゃ、思いますよ。目の前に金メダルが落ちていたら拾います。何より、レン先生くらいの部数が売れたら、俺の時代キター! て思えるじゃないですか」
「なるほど、それでこそカナタ先生だな」
氷室さんは、リョウの他にも、たくさんの若手マンガ家を担当している。
どの子も一様に口をそろえて、
『四之宮先生は別格』
『バケモノだから勝てない』
『スタートラインがまったく違う』
「カナタ先生は見込みがあると思うよ。いわば、エベレストを登ろうとしているんだ。でも、最近の子たちは、怪我するのが怖いから、
リョウの記憶が正しければ、エベレストの標高が8,848mで、高尾山の標高が599mだったはず。
「エベレストに挑んだとして、1合目で引き返したとしよう。これでも884mだ。まあ、スタート地点のベースキャンプですら、標高5,000m以上なのだけれども……ここでは海抜0mからスタートすると仮定しておく」
エベレストの1合目が884m。
高尾山の山頂が599m。
「目標が大きいやつが勝つ。あの言葉が正しければ、カナタ先生は将来、まあまあ売れるマンガ家になる」
「そうなれるよう努力します」
氷室さんは時々、経営者みたいなことをいう。
そういう上司の下で育ったのだろうか。
「今回もらった原稿は、秋くらいに掲載されるとして……次回作をどうしようか? 大学受験との兼ね合いがあるよね?」
「アイディアは引き続き出していこうと思います。プロットが仕上がったら、氷室さんに送ります。あと、画力が落ちないよう、ペンはなるべく毎日握ります」
氷室さんはうんうんと納得してくれた。
リョウの受験を応援してくれるらしい。
「ちなみに、四之宮先生も大学を受験する方針らしい。それが両親との約束だから」
「連載を持っているのに? そんなことが可能なのですか?」
「必要なら1回だけ休載するそうだ。大量のアシスタントを抱えているから、完全に休むことはないと思うよ」
氷室さんの声には、若いのによくやるな、という感情が
その点についてはリョウもまったく同意である。
「そういえば助手くんは? 最近は別行動していることが多いよね」
「アキラはアキラで演劇のレッスンが忙しくて……」
「そっか。みんながんばっているな」
氷室さんは眼鏡を外して、ほんのり日焼けした目元をこする。
「努力それ自体を肯定する気はない。でも、努力できる対象があるという素晴らしさは、無条件で肯定されるべきだな」
リョウはほぇ〜と返事する。
アキラがここにいたら、社会人の
「氷室さんって、編集長の椅子を狙っていたりするのですか?」
「ええっ⁉︎ どうして⁉︎」
「いや、
「う〜ん……まあ……社畜ではあるな。許された唯一の抵抗は、社畜であることをエンジョイすることだ。遊び心を捨ててしまったとき、人間は本当の奴隷になると思う」
サラリーマンって大変なんだな、と思いつつ、リョウは出版社を後にした。
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