第185話

 ぷお〜〜〜ん。

 電車がやわらかな汽笛を鳴らした。


 アキラがずっとモヤモヤしている。

 出版社を抜けてから、話しかけても生返事なのだ。


 そんなに四之宮レンのことが気になるのかな?


 でも、会ったことがない、と断言していた。

 つまり、以前に会っていたとしても、当時の面影が残っていないことになる。


 レンはどこでアキラを知ったのだろうか?

 やっぱり、演劇の舞台だろうか?


 アキラ様ファンみたいな様子とはかけ離れていたが……。


 あの表情は切実そうだった。

 まるで、ずっと昔に約束を交わした、かけがえのない仲間みたいに。


「あっ……」


 アキラがカバンの中をゴソゴソする。


「なんだ? 忘れ物か?」

「うん、化粧ポーチ。たぶん、リョウくんの家に置いたままだ」

「だったら、俺の部屋にこいよ。マンガの描きすぎで疲れたから、アキラに肩トントンしてほしい」

「えぇ……」

「嫌なの?」

「リョウくん、僕に甘えるのが上手くなったね。でも、あまり甘やかすのは僕の本意じゃないんだ」

「そこを何とか頼む。氷室さんと四之宮先生にボロクソいわれて、俺のメンタルは虫の息なんだよ。アキラにいやしてほしい」

「ああ……もう……断りにくいなぁ」


 アキラが前髪をいじくる。


「少しだけだぞ」


 渋々許可してくれるところが、人一倍愛くるしいんだよな。


 というわけで、リョウの家へ。

 父と母は出かけちゃったから、アキラと二人きりに。


「アキラは何飲む? コーヒー? 紅茶? それとも乳酸菌飲料みたいなやつ?」


 リョウが冷蔵庫をパタパタさせていると、アキラに止められた。


「リョウくんはベッドに横になっていなよ。寝不足だろう。僕がコーヒーを持っていってやる」

「アキラ、本当に優しいな。将来、アキラみたいな奥さんがいたら、俺もマンガ家として成功できる気がする」

「なにそれ? 遠回しに求婚しているの? かわいそうに、リョウくん、疲れすぎて妄想にストップが効かないんだね」


 ぐはっ!

 ジト目で流された。

 デレる時とデレない時の落差みたいなやつも、アキラの魅力なんだよな。


 ベッドに、ぐだ〜、とうつ伏せになってみた。

 眠い、眠い、眠い……気分だけは充電が3%しか残っていない携帯電話だ。


 カフェインの匂いとアキラが部屋に入ってくる。

 リョウの横に腰かけて、頭をナデナデしてくれた。


「マンガのせいで体がダルいの?」

「それもあるけれども……なんかへこんだ」

「四之宮レンに会ったから?」

「そうそう。話してすぐに分かったよ。才能の差みたいなやつ。四之宮先生はセンスがある。積み上げてきた経験値がデカいんだよ。こういう泣き言、アキラにだけらすけれども、俺なんかがマンガを描いていて、本当に意味あるのかな〜、て不安になる」

「ふ〜ん」


 アキラは姿勢を変えると、リョウの肩をモミモミしてくれた。


「意味とかさ……考える生き物、人間だけだと思わない?」

「そうかな?」

「ニャンコは悩まないんだよ。他のニャンコより劣っているとか、マズい時代に生まれてきたとか、仲間が少なくて悲しいとか。悩むとしたら、今日と明日のご飯くらい」

「たしかに」

「もっと、シンプルに生きていいんじゃない? 悩みっていうのは税金なんだよ。人間は知性を手に入れたから。悩みとか、苦しみとか、生きる目的とか、税金を払って生きている。でも、納めなくていい税金まで納めなくていいだろう。リョウくんは、ただでさえ右手が痛いんだから。自分で自分を追いつめるなよ。それに才能とか、センスとか、おこがましいぞ。オリンピックで、ギリギリ表彰台を逃した選手にだけ、才能が足りなかったって言い訳が許されるんだ」

「うっ……鬼……スパルタめ」


 だんだん眠くなってきた。

 そのことをアキラに伝えると、


「眠っていいよ」


 と歌うようにささやいてくれる。


「少し寝たら、頭がスッキリして、気持ちも前向きになるよ」


 アキラは優しいな。

 リョウよりもリョウの才能を信じている。

 嬉しくて、温かくて、涙が出てきそう。


 前に進まないと。

 アキラの期待に応えないと。


「僕はちゃんとここにいるから。ゆっくりとおやすみ」


 コーヒーに溶けていくミルクみたいに、リョウの意識も溶けていく。


『不破さん……』


 最後に思い出したのは、悲しそうなレンの横顔だった。

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