第168話

 うぇ……しんどい……。

 そこから2週間は地獄のような日々だった。


 終わらない修正。

 進んでいくカレンダー。


 高校受験の時も、似たプレッシャーを感じたけれども、あれよりも精神的にキツい。


 決まって思い出すのは、姉カナミの言葉。

『悩みごとの9割がマンガになるよ』みたいなやつ。


 リョウは自分の頬っぺたを叩いた。


 弱気になってどうする⁉︎

 悩んでいるヒマがあったら線を引け!


 セリフ……。

 思いつかない。


 修正してきて。

 と氷室さんから指示された部分だけれども、書いたり消したりを繰り返している。


 くぅ〜。

 アキラに相談して〜。

 何気ない会話って、一番難しいよな〜。


「ダメだ! 寝よう!」


 ペンを放り出して、ベッドに横になったけれども、頭が興奮しているせいで、寝つくのに時間がかかった。

 すると、翌日は寝不足になる。


 よくある悪循環あくじゅんかん


 プロはこれを1年間やるのか。

 四之宮レンとかいうバケモノは……。


 プロの壁が高いのは知っていたけれども、いざ近づいてみると、その高さに驚くばかりだ。


「リョウくん、大丈夫? ちゃんと寝ている? ハードワークで死にそうになっていない?」

「いちおう、布団には入っているが……」


 電車の窓ガラスにリョウの顔が映っていた。

 なんだ、これ……しなびた野菜じゃねえか。


「よっぽど消耗しょうもうしているよね? 僕でよければ話を聞くけれども……」

「おう、そうだな」


 いつもの喫茶チェーンに立ち寄る。


「僕はヘーゼルナッツラテにしよう。リョウくんは?」

「……なんでもいい」

「じゃあ、普通のラテで」


 リョウは10分間くらい一方的にしゃべりまくった。


 楽しかったマンガ。

 ノルマを設定すると義務になる。

 すると描くワクワク感がガクッと減ってしまう。


 だから、おもしろいアイディアが出てこないし、集中力もプツプツ切れてしまう。


「描くの、楽しくないの?」

「楽しいか、楽しくないかでいったら、あまり楽しくない。特に背景。苦手だし……ストーリーに直接関係ないし……」


 あと、四之宮レンだったら、優秀なアシスタントに描かせているし。


「マンガは好きなんだ。でも、好きだからこそ苦しいって、時々、あるだろう」

「うん、あるよね」


 たぶん、氷室さんの意図はそこだ。

 無茶なハードルを設定することで、リョウがどこまで粘れるか、チェックしているのだ。


 好きの領域に閉じこもるのか?

 イヤな領域まで一歩踏み出すのか?


 貪欲どんよくさ。

 勝利のためなら、どこまで身をにできるのか。


「2週間くらい、気合いで乗り切れると思っていた。でも、モチベーション100%なのは、最初の3日くらいで……」

「つまり、リョウくんの課題は、モチベーションを維持できないこと?」

「そうそう」


 アキラは、ふむ、と天井をあおいだ。


「この後、時間をもらっていい? 1時間くらいでいいからさ」

「別にいいぜ。どうせマンガを描いても、25点くらいの内容になるから」


 アキラはいったん家に帰り、ジャージ姿で出てきた。

 不破ママから借りてきたママチャリに乗っている。


 リョウもジャージに着替えて、走りやすい靴にチェンジする。


「これから河川敷かせんじきをジョギングします」

「はっ⁉︎」

「リョウくん、昔から走るのが好きでしょう」

「まぁ……」

「楽しいって何なのか、思い出すんじゃないの?」


 リョウが前を走って、後ろから自転車のアキラがついてくる。

 河原のジョギングコースに着くころには、全身が汗ばんでいた。


 野球のグラウンドが見える。

 ちびっ子たちが練習している。


 犬を連れて走っているのはご老人。

 70歳近いはずなのに、全身の筋肉がムキムキだ。


 懐かしいな。

 走るのって楽しい、みたいな感覚。


 風。

 リズム。

 心臓のペースがいつもより強く伝わってくる。


 この国は大きい。

 この地球はもっと大きい。

 そんな当たり前に気づく。


 体を動かしていると、なぜかアイディアが浮かびやすい。

 それをノートに書き留めるのが、昔から好きだった。


「どう? 少しはスッキリした?」

「おう……メッチャ苦しい……でも気持ちいい……疲れたけれども」

「僕も久しぶりに自転車をこいだから疲れたよ。今夜はぐっすり寝られそうだな」


 アキラが首にかけてくれたタオルは、やさしい柔軟剤の匂いがした。

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