57.蛍と川

「父さんとも一緒に行きたかったな〜」


 不貞腐れた様子で、リヒトが言った。


 夕食の前に友達と遊んで帰ってきたリヒトがユタカが蛍を見に行けなくなったと聞いた時の落胆ぶりは凄まじかった。

 どうしようもないとは言え、サザは本当に申し訳ない気持ちになった。


 蛍を見に行くのはまた後日にしようと思っていたが、事前に伝えていたのでローラが気を利かせてサンドイッチを用意してくれていた。

 いつもならそろそろ夕食の時間だ。


「ハル先生の頼みなら仕方ないよ。ごめんね。折角サンドイッチがあるし今日は私と二人で川に行ってみない? 蛍は暫く見られるはずだから明日にでもユタカと三人でまた行けばいいし」


「うん……そうだね」


 リヒトはユタカが居ないのが酷く心残りそうだったが、お腹が空いてきたこともあり、ローラのサンドイッチに後押しされた二人は出かけることした。


 ——


 サザはサンドイッチを馬の荷物袋に入れると、ランタンを持たせたリヒトを自分の前に乗せ、川まで走らせた。


「わあ、すごい!」


 リヒトが声を上げた。


 丘を越えて川の土手の上まで来ると沢山の蛍が光の渦のようになって川の周りを飛び交っているのが見えた。


 昼間見ている景色と同じ場所と思えないほどだ。ランタンもいらないくらい明るい。


 土手は蛍を見に来た人達で一杯だ。パイやスープなどを売る露店も出て大いに賑わっている。

 サザとリヒトに気がついた町の人達が挨拶をしてくれるのに会釈しながらサザは馬を土手の上の木に繋ぐと、リヒトが馬から降りるのを手伝った。


「お腹減ったし先にご飯食べちゃおっか」


「うん!」


 サザとリヒトは土手の上の木の根本に座って、川縁の蛍を見下ろしながらサンドイッチの包みを開けた。厚く焼いた甘い玉子のサンドイッチがとても美味しく、リヒトと取り合いつつ食べた。


「けど、ハル先生はそんなに大きな悩みがあったのかな? 心配だね」


「そうだね。全然分かんないけど。父さんは今日帰ってくるかなあ」


「まあ、でも、孤児院にいるなら安心だよね」


 孤児院ならユタカが泊まるところくらい準備してくれるだろう。それに、リヒトは少し可哀想ではあるが、孤児院の子供達はユタカが一晩中いたらとても喜ぶだろう。人一倍辛い思いをして来た子達なのだから、偶にはそんな楽しい思いだってさせてあげたい。


「ねえ母さん、父さんと喧嘩したでしょ」


「え……」


 サザは急なリヒトの言葉に、一口を頬張ろうと手に取ったサンドイッチを思わず口から離した。


「僕の力を使って盗み聞きした訳じゃ無いよ。でも分かる。父さんお母さん、何かぎくしゃくして変なんだもん」


「……ばれてたんだね」


 サザは、そして恐らくユタカも、関係ないリヒトに心配をさせたく無い気持ちからリヒトの前では殊更普通にしていたつもりだったのだ。


「だからさ。今日、もの凄ーく楽しみだったんだ。父さんと母さんが仲直りしてくれるかなって思ったから」


「心配させてごめん」


「ううん、父さんと母さんが仲良くしてくれたらいいの。次来た時は、絶対だよ」


「うん、ありがとう」


 ユタカは秘密を抱いたサザを許してくれるのだろうか。そうでなければ、この三人で以前のようにただ幸せに暮らすことすら叶わなくなってしまう。サザは、自分が暗殺者だった過去が堪らなく憎い。サザはサンドイッチを手にしたまま目を伏せて溜息をついた。


「よっと」


 リヒトはその隙をついてサザの手からサンドイッチを奪い取り、間髪入れずに大きな口で頬張った。


「あっこら! 最後の一個!」


「ひひ。油断してた母さんが悪いんだよ」


 サンドイッチを持ったリヒトが嬉しそうに笑ったのにつられてサザも思わず笑ってしまった。この子がいてくれて良かったと、サザは心の底から思った。


 サンドイッチを食べ終わると、リヒトが露店のりんご飴を欲しがったので一つを買って二人で齧りながら、手を繋いで土手を降り川に近づいてみた。


 身体が蛍の光に包まれる。まるで自分自身が発光しているような不思議な感覚だ。

 蛍は手や髪にちょんと止まってやわらかく点滅し、サザの顔を優しく照らした。川面に揺めきに映る蛍の光は言葉にならない美しさだ。


「……きれい」


 以前見た魔術の花火もきれいだったが、蛍は命のあるせいなのか、心に触れるような儚い美しさがある。ユタカとも一緒に来れたら良かったと、サザは改めて思った。


「リヒト、きれいだね。絶対にユタカとも来ようね」


 サザは手を繋いでいるリヒトに声をかけた。しかしリヒトはサザの言葉に反応せず、沢山の蛍と楽しそうな人々の中で川を見たまま、立ち尽くしている。


「リヒト……?」


 サザは手を離してしゃがみ込み、リヒトの顔を正面から見た。

 肩が震え、顔が青ざめている。もしや川の中に何か恐ろしいものがあったのかとサザは目を凝らしたが、特に何もない。


「何かあった? もしかしてサンドイッチに当たった? 大丈夫?」


「川の水から、父さんの血の匂いがする」


「……え?」


 リヒトはそう言うと、青ざめた顔でサザに抱きつき、泣き始めてしまった。


 サザは周囲の目を気にしてあわててリヒトを何とか抱き上げて土手を登り、繋いであった馬のところまで戻った。


 さっきサンドイッチを食べた木の根本に並んで座らせると、リヒトの背中を撫でた。


「リヒト、落ち着いて。本当にそうなの?」


「昔、父さんが戦場で僕を抱いてくれてた時の匂いだ。絶対に間違えない」


 リヒトは強い口調で言った。サザには全く分からないが、リヒトの雰囲気では本当のようだ。

 確かにこの川は遡ると孤児院の真横まで繋がっている。


 川にユタカの血が流れているという状況は全く理解できないが、酷い怪我をしているには違いない。

 しかし、そんな怪我をしていたら、さすがにハルから何かしらの連絡が来る筈だ。

 孤児院で何かあったのだろうか?


(孤児院に行ってみる? でも……)


 サザは先日、自分が襲われた時のことを思い出した。またあんな目にあったらリヒトを巻き込んでしまうし、武器のナイフはあの場に置いてきてしまった。


 唯一サザの正体を知るリエリに声をかけて一緒に行くことも考えたが、それは出来ない。サザだけでなくリヒトの秘密までリエリにばらしてしまう訳にはいかないのだ。


 しかし、血が流れているという事は一刻を争う状態の可能性が高い。早く行った方ががいいだろう。


「孤児院に行って、ユタカに何があったか確かめよう。一緒に来てくれる?」


「……うん」


 サザはリヒトと急いで馬に乗ると、川に沿って走らせ、孤児院へ急いだ。

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