第43話「略奪の末に」
イブキが扉から出た少し先には、予想だにしない光景が広がっていた。
人影が小さく見えている。どういった生物かは判別できるくらいの大きさである。
プリンチバティよりも輝いている天使に、その前で怯えている悪魔らしき輩。そしてその天使に向かって祈りを捧げている、村人達。
一体何が起きたのか。
イブキはすぐに声を出したりすることなく、ゆっくりと歩いて近づきながら、その様子を見守っていた。
『教会じゃない所で天使が出てくるのか? だいたい、アレと対峙しているのは悪魔か?』
『いや、妾にも何が何やら分からぬ。天使の前にいるのが悪魔であるが、何故いるのかも理解ができぬ』
『だろうと思った。ひとまず近くに行くぞ。悪魔がいるなら、標的にはならないだろ』
そのまま歩いていると、悪魔が一人の女性目掛けて飛びかかる。
――あの女性は、レベッカか。どうして狙われた?
しかし、間一髪で天使が悪魔の前に立ちはだかり、動きを止めた。そのまましばらく膠着状態が続く。
やがて悪魔は天使から背を向けると、消え去ってしまった。
『まずいな』
そのまま近づけば狙われると判断したのか、イブキは踵を変えそうとした。しかし、そうはならなかった。
イブキの目と、天使の目が偶然重なってしまったのである。天使の黒い瞳が、こちらを正確に捉えてくる。その表情は柔らかな微笑みに満ちており、敵意などは全く感じられない。恐らくイブキは視線を逸らしたかったはずだが、そうはできなかった。
しばらく見つめていると、イブキの感情に大きな変化が起きる。
『そんなはずはない』
心の中で、震える声が聞こえた。
思わず口が開いてしまっている。それは上手く閉じないようで、両手で塞ぎながら天使を見つめている。
『おかしい』
そのままの姿勢で、首を横に振る。呼吸が荒くなる。足が自然と後ずさっているが、視線だけは天使から外していない。
やがて、心の蓋をしている部分から、声が漏れ聞こえてきた。
こんなの嘘だ。
俺はこの世界でも罪を背負ないといけないのか。
『俺は、殺されないといけない……』
イブキの心の中から、絞り出すかのような告白が出てくる。その目からは、言葉とは裏腹に自然と涙が溢れていた。
心が、悲痛な憎しみを訴えている。
こういう風に感情が突然異常を来すことは前にもあったが、今回のそれは異常さが際立っている。
沸騰し続ける激情。普通はどこかで温度が下がり、平温に戻る。しかし、今回のそれは収まる気配がなかった。
激情が心の中を支配していると、私にも悪影響を及ぼす。
『イブキ、気をしっかりと保つのじゃ』
『俺は……俺は……』
しばらく動揺した後に、一言呟いて平静さを取り戻す。イブキにしては珍しく、意欲的で絶望的な発言だった。
『死ねない理由を、見つけた』
そう言うと、一気に心の中が穏やかになった。まるで、先程までのことが無かったかのように。
そうして、いつもと変わらぬ足取りで村日達に向かって歩き始める。
『イブキよ。先程はただならぬ嵐が巻き起こったようじゃが……』
『気にするな。アンタには関係ない』
まともに答えてくれるとは思っていなかったが、予想通り適当にあしらわれた。
―――――――――――――――――――――――
その後、村人達と合流した。
イブキを見つけるなり、ジュストが声をかけてきた。その顔には、満面の笑みを浮かべている。一方のレベッカからは怪訝な表情をして心配する感情が見て取れたが、すぐに平常時の表情に戻る。
「イブキ様、ご無事でしたかぁ?」
「ああ。この通り何ら問題はない。それで、お前らはどうなんだ? 遠目に天使と悪魔がいたようだが」
「そうなんですよぉ。私の妻が悪魔に襲われかけて。でもぉ、ケルビの地位を誇られるマリア様が助けて下さいました」
「天使様は偉大です。私の命を救って下さいました。やはり、私どもは祈りを捧げ続けるべきなのです」
するとレベッカが、わざとらしく祈るふりをしていた。
あからさまに猫を被っているな。
これが二人きりで話していたら、さぞ天使をこき下ろしてたに違いない。
「それにしてもぉ、色々とありがとうございました。何とお礼を申し上げたら良いのか」
ジュストはそう言うと、深くお辞儀をしてきた。辺りに村人がいるため詳しくは話せないようだが、今回の一連のことについて感謝しているのは明らかである。
「ジュストが、新しい司教か。この村も、大きく変わっていくな。それでレベッカの新たな役割は……」
「司教の妻ですわ。レベッカ・メノッティとお呼びください」
レベッカはそう仰々しく言うと、ニヤリと唇を歪ませる。そこには、隠し切れない亜人の本性が滲み出ていた。
「そうか。おめでとう」
イブキは大して興味のなさそうな口調で、二人を祝った。
本心はそう思っていないはずだろ。
私は思わずからかいたくなる。
『お主、計画通りに進んで内心喜んでいるのではないか?』
『ふざけるな。計画の一番大事な天使との対決で、俺は殺されかけたんだぞ。しかも、一番重要な場面でアンタから天使は倒せないというクソみたいなネタバレ付きでだ』
『ぐぬう……』
道端にいる小さな虫を何の気なしにつついたら、急に百倍の大きさに膨れ上がって喰われたくらいの衝撃。
それでも、イブキとの付き合いの仲で分かることもある。
嫌味が長い時は、満更でもない証拠でもある。現に心の中は平穏そのものだ。つまり、ジュストとレベッカが村の主権を奪ったことは、きっとパートナーにとって望む結末に違いない。
「あらあら、随分と盛り上がってるみたいじゃない」
三人で話していた所に、テーアが割り込んでくる。
それに気付いたジュストとレベッカは深々とお辞儀をした。
「テーア様、この度はご協力いただきありがとうございましたぁ」
「何のことかしらね。フェデリコくんが祈りに行きたいって言うから、連れていっただけよ」
テーアはすっとぼける素振りをするが、唇をニヤリと歪ませている。事情を知らない他人からすれば何のことはないが、イブキ、ジュストとレベッカの三人は感情を読み取っていた。
――してやったり、と。
レベッカは、そんなテーアを労うことにした。
「テーア様は、これからお忙しくなるかと思います。今後とも、よろしくお願いいたします」
「あら、それは困ったわね。こんな年増のおばさんに、務まるかしらね」
テーアの口角は、先程よりも上がっている。それは、私から見ても邪悪なまでに歪な形をしていた。しかしそれを見せたのは一瞬で、すぐに口元を手で覆い隠した。
そこに、一人の男が割り込んでくる。
「き、貴様……」
かつての村長で、今はただの色黒の男。ロレンツォであった。
目を真っ赤に充血させて、息を荒くして立っている。その強い感情は、イブキに向けられている。
「ポルカミゼーリァ! 豚以下のクソが! 貴様のせいで!」
「覚えのない因縁をつけてくるとは、村長ってのは余程ストレスが溜まるみたいだな」
「よそ者が! 貴様さえ来なければ!」
ロレンツォはイブキに飛びかかってくるが、イブキは難なくそれをかわしてみせた。
イブキがロレンツォを見つめるその目は、まるで虫か何かをみるかのようなものであった。
「畜生!」
「元村長のくせに、弱いな。マジーアを使うまでもない」
「畜生! 畜生! 畜生!」
ロレンツォはがむしゃらに拳を振るうが、イブキに当たることはなく、ひたすらに空を切る。
やがて、体力を使い果たしたのかロレンツォは息を切らしながら手をつきながら倒れこんだ。
「無様だな」
イブキは見下ろしながら吐き捨てるように言うが、ロレンツォからの返答はなかった。
それにしても、惨めだな。
祈りの時にも醜態を晒し、今回も同じ姿を見せてくれた。私にとって一つ残念なのは、既に大して絶望をしていない点だ。目に入り怒りが再燃したが、大方自身の立場を思い出して、諦めの感情が勝ってしまったと言ったところか。
この村での大勢は、既に決している。イブキがどう動こうとも、結果に影響は与えないであろう。故に、私が悪魔としての欲望を満たしたところで、迷惑はかけまい。
――イブキに、もっといたぶるように助言してみるか。
『イブキ、妾としてはもう少し制裁とやらを――』
「ロレンツォ。司教として、旅人様への一連の行為はぁ、見過ごせないなぁ」
邪魔しやがったな、ジュスト。お前がそうやって偉そうにしていられるのは誰のお陰だと思ってるんだ。
まあ、少なくとも私ではないな。
ロレンツォは顔だけ動かすと、ジュストを見上げた。諦めを伴ったその目は、どこか虚ろであった。
「外部の方への無礼を働く者がぁ、ここの村人でいられる資格はないんだよぉ」
「じゃあ、どうするんだい?村から追放でもするかい?」
「――今、この場で、処刑する。クレメンツァの未来のために、お前は不要だぁ」
そう告げられたロレンツォの顔が、みるみる内に青ざめていく。まさか命まで奪われると思っていなかったのであろう。
ジュストの前で土下座をして、必死に許しを乞う。
「ブジーア! 嘘だ! そんな! どうさ許して下さい!」
「司教である夫が決めたことは、村の総意です。ロレンツォさんも祈りの時に、同じようなことを仰られていましたね?」
「嫌だ! 命だけは助けてくれ!」
ジュストが先導する形で泣き叫ぶロレンツォを否応なくレベッカが強引に掴み、連れ去っていく。
ただならぬ状況に気が付いた村人達は、一斉に二人の後ろを急いでついていく。やがて人は豆粒程の形になり、そして消えた。
後に残されたのは、イブキただ一人であった。いや、何故か隣にはテーアが残っていた。
『どうしてテーアだけが残っているんだ?』
『妾にも、皆目検討がつかぬ』
イブキは心のなかで疑問を口にする。
それが表に出ていたのか、テーアは話しかけてくる。一重の切れ長な瞳からは、いまいち感情が読み取れなかった。
「あら、どうして皆のところに行かないのって顔をしてるのね?」
「クレメンツァの新たな指導者は、ジュストのはずだ。奴はその権力を誇示する意味でも、今後の障害を排除する意味でも、元村長の処刑に踏み切ったはずだ。それを見届けないという判断は、これからの立場を危うくする可能性があると思うが?」
「そんなことを心配してくれているのね。でも、それには及ばないわ。旅人様から、大事な伝言を預かったとでも言えば、どうとでもなるわ」
「俺がそんな嘘に付き合うと……」
「旅人様がこの村から去った後で言うから、気にすることはないわ。それよりも、私がなんで行かないかってことでしょう?」
テーアの問いかけに対し、イブキは無言で頷く。
「下らない権力争いなんか、もう見飽きたからよ」
「――は?」
「これまで協力していたのは、虐げられている立場であることに、我慢ならなかっただけ。目的が達成された今となっては、後のことなんてどうでもいいの」
そう言い切ると、テーアは鼻で笑う。その上で、イブキに人差し指を向ける。
「イブキちゃんに聞きたいんだけど、ジュストくんの司教体制は長く続くと思う?」
「現時点でジュストよりも強い存在がいない以上、短くはないと推測する。無論、強大な存在が登場すれば話しは別だ」
テーアから旅人呼びではなく急に名前で呼ばれたことに反応する余裕もなく、イブキは一見理路整然とした回答をする。
「あら、そうなの。もしかしてイブキちゃんは、トップの首をすげ替えて、ちょっとでも満足しているのかしら?」
「検討違いも甚だしいな。俺は自分に利益があるから実行したに過ぎない。誰かを助けている意識なんてない」
「あくまで強がるのね。まあいいわ。私からすれば――」
テーアは突き出した人指し指を引っ込めると、肩をすくめる。
「――下らない。本当に下らない。上に立った者が下の者を虐げ、また上に立った者がこれまで上だったはずの者を虐げるだけ。私は、自分が誰かを見下せてさえいれば、どうでもいいの。ベンヴェヌーティの王族の娘が、上を見上げるなんて許されないことでしょ?」
テーアは、イブキを流し目で見てくる。静かな怒り、この世への諦め、それら全てを内包して。
「まあ、そうして人間は狂ったループを延々と繰り返すの。ジュストくんも例外ではないわ。イブキちゃんは旅人でしょ? こうやって行く先々で介入している限り、そのループを廻す哀れな道化でしかないの。私も今回は道化を演じさせてもらったけど、イブキちゃんのそれはもっと醜悪で救いがないの。それは、こんな外道が権力側につく結果になったことで、よく分かるでしょ?」
テーアの瞳は妖しげに光り、薄気味悪い笑顔を浮かべる。
こいつ、イブキを嘲っていやがるな。散々イブキの計画を利用したくせして。
「怖い女は、レベッカちゃんだけだと思った? 残念。人を見抜く術は、旅をするならもう少し身につけた方がいいわ」
テーアは言いたい放題言った後、「じゃあね」と手をひらひさとさせながら、去っていった。
――今度こそ一人切りになったイブキは、立ち尽くしていた。
突如イブキの胃袋に、大きな衝撃が走る。それを抑えることは叶わず、倒れ込む。
「うう……おええ……」
その場で嘔吐し始める。
「うああ……」
止まることなく、内容物が地面に散らばる。
『イブキ! しっかりするのじゃ! イブキ! イブキ!』
私は心のなかで必死に叫ぶが、イブキからの返答はない。いや、関わりを拒否しているのか。
嘔吐を続けたことにより、やがてイブキの目から涙が溢れ出す。それは、果たして嘔吐のせいだけなのだろうか。
『イブキ! 何とか言うのじゃ!』
私は諦めずに声をかけるが、返答はなかった。
そうして本心を知ることは叶わぬまま時間だけが過ぎ、日が暮れていった。
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