第9話「決裂と決別の過去」
それから二年が過ぎた。
あの日見た光景は、強烈にインプットされているはずなのに、頭の片隅でアウトプットを拒否していた。
もちろん、誰にも話すことなんてできなかった。
その日も私はキアーラと会っていた。
いつもならここからキアーラの雑学講座が始まるはずなのだが、今日は不機嫌そうな声色で話しかけられる。
「レベッカちゃん、お母さんから聞いたわ」
「どうしたの?」
私が質問した瞬間、キアーラの目付きが鋭くなる。
「――あんたの母親って、悪魔なんだ。それも、サックバなんてマジ最悪」
「え? どういうこと?」
キアーラの発した言葉全ての意味が理解できず、思わず聞き返してしまう。
「知らない振りをするのが上手ね。それとも、そういう風にしろってお母さんから教わったの?」
「いや、だから本当に知らないってば。さもそもサックバって何……」
「この世で最も最低最悪な売女の名称のことよ。あんたはその血を半分受け継いでるってワケ。男を
これまで見たこともないような冷酷な態度で、私の心を抉り出す。
売女って何、半分の血って何、誑かす女狐って何。
何一つ理解できず、私は首を大きく横に振りながら、否定を続ける。
「でも、私は男の人を誑かしたりなんかしてないって」
「とぼけちゃって。そうやって男の同情でも誘ってたの? ホントお母さんによく似てるわ。さすが親子」
まるで人間ではない汚ならしい生物を見るかのような目で、私を見つめてくる。
いや、キアーラの言うことが本当なら、私はもはや普通の人間ではないのか。
それでも信じることができず、一縷の望みをかけた否定しか残された道はない。
「キアーラちゃん、ちょっとどうしたの? 私のお母さんは普通の人だよ」
「いい加減にしてよ! 私のお父さんをお母さんと私から奪っておいて、何よ今更。お父さんはね、あんたのお母さんと関わってからおかしくなっちゃたのよ! いつもカリーナ、カリーナって。終いには慰めようと抱き締めたお母さんの顔を叩いて、お前みたいな女に興味は無いって出ていったわ。あんなにお父さんとお母さんは仲良しだったのに……」
涙を流しながら、キアーラは両手で顔を覆う。
思い出したくもなかった。
二年前のあの場面が、脳裏に蘇る。アウトプットを拒否していた光景が、激流となって雪崩れ込んでくる。
どこまでも、どこまでも、どこまでも。
「――してよ、えしてよ、返してよ」
「えっ?」
鮮烈な映像の世界に閉じ込めらていた私は、キアーラの要求を上手く聞き取れなかった。
「だから返せって言ってんのよ。この、泥棒猫!」
感情を抑制できなくなったキアーラは、レベッカに飛び掛かり髪の毛を掴み勢いよく引っ張り始める。
「やめて、キアーラちゃん!」
頑張って振りほどこうとするが、キアーラの力は異常なもので、ほどけない。偶然、縺れる二人を見た男の子が駆け寄り、間に入ってくる。
「おい、キアーラ。レベッカを放せ!」
この男の子は確か、彼女が好意を寄せていた人だ。
キアーラは強引にレベッカから引き剥がされ、最初は鼻息を荒くしていたが、やがて落ち着き力を失う。
「今すぐ視界から消えて。二度と見たくもない」
俯きながら、どこまでも突き放すような冷たい声でそう言い放つ。
「キアーラちゃん、私ね、キアーラちゃんのこと尊敬して――」
「うるさいわね、消えろっつってんのよ! まだこの状況が分かってないの!? 無知で無神経なのも大概にしてよ!」
愛する家族を奪われ、好きな男の前で恥をかかされ、もはや交渉の余地などない。
「ごめん……」
全てを諦め俯きながら一言謝罪し、そのままキアーラの横を通り過ぎながら歩いていく。
「レベッカ、私はあんたを一生許さない。この町の全員に、あんたらがサックバだったって、言い触らしてやるんだから」
その一言は、レベッカの人生の中で何よりも心の奥底に突き刺さる。
言葉を発することすら許されていない私は、無言のまま帰路に着いた。
―――――――――――――――――――――――
帰宅すると、母親はキッチンで包丁を握りながら料理をしていた。
いつも通り調理器具などが散らばっており、不器用さが窺える。
これまでは、母親に似ていた部分について何とも思っていなかった。事実を知った現在は、紫色の髪と瞳は恥でしかなかった。
「あら、ただいま。今日は早いのね」
娘の帰宅に気付き、向ける微笑みもいつも通りだ。今はそれが悪魔が嘲笑っている様にしか見えない。
「あのさ、お母さん」
意を決して声をかける。人生で当たり前のように使ってきたお母さん、という言葉に口の中が思わず苦くなる。
「なになに、なんか良いことあった?」
「お母さん……じゃないよね、もう。カリーナって、サックバなんだ?」
サックバ、という単語を聞いた途端、母親の顔はみるみる内に青白くなっていく。
手に持っていた包丁が床に落ち、音を立てる。
カラン、カラン、カラン。
「レベッカちゃん、どこで聞いてきたの?」
「キアーラちゃんが教えてくれたよ。カリーナは、悪魔なんだってさ」
放り投げられた単語に、カリーナは口を開けたまま、返す言葉を失う。
「カリーナの、嘘つき。よくもお母さんぶりやがって」
「ち……違うのよ、レベッカ。私はお母さんで、あなたのことを世界で一番――」
「大事にしてるんだったら、何で私の友達のお父さんを奪ってんの!? 何で大事な娘を悲しませるような真似したの? 答えてよ!」
止まらない、何もかも。
大切な親友を失い、出自の潔白さを失い、人間の母親も失い、あったはずの当たり前の生活を失った。
「ち、違うのよ、レベッカ。誤解よ、誤解。私だって生きるために必死で、仕方無かったのよ」
「うざい。意味わかんないよ、もう」
何が生きるためだ、悪魔の戯れ言は理解に苦しむ。
私は裏切られたのだ。自分が母親だと思っていた生物は、母親という皮を被った悪魔だったのだ。
「――さよなら、悪魔さん」
違う生物とは、交渉の余地などない。
かつての母親だった何かに別れを告げると、振り返り背を向ける。もう二度と会うことはないだろう。
歩こうとした瞬間、カリーナからの「レベッカ」と凛とした呼び声で思わず立ち止まってしまう。
「私は、悪魔よ。それもこの世界で最も軽蔑される種族の一つ、サックバ」
改めて、聞きたくない事実を突き付けてくる。
私はカリーナから背を向け続けているため、どんな表情かは推定できない。
「レベッカちゃんもその内、秘めた呪いを抑えられない日がくる。例え亜人であっても、それは変えられない。そうなれば、私の気持ちが少しは分かるでしょう。この世には、生きていくために仕方のないことがあるってね」
まるで餞別のように話を送り込んでくる。
母親のアドバイスとしては、どう考えても異常な内容。それなのに立ち止まって聞いてしまう。
「私だって好き好んでサックバとして生まれたわけじゃない。普通の母親になりたかったわよ。自分の娘を幸せにしてあげて……」
それはあまりにも身勝手な願い。私をこの世に産んだ時点で、それは不可能だと分かっていたはずだ。
「それなのに、こんなことになっちゃって……ごめんなさい……幸せにしてあげられなくて、ごめんなさい……ごめんなさい……」
カリーナは顔を覆いだすと、大粒の涙を溢し始める。それは振り向かなくても、何故か分かってしまう。
他の誰でもない、母親だからだ。
ふざけるな。悪魔のくせに、愛なんか仕向けてこないでよ。
「カリーナ……お母さん……」
どうして、こんなに憎いはずなのに涙が止まらないんだろう。
どうして、こんなに握り締めた拳が痛くなるんだろう。
「いつかこうなるって分かってたのにね。お母さん、どうしようもないくらい馬鹿だから、何にもしてあげられなかった」
「もう辞めてよ……」
ずっと聞いていたいのに、もう聞きたくない。
ここで涙を永遠に流すことはできないし、拳を開いて歩き出さないといけない。
「話が長くてごめんね。でも、最後にこれだけ言わせて。あなたにも父親がいて――」
最後の話を聞き終わると、首のペンダントを引きちぎりながら、私はジェニトーリを出た。
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