第44話 ジーナのストーカー日記

「殿下、お怪我はありませんか?」

 ジュリエッタのドラゴンがスタジアムに戻ると、すぐに声をかけてきた男がいる。

 確か、ラウール殿下とブルーハワイを見張っていた赤毛だ。強張った表情でヴァレンティーノ殿下の前に立った彼は、素早くその視線を走らせて殿下に怪我がなさそうだと確認して安堵の息を吐いた。

「心配をかけた」

 殿下はそう言いながら、ジュリエッタがドラゴンから降りるのを手伝う。それに続いて俺にも手を差し伸べてくれたが、これは受けるべきなんだろうか、と顔が強張る。

 地面に立ったジュリエッタも促すので、仕方なく左手にケルベロス君、もう片方の右手にヴァレンティーノ殿下という不本意な格好で降りることになる。

 だって、これじゃまるで女の子のようじゃないか。

 ジュリエッタはドラゴンの鱗をそっと撫で、感謝の言葉を告げてから召喚魔法を解除した。黒いドラゴンは軽く鼻を鳴らしてから、空へ飛び立っていく。

 いいなあ、召喚魔法。

 リカルド先生に訊いたんだが、俺は使えないらしい。召喚魔法は人間と獣との間に成り立つものであって、神具である俺は対象外なんだとか。

 次々と他の生徒たちも召喚した獣に乗って戻ってくるのを見上げながら、俺はこっそりため息をついた。


 そして、ジュリエッタの姿を見つけたジーナが駆け寄ってきて、次々にいつもの顔ぶれ――マゾ仲間たちが泣きそうな顔でそれに続く。

「ご無事で何よりです、ジュリエッタ様!」

 そんな少女たちの声を背後に聞きながら、俺はそっとヴァレンティーノ殿下の様子を窺った。

 彼の表情は苦く、それを見つめる赤毛も眉間に皺を寄せている。そして、空を見上げてそこに白い鳥が降りてくると重々しい空気が漂った。


「怪我はない?」

 巨大な鳥の背中に乗っていた淫乱ピンクは、そう声をかけたヴァレンティーノ殿下を泣きそうな顔で見つめた後、彼の手を取って降りてきた。そして、少し離れた場所に立っていたジュリエッタを見つけると唇を噛んで睨みつける。

「ヴィヴィアン、殿下への謝罪の言葉はないの? あなたのやったことは……」

 ジュリエッタは呆れたように小さく笑う。

「お姉さまは黙ってて」

「ちょっと」

 ジュリエッタが鼻白んで言うと、その鼻先に淫乱ピンクが人差し指を突きつけた。

「ヴァレンティーノ様に恩を売ったからって大きな顔をしないで」


 その敵意剥き出しの声に、ジュリエッタの口が堅く閉ざされる。疲れた表情の淫乱ピンクは、いつになく可愛らしさが行方不明だ。男性を惹きつける柔らかさがどこにもない。

 気づけば、ヴァレンティーノ殿下も赤毛も二人の様子を息を詰めて成り行きを見守っている。


「……申し訳ございません。カルボネラ家の一員として、謝罪致します」

 やがてジュリエッタがヴァレンティーノ殿下の前に立って頭を深く下げると、そこでやっと淫乱ピンクも今の状況に気づいて小さく「あっ」と声を上げた。彼女が可愛らしい仕草で口を両手で覆い、慌ててヴァレンティーノ殿下に何か言おうとする。しかし、殿下はそれを押しとどめ、薄く微笑んだ。

「確かに、今日の君は行き過ぎていたと思う。私は君の力は買っているし、もしかしたらあの魔蟲も君だけで討伐できたのかもしれない。しかし、周りに注意を払えないようなら引くべきだった」

「でもそれは」

「前も言ったよね。私は君のことを、聖女ではないかと思っている、と。それを受けて、君は過信してしまったのではないか?」

「過信なんかじゃ」


 さらに言いつのろうとする淫乱ピンクの手首を、ジュリエッタが掴んで引き寄せようとする。しかし、それを乱暴に振り払ったヴィヴィアンは涙を浮かべながら叫ぶのだ。


「お姉さまが! 本当はお姉さまが魔蟲を呼んだんでしょう!?」

「はあ? 何を言ってるの?」

 ジュリエッタは振り払われた手をもう片方の手で押さえ、ため息をこぼす。「何故、そんな話になるの?」

「だって、そうなるはずだったんだもの!」

「意味が解らないわ……」


 ジュリエッタは苦々しくそう言った後、ヴィヴィアンとヴァレンティーノ殿下を交互に見やり、胸を張って続けた。

「まあ、結局のところ、あなたは愛した男性を守りたかったのよね? だから、わたしが殿下をお救いしたことが残念だったのね? いいから、落ち着きなさい。もう、大丈夫だから」

 そう淫乱ピンクに静かに言った後で、殿下に向き直る。そして、おそらく周りの視線が集中していることを自覚しているせいなんだろう、いつになく大人びた表情を作って見せた。

「わたしの父からも連絡が来ております。父は、陛下にお願いして殿下の婚約者をわたしからヴィヴィアンにしてもらう予定だと。ですから、わたしもそれを受け入れるつもりでいます」

「何?」

 ヴァレンティーノ殿下が驚いて目を見開いたが、それは隣に立っていた赤毛もそうだった。さらに、マゾ仲間たちも。

「愛し合っているお二人をお邪魔するのは、わたしの本意ではございません。残念ではありますが、わたしは陛下の幸せを願っていますので」

「待ってくれ。そうなのか? そういう話があるのか?」

 ヴァレンティーノ殿下が片手を挙げてジュリエッタの話を遮った。「私には何の連絡も来ていない。婚約者を……変える? そんなことは」

「でも、お二人は愛し合っておられるわけですから」


「では、何故、そう解っているのに妹君に嫌がらせを?」

 そう口を挟んだのは赤毛である。

 柔和な顔立ちなのに、怒りを露わにすると凄みが出る。

「嫌がらせ?」

 ジュリエッタが首を傾げ、赤毛はさらに彼女に詰め寄った。俺は思わずその間に立ち塞がり、赤毛がジュリエッタに近寄らないように邪魔をする。

「そうだ。有名な話だろう。君が妹君であるヴィヴィアン嬢に嫉妬し、あらゆる嫌がらせをしていることは、誰もが知っている事実だ」

 俺の存在を無視して、さらに声を張り上げる赤毛。ムカつく。

「わたしが嫌がらせをする理由はございません。身を引く準備をしていたのですから」

 ジュリエッタは穏やかに微笑み、その背後からジーナがストーカー日記をどこからか取り出して前に出る。この件については前々から打ち合わせしてあったことだし、彼女はここぞとばかりに声を張り上げる。

 正義は我にある、とはこのことだ。

「いつどこで嫌がらせがあったのか、ぜひお聞きください! ここに、ジュリエッタ様の毎日の記録がございます。それも、五分刻みで! 何をしていたか、その場に誰がいたのか、何もかも書いてありますから!」

 と、自慢げに言うが、全然自慢になっていないと思う。

 普通だったら軽くドン引きだが、場合が場合なだけに他の皆はそうは思わなかったらしい。ノートに記録? と興味津々である。


「……その前に一つ、訂正したい」

 ヴァレンティーノ殿下が額に手を置いて、深いため息をこぼした。「愛し合っていると言うのはどこから来たんだろうか。私はヴィヴィアンが聖女であるかもしれないと思って付き添っていただけで」

「聖女だから?」

 俺は何だそれ、信じられない、と口を挟む。

 すると、彼は一瞬だけ俺を見て言った。

「聖女は神の妻であり、神殿で一生暮らしていく運命を背負った女性だ。だから結婚は誰相手であろうが許されてはいない。聖女がいればその国は栄え、魔物も近寄らない平和な地となる。どの国も欲しがる存在だからこそ、私は父に命じられてその可能性を推し量っていたんだよ。もしも聖女であることが確定なら、何としても引き留めておけと言われてね」


「結婚……できない?」

 茫然と呟く淫乱ピンク、それを困ったように見やるジュリエッタ、さらに困惑を深めるヴァレンティーノ殿下。


「本当に婚約者を変える話が出ていると? おそらく、何の根拠もない想像なのだろうが……」

 ふと、殿下が苦笑してジュリエッタの前に立つ。それから、少しだけその顔を引き締めて続けた。

「ただ、私は君のことについて許せない話を聞いてある。これについては、目撃者もいるから看過できない問題だ」

「わたしについて?」

 ジュリエッタが不安げに肩を震わせると、殿下はそっと頷いた。

「君は平民だという少女を階段から突き落としたと。どんな理由があれ、その行為は見逃すことはできないだろう。私の婚約者としても、それは相応しくない行動だ」


「ああ、それはわたしのことですね」

 俺はそこで、そっと右手を挙げて言った。「殿下について暴言を吐いたら、ジュリエッタ様がお怒りになられた件です。突き落とされたのか覚えてませんが、足を踏み外して落ちたのは間違いありません」


 そう、確かそうだったはずだ。何を言ったのかは覚えてないけど、俺がヴァレンティーノ殿下を貶したからとか何とか、そんな理由だったはずだ。


「え? 覚えていない?」

 殿下が驚いて俺を見つめ直し、赤毛も眉間に皺を寄せて俺を見る。

 俺は思わず意地の悪い笑みを浮かべて続けた。

「しかし、もしも突き落とされたとしても些細な問題です! それより重要なのは、ジュリエッタ様という婚約者がいながら、他の女性、しかもヴィヴィアン様と恋人同士のように毎日過ごしている方なんて不誠実の極みだということ。わたしは殿下がジュリエッタ様の婚約者などと認めたくありません。ありませんから!」

 そうとも。

 認めはしない。

 いっそのこと、ケルベロス君たちをけしかけてやろうか、と左腕の中に抱え込んだハスキー犬をさらにぎゅっと抱きしめる。

「いや、君が認めようが認めまいが……」

 殿下は奇妙な顔で俺を見つめた。

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