第2話 とにかく逃げなきゃ!

 クリスが描いた複雑な模様の魔法陣。恐らく、エドウィン家が保有していた魔獣『ヴァンク』の魔法陣。

 

 ――魔法陣からは、稀に本物の魔獣が出現します。


 確かにセルフィスはそう言ってたわね。

 でもまさか、それを目撃することになるなんて!


「は、ハティ! スコル!」


 銀の指輪に祈りを込めると、ポンッと二人が現れた。

 クリスに追い打ちをかけようとしていたヴァンクが、グルリとこちらを振り返る。そして大きく裂けた口の両端がグイン、と不気味に吊り上がった。


『あれあれー!? こっちは本物の召喚士かぁ!? やるじゃーん!』

「ひっ……」

『そうか、お前かぁー!』

「ち、ちが……」

『マユ、逃げるぞ!』

『あれ、駄目!』


 ハティが鞍を宙から出す間に、スコルが口から炎を吐く。ヴァンクが『フンッ!』鼻から息を出すと土煙が巻き起こり、ズアアーッと壁のようにせり上がった。スコルの炎を難なく弾いてしまう。


『めっちゃ美味そぉじゃねぇか、おい!』


 ヴァンクは『キヒヒ』と牙をシャキシャキ言わせながら笑うと、私を見てベロリと長い舌を出した。

 尾てい骨から首筋まで、ゾワワーッと寒気が走る。


 駄目、とにかくこの場から離れないと。こんな化け物、受け止めきれない!


「たっ、食べられるものなら、食べてみなさいよー!」


 恐怖で立ちすくんでしまいそうになる身体を震わせ、死神メイスを振るって無理矢理腹から声を出して叫ぶ。

 その途端、ハティにグイッと背中を引っ張られボスン、とスコルの背中に乗せられた。後ろ向きで鞍に跨る状態のまま、スコルが凄まじい勢いで走り出す。


『なぁにぃ~~、言ってくれんじゃーん!? オレサマから逃げられると思うなよ!』


 ヴァンクは辺りの木々もブルブルと震わせるほどの声を響かせると、ズバン、と魔法陣の中に沈み込んだ。土がモコモコモコッと盛り上がり、私を乗せて逃げるスコルの後を真っすぐに追いかけてくる。


「す、スコル! 追いかけてきてるわよ!」

『チッ、ヴァンクの奴、欲をかきやがったな』

『ヴァンク、バカなの』

「えっ!? えっ!?」


 何が起こっているのか分からず、ヴァンクが向かってくる土の軌道と必死に駆けているハティ達を見回す。


『約定があるから、魔獣は人間を襲えない。まぁ、魔王は寝てるからあんま関係ねぇっちゃねぇんだけど』

『襲えるの、術者だけ』

「それって、魔獣を呼び出した術者ってこと?」

『ウン』

「ヴァンクは私だと思ってるの?」

『うーんと、二人だと思ってる』

「えええ! その誤解、どうにか解けないかなあ……」

『無理。それに、あながち間違いでもない』

『キュン、クォン……』


 スコルの声に、肩に乗っているクォンが反応するように鳴いた。

 ポロポロと涙を溢しながら私の首にすがりついている。


『まーったく、お前のせいだからな、このクソガエル!』

「えっ!? えっ!?」

『クォン、クォン……』


 怒鳴るスコルに、クォンが「ごめんね、ごめんね」とでも言うように涙でぐちゃぐちゃの顔をスリスリと私の首に擦りつけている。


『スクォリスティミ、淋しがり屋の奇跡のカエル』

「それは聞いたけど」

『淋しさゆえに魔獣を呼ぶ。その効果』

「……ええっ!?」


 ギョッとして肩のクォンを見ると「キュン」と一声鳴いた。ペコペコ頭を下げているようにも見える。


『クォンもすんげぇマユに懐いてたし、マユがもし聖女になったら役に立つって。だからじぃちゃん、見逃してた』

「じぃちゃん……アッシメニアが?」

『ウン』


 えーと、どういうこと? 魔獣を呼ぶ?

 それってつまり、クォンがいると、聖女の魔法陣はすべて本物が現れる、いわゆる『魔獣召喚』になるってこと?


「あっ、危ないじゃないの!」

『聖女になったら、だし。まさかこの段階で魔法陣が使われるとは思わねぇだろ』


 私たちがそんな会話をしている間も、ヴァンクは全く諦めることなくひたすら私たちを追いかけ続けている。


「ねぇ、まだ追ってくるわよ! 大丈夫なの!?」

『ヴァンク、ねちっこい。マユ食べるまで、ずっと追いかける』

『完全に捕獲モードに入っちまってるからな』

「ええーっ!」

『でも、オレ達の方が速い。だけど、ヴァンクは体力ハンパねぇ』

『いつか、追いつくの』

「困るじゃない!」

『とにかく、オレ達に任せろ!』

『マユ、守るー!』


 スコルとハティは一声叫ぶと、さらにスピードを上げた。ヴァンクがみるみる離れていく。だけど……諦める様子はない。土煙がずっと立ち昇っているのが見える。


 いったい、どうしてこんなことに……。

 ひどい頭痛と眩暈に襲われながら、私はガックリと項垂れた。



   * * *



『とう、ちゃーく!』


 1時間弱でスコルが連れてきてくれたのは、パルシアン。

 森を抜け、バーンと目の前に広がるのは見慣れた光景。だいぶん遠くだけど、旧フォンティーヌ邸の緑の三角屋根が見える。


 なお、ハティはいない。

『マユ、その黒いのチョーダイ!』

 と言うので制服の上に着ていた黒いローブを脱いで渡すと、あっという間に全然違う方向に走っていった。

 ヴァンクを迷わせるために私の魔精力を帯びた物が必要だったらしい。


『も、駄目、スタミナ切れ……』


 フォンティーヌ邸の姿が見える緑の芝生まで辿り着くと、スコルがよろよろとよろめいて、ボンッと乱暴に私を下ろした。ゼェゼェ荒い息をついている。


魔精力オーラで攪乱しながら走ったからすっげー疲れた……』

「ありがとう。もう大丈夫かな……」

『一応ヴァンクはまいたけど、多分ちょっとした時間稼ぎにしかならねぇ』

「ええっ!?」

『ハティがあちこちに罠をしかけにいったけど、この場所は明日……早ければ夜明け前には突き止められる』

「ど、どうしたらいいの?」

『ここは、ルヴィが張った結界が生きてるから少しは足止めになる。でも、もう出れない』

「え、ここに閉じこもるしかないってこと!?」

『しばらくは。オレはもう限界だけど、回復して月が出たらハティがこっちに来るだろうから、それまで……』


 その言葉を最後に、ヨレヨレになったスコルはポヒュン、と姿を消した。

 そうか、召喚のタイムリミットだ。

 しかもただ逃げてただけじゃなくて、魔精力を使い、簡単にはヴァンクが後を追えないように魔法もかけてくれていた。体力も魔精力もギリギリまで消耗しながら、私をここまで逃がしてくれたんだ。


 でも……どうしたらいいんだろう、これから?


 途方に暮れながら、辺りを見回す。

 緑の芝生が広がる向こうには、旧フォンティーヌ邸が見える。太陽は西に傾きかけて、芝生の上に座り込んでいる私の影が少し長く伸びている。


 確か今日は、上弦の月。太陽が沈めば西の空に月が現れるだろう。多分、あと2時間ほど。

 ハティは天に月があろうとも太陽の光が強い間は姿を現すことができない。しかも今日はだいぶん消耗していたし……。


 二人に頼りっぱなしというのも駄目よね。私ができることを考えよう。

 とは言ってもなあー。魔獣ヴァンクとか、どうしたらいいのやら。


 ちょっと待って。状況を整理してみよう。

 クリスが描いたのは、魔獣ヴァンクの魔法陣だったということよね。歴史学のテキストにはどの家がどの魔法陣を所有しているかまでは書いてなかったからなあ。エドウィン伯爵家がヴァンクを所有していたのか。


 クリスは「女を狙え」ってはっきり言ってたわね。本当ならヴァンクの何かの魔法が発動するはずだったんだろうけど、本物が出てきたために召喚者であるクリスを攻撃した、と。

 クリスは、最初から私を殺すつもりだったんだ。どうしてだろう。いつから考えてたんだろう。まさか、最初から? あの、上流貴族控室で話しかけたときから?

 何の恨みを買ってたんだろう。大公子妃を狙う令嬢達ならともかく、男のクリスが何で……。


『キュン』


 首筋に張り付いてたクォンが小さく鳴く。

 いつの間にか体育座りをして膝におでこをこすりつけていた私は、ハッとして顔を上げた。


「ねぇ、クォン。クォンは絶対に魔獣を呼んじゃうの?」

『クォン……』


 どうやらそうらしい。魔法は一切使わないクォン、その奇跡の存在ゆえかな。

 そうだ、フォンティーヌ家は最強の魔獣、フェルワンドの魔法陣を所有してるんじゃなかったっけ。

 クォンがいれば、確実にフェルワンドを召喚することができる。フェルワンドならヴァンクをどうにかしてくれるんじゃ。


 ……いやでも、今度は私がフェルワンドに食べられちゃうわよね。フェルワンドが私を認めてくれるかな。

 うーん、でも、ハティとスコルのお父さんだし、コネでどうにかならないかな。楽観的過ぎるかしらね。

 それにそもそも、どこにフェルワンドの魔法陣は保管されているのか……。



“――マユ”


 ぬるっとした生温かい風が頬を撫でた。その風が、運んできた声は。


「セルフィス!」


 目の前に、ゆらりとセルフィスの影が現れた。

 いつもは実態と見分けがつかないぐらいはっきりとした姿なのに、今はまるで蜃気楼のよう。すぐにも消えてしまいそうな。


「セルフィス、どうしよう! ヴァンクが……っ!」

“……はい”


 セルフィスの表情が、心なしか苦し気に歪んだ。『影』を維持するのも難しい状態なのかも。

 愚痴ってる場合じゃないわ。むしろ知恵を借りないと!


「ねぇ、どうすればいい!? 私に何ができるかな!?」

“できます。マユなら、望めば”

「今はそんな禅問答みたいなこと聞いてられないのよ! だから……!」

“未だやっていないことを。――答えは、そこに……”


 セルフィスの言葉はそこで途切れ、まるで炎が消えるようにその姿はかき消えてしまった。

 その歯痒さに、ダンッと拳で地面を叩いてしまう。


「ん、もう! 肝心な時に!」


 あの夜だって、中途半端なこと言って消えちゃったわよね!

 ああいうときは、ぎゅっと抱きしめて慰めてほしかったのに! 影なんかで会いに来るから!


「もう、バカバカバカー! 頑張れって言ったって、モノには限度ってものがあるんだからねー!」


 私の大声が、緑の芝生にむなしく広がっていく。

 ……とはいえ、大声を出したらちょっとスッキリしたわ。


 あの夜も。セルフィスは、私の涙を拭って消えちゃったのよね。

 私に触れると影が壊れるからと言って、絶対に近づかなかったのに。


 そうか、私に泣いてほしくなかったのか。

 そう思って、目の前で本当にセルフィスが消えたのにもびっくりして、涙はピタリと止まった。


 泣いたって、ミーアがヒロインであることには変わりないし、ディオン様がミーアに惹かれている気持ちを止めることもできない。

 私は彼らの恋愛を阻む邪魔な存在――悪役令嬢で、もう最後までそれで突き進むしかないんだって。


「――そうよね。やるしかないわ」


 こんなところで、物語から途中退場する気は無いわよ。

 ディオン様の婚約者として、公爵令嬢として、『聖なる者』を目指す者として、恥ずかしくない振舞いをしよう。

 ミーアが歯噛みするぐらいの華麗な悪役令嬢であり続けるわ。それがせめてもの、私の意地よ。


 そのためには、ヴァンクをどうにか退けてロワーネの森まで戻らないと。『野外探索』の試験は、まだ終わってないんだから。

 さて、今の私に何ができるんだろう。まだやってないことは――。


「……あ」


 フォンティーヌ邸の、三つの緑の三角屋根。その一番右側の屋根が目に入る。


 初代フォンティーヌ公爵の書斎の下、開かずの図書室の向こう。

 ハティ達と会って、その後アルキス山の魔物討伐する羽目になって、そしたら学院に行かなくちゃ、となって――そのまますっかり忘れてたけど。


 あの魔精力が偏っていた場所、まだ調べてなかったわ。

 というより、どれだけ探しても扉が見つけられなかったのよ。

 でも、あのときより成長した今なら、ひょっとして……?


 グッと、自然に死神メイスを持つ手に力が入る。すっくと立ち上がり、パンパンと制服に付いた草を払った。


「よし、行ってみよう!」


 とにかく声に出して自分を奮い立たせると、私は旧フォンティーヌ邸に向かって、真っすぐに駆け出した。

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