42. 伯剌西爾にて。
スーツケースを引き摺るヒカルは、マコトと手を振り合って彼に背中を向ける。
“搭乗口”と書いたゲートをくぐると最後にもう一度後ろを向いて手を大きく振った。マコトは周りを気にしながら彼なりに大きく手を振り返す。
春の兆しが見え始め、アヤノはもうクリニックでのアシスタント期間を終えた。皆が可愛がっていた彼女がいなくなってモチベーションは下がる一方だが、高校卒業を待つよりほかにない。
彼女に続いてヒカルもクリニックを出ることになった。とは言っても彼の不在はたった3日。
ヒカルは伯剌西爾へ飛び立とうとしていた。
ゴオォォォー……
機体が加速して角度を付けて飛ぶ。何度か飛行機に乗ったことのあるヒカルも、空を飛ぶ無重力のような感覚には慣れそうにない。
南半球にある伯剌西爾はニッポンとは真逆に夏で、28度程度で猛暑というわけではないが湿度の高さもあり、この気温にしては汗をかく。
あまり外国に来た実感がないままあのときの伯剌西爾人講師、ヴィトールに言われた通りFゲートの前で待っていると彼はやって来た。スーツ姿のヒカルとは違い、カジュアルな服装をしている。
彼は大きい目を細め、優しい笑顔を見せた。
「Hello!」
から始まった会話は案外スムーズに進み、ヒカルは勉強の成果を実感する。
またヴィトールは通訳された言葉とは少し印象が違い、豪快で明るい話し方をする人で、ヒカルにとっては話しやすかった。
彼らは握手を交わし、まずはヴィトールがアロマに関する研究をしている研究室を見学することになった。
ジャケットを脱いで白衣を羽織りながら、スーツで来る必要はなかったのかもしれないなと思った。暑いし動きづらいし、どうせ脱ぐならば着ないほうが良かった。
白い機械が並ぶ殺風景な研究室には様々な瓶が並んでいて、その中には見たことのない名称のラベルをつけられたものもいくつかある。
伯剌西爾で最も優秀といわれる彼の研究室には、ただのいちセラピストに過ぎないヒカルは触ることができなかったであろう高価な器具ばかりがあった。
ヴィトールはヒカルをとある顕微鏡のところへ呼び、覗き込むように言う。
「綺麗なピンク色。合成が完璧に成功しているということですよね?」
「そう、これは合成が難しいと言われるジャスミンとネロリの合成成功液体だよ。君がジャスミンの香りだからさっき作っておいたんだ」
ジャスミンの甘くアジアンな香りとネロリの爽やかな香りが程良くマッチしたその液体を、小瓶に詰めてお土産に持たせてくれた。粋な計らいだ。
「涙を入れて成功した例のひとつですか?」
ヒカルが尋ねると、ヴィトールは親指を立てて「Yeahー」と陽気に言う。
「それに気が付くまでは成功率が1パーセント未満だったけど、今ではもうほぼ100パーセントだ」
そして彼は涙をどのように採って入れるのか、どのくらい振り混ぜるのかを実践して見せた。
その様子を映像として脳内に記録しながら、メモを必死で取って紙面に記録する。
さらに他の最先端の研究の内容と結果を詳細に説明され、その都度メモを取った。
ほぼ全ての器具をノンストップで説明し終わったとき、ヴィトールは息切れしているように見えた。彼はそれほど熱量を持って説明してくれたのだ。
もちろん君の嗅覚を使ってやりたい研究もあるが、実はとある男が君に会いたがっているんだ。そう彼は言って、その男の元へと案内すると申し出る。
彼に着いて暑い外を少し歩いたところにあるレストランに入ると、何でも好きなものを頼めと言われた。
なのでヒカルはガイドブックで目星を付けていたムケッカという料理を注文する。ムケッカとはシーフードの入った、ココナッツミルクのシチューだ。
料理が運ばれる前に互いの国の民族衣装や食文化について会話をしていると、ヒカルと同い年くらいの綺麗な見た目の男が入店する。
その男をヴィトールが手招きして席に着かせる。
「彼が君に会いたいと言っていたペドロだよ、若いのに優秀なセラピストなのさ」
「初めまして、ペドロ・アルメイダと申します。ヒロセさんの嗅覚の鋭さに関する噂は、地球の反対側であるここ伯剌西爾でもよく耳にしますよ」
ヒカルより煌めく金髪を耳にかけると褐色の肌が覗く。青色の宝石のような瞳が見えなくなるほど細められた。しかしよく見ると意外にもペドロは服がはち切れそうなくらい筋肉が付いている。
骨張った男性的な手と握手を交わしながらヒカルはたどたどしいエイゴで自己紹介する。
「初めまして、ヒロセヒカルです。そんな優秀な方がどうして私に会いたいと?」
「実は彼も特殊能力を持たないんだ。だからその点で同じ君に会いたいと頻繁に言っていたよなあ」
「ちょっとヴィトールさん!」
にやにやして勝手に答えるヴィトールを、慌てた様子でペドロは制止する。
一呼吸置いて長い前髪を横に払って、
「すべて言われてしまいましたが……特殊能力を持たないセラピストはあなたしか知らなかったもので」
と笑った。ヒカルにとっても同じ特性を持つ人は彼が初めてなので高揚感に包まれる。
それから三人で日本では食べられないような国の料理を堪能した。
ヒカルと四歳しか変わらないペドロは次第にかしこまった言葉遣いからラフな言葉遣いになっていき、ヒカルも気楽にニッポンのことについて話した。
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